夜のノウィン
夜のノウィンに浮かび上がるアナスタシアの姿。夢見心地の僕は立ち止まってしばしそれを眺めていた。彼女も僕がそこに留まるのを確認するように少しの間こちらを見つめ、そして改めて口を開いた。
「ありがとう、来てくれたんだ」
そう言うアナスタシアの言葉を聞いて、少し不思議に思った。何故不思議に思ったのだろうか。これが夢なら不思議も何も無い。
「少し歩こっか」
そう言い、僕の前に立って道を歩き始めるアナスタシア。僕もまだ歩き足りないと思っていたので素直に彼女の後について歩いた。ついてくる僕を確認したアナスタシアはまた少し笑ったように見えた。
彼女の隣に立って歩き、夜のノウィンをゆっくりと眺める。たまにアナスタシアと目が合うが、夢と思えば気まずさを感じる事は無かった。
「ごめんね、私のせいで」
アナスタシアは言った。
「私がダンジョンなんかに誘わなければもっと違った結果があったかもしれない。二人を無理やり引き合わせなければ……」
「別に……」
なんと言えばいいのかわからず、返答が短くなる。
アナスタシアの件が無かったからってマリアと関係を修復できた想像がまるでできない。だが全くその可能性が無かったかというとよくわからない。アナスタシアのせいではないと言いたいが、そう言えるだけの根拠が見つからずにそれ以上の事は何も言えなかった。
夜のノウィンを歩き続ける。彼女は僕の返答をどう思っただろうか。彼女の顔を横から見つめてみても、その奥への想像は拡散して一つ所にまとまらない。何かを言いたい気持ちはあったが、何を言いたいのかもそれをどう言葉に表すのかもまるで見当が付かなかった。
そうこうしている内に気付けば村外れの湖の前に来ていた。夜というだけでなく、ここにはあまり人は近付かない。森にも面した深い水場は一般人にとっては少し危険な場所だからだ。
「ねえ、一つ聞かせて」
美しく幻想的な夜の湖を眺めながらアナスタシアが言葉を発する。
「マリアの事、嫌いになったの?」
マリア。彼女の口からその名前を聞いた瞬間、胸の奥がどくどくと騒がしくなる。まるで今まで全く動いていないようだった心臓がここに来て突然その存在を思い出させてくる。
僕は顔を背けてただ沈黙していた。夢の中の頭はまったく上手く働いてくれないが、業のように
「お願い、答えて。私は聞かなきゃならないの」
まっすぐこちらの目を見て訴えかけてくる。反射的に僕も彼女の顔を見た。彼女は真剣に祈るように僕の返答を待っている。僕は目をそらす事ができなかった。
「マリアの事、嫌いなの?」
再度、アナスタシアが同じ質問を投げかけてくる。
さっきからずっと満足な言葉を発せていない自分がもどかしい。何かを言わなければ。アナスタシアが聞きたがっている、それに応えなければいけない。
「そんなんじゃない……好きか嫌いかで言ったら今も好きだ……」
ようやく、そんな一言だけを発する事ができた。あともう一言二言喋りたいとも思うが、やはり言葉は出てこない。
そうだ、マリアが嫌いとかじゃないんだ。
マリアが許してくれた事で、マリアの事はもう済んだ事だとも言える。
マリアではない。
僕がマリアと一緒にいる時に思い出してしまうのはステラの事だ。
僕はマリアといるとステラの事を、ステラを殺した事を思い出してしまうのだ。マリアへの好意、マリアの暖かさを通じて、どうしてもかつて起こしてしまったあの出来事を目の前に見てしまう。だから怖くて怖くて、なんとかして彼女のそばから遠ざからないとって、それだけしか頭の中で考えられなくなってしまうんだ。
「そっか……嫌いじゃないんだね……」
確認するようにアナスタシアが呟く。
「でも、もう会う事ができない? 会うと辛い?」
僕は頷いた。全てを言う事はできない。だがそう聞かれればハッキリと肯定する他にない。もう無理なのだ。それをおそらくマリアもアナスタシアも解っている。
「ありがとう、聞けて良かった」
アナスタシアは小さく微笑んだ。その微笑みの意味は僕にはわからなかったが、彼女は少し安心したように感じた。
彼女はまた歩き出した。村の方へと戻る方向……いや、わずかにそこから外れるような不明瞭な道筋にも見えた。僕のように歩くこと自体が目的なのだろうかとぼんやりと考えていた。そうして見ている内に彼女との距離は段々と離れていく。
「これは別に答えなくてもいいんだけど」
その歩みがぴたりと止まり、またアナスタシアの声が聞こえる。距離が遠くなったにもかかわらずあちらを向いたままだから声も大分小さく聞こえる。
「私の事は嫌いになった?」
なんでもないような声音で尋ねるアナスタシア。首が地面の方を向き、片手で服のすそをいじっている。
「なってない」
一言の返答。短い。もう少し言わなくては。
「わかってるさ、お前らが良い奴だって事」
彼女が何か言う前にもう一言をなんとか絞り出した。これで良いのかわからない。まだ足りない気もして頭が動いているがほとんど空回りだ。
「そっか」
やがてアナスタシアはただそれだけを言った。ぽつりと呟いたようにも聞こえる一言。そして足を踏み出し、夜のノウィンを駆けて僕の知らない方向へと去っていく。
やがて夜の世界には僕一人だけが残されていった。人が全て消え去ったような静けさの中でぼんやりと過ごす。僕は彼女の跳ねるような足取りを夜のノウィンに思い描き続けていた。
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