ここは死地

 近くにいるだけで傷を負う凍気を放つ巨人、フロストジャイアント。突如Cランクダンジョンの最奥に現れたAランクの強さを誇る異物。冒険者の死因において上位を占める、ボス部屋においてのその番狂わせ。


 パーティの先頭が掛け声と共にドアを蹴り開けているだけと思われがちな開門の儀だが、その実ダンジョン攻略の中でも特に重責を担う場面である。ドアを蹴り開けるあの一瞬の間にボスの強さを見極め、やるか引くかの号令を掛ける重要な仕事。もちろんAまで駆けあがって来た新進気鋭のパーティ太陽の絆もそれをおろそかにした事は一度も無かった。


「え、あれって……」


 だが太陽の絆というパーティにおいてそれを担当してきたのはリーダーのジョシュアである。アナスタシアにはボス部屋のドアを開けた経験など一切無い。そもそも彼女らはAランクに足を踏み入れてまだ日が浅く、ノウィンの復興に掛かり切りだった。フロストジャイアントの実物なんてきっと見た事が無かっただろう。


「イレギュラーだ! 逃げろ!」


 固まっていたアナスタシアがびくりと肩を跳ねさせた。僕の怒鳴るような警告の声により場の空気は急速に塗り替わり、パーティは死線の内側を自覚する。


 数秒前の自分を引っ叩いてやりたい気分だった。自分が先頭に立ち続けなかったミス、ボス部屋のイレギュラーを想定していなかったミス、そしてその全ての失敗に気付かなかった迂闊さ。間抜けな僕らはダンジョンに入りながらダンジョン以外の何かと戦っていたのだ。


 巨人は驚くような瞬発力でこちらへと踏み込み、腕に持った斧を振り下ろしてきた。スケールのでかい巨人がただ一歩踏み込むだけで、腕を目いっぱい伸ばすだけで、その攻撃の届く距離は計り知れない。


「ステーッ……! いや、盾のあの……うおりゃ!」


 僕はその破格のスケール差を上回る無理矢理な瞬発力でアナスタシアの前に回り込み、あらゆる攻撃を通さない例のステータスウィンドウを展開して攻撃を食い止めた。本当は攻撃の届く前に瞬殺してしまう事も可能だったが、冒険者ライトの手札としてふさわしい対処法はこれしか無かった。


「ぼさっとしてないで逃げろ! 僕が盾のやつで防いでおくから!」


「ご、ごめん! ありがとうライト!」


「すいません!」


 ミスに気付いたアナスタシアとマリアが全力で後退する。ジョシュアとガンドムも含めたフルメンバーなら対抗できたかもしれないが、今この場にいるのは彼女たち二人だけだ。僕の真の実力を計算に入れないならば撤退以外の選択肢は無い。


 だがそこで奇妙な事が起こった。逃げるアナスタシア達の動きが突如としてぴたりと止まったのだ。いや正確に言うと足は動いているのだが、駆ける足が水中で暴れるかのようにその場でバタバタと空回りしている。


「えっ? あれ!?」


「こ、これは!?」


 突然の事に混乱する二人。そしてその体はそのまま宙に浮き、部屋の中央まで一気に引き寄せられていった。


「まさか……フロストジャイアント!?」


 思わず巨人の方に顔を向けると、武器を持っていない方の手に魔力を込めているような仕草が見て取れた。今のは『力』の魔法、『テレキネシス』に間違いない。こちらの逃げ足をくじいた恐るべき魔法戦士が、身動きの取れないアナスタシアを狙って超重量の斧を振るった。


「『エクスプロージョン』!」


 アナスタシアは飛ばされながらも杖の先から爆発を発生させ、斧と自分の軌道をずらし、攻撃を回避した。爆発は巨人に対しての牽制と目くらましにもなり、彼女は床への着地から十分な距離を取る事に成功したようだ。


「危なかったあ! 嘘でしょ、なんなのあれ!」


「テレキネシスだ! 奴は魔法も使うんだ!」


「そんな! Aランク上位モンスターじゃないですか! なんとか逃げないと……!」


 だが相手はこちらの逃げる足をすくって攻撃を仕掛けてくる。逃げるにせよ、数秒の無力化は大前提……それは普通に戦って勝利するのと半ば同じくらいの無茶を要求するものだ。


 その上、念動力によって飛ばされた彼女たちは巨人を挟んでドアの反対側にいる。非力な魔法使いが分断された危険な状態。あの巨人に戦局を見極める頭があれば、次の瞬間にも彼女たちから仕留めに掛かるだろう。


「『ファイアボルト』!」


 僕は入り口から大きく横に移動しながら、フロストジャイアントに何発かの炎を打ち込んだ。とにかく彼女達から注意をそらすのが先決だ。僕は僕が怪しまれない範囲の魔力で敵への攻撃を繰り返していった。


「『サンダーボルト』!」


「『ファイアボール』!」


 だが分断されたマリアとアナスタシアもまた入り口に駆けながらフロストジャイアントに攻撃を放ち続けていく。せっかくこちらに向きかかっていた敵の注意がより強力な攻撃を放つ二人の方へと向いてしまう。


「おいやめろ! 何してるんだ、敵を引き付けるのは僕だ!」


 こちらが必死に敵の注意を引き付けようとする中で、尚も二人は巨人への攻撃を緩めない。これは分断された魔法使いが取るべき行動としてはあり得ないもので、何なら自殺行為とだって言っていいぐらいの行いであった。


 ……いや違う。本当を言えば、彼女達の行動は正しいと言わざるを得ない。彼女達は一番弱い僕・・・・・を守ろうと自分達の方に注意を向けようとしているのだから。


 周知の通り、かつての僕はいくら最強の盾を持っているからってそれを使いこなす立ち回りなんてできない凡庸な冒険者だった。単純に戦士として見てもその実力は並。一たびAランクモンスターの注意が僕に向けば、その結果がどうなるかなんて火を見るよりも明らかだろう。


 だから僕が僕の実力を隠し続ける限り・・・・・・・・・・・・・・・、彼女達はずっと僕を守り続ける。何故なら彼女たちは仲間を見捨てるような事は絶対にしない。いつか一緒にパーティを組んでいた時だって、僕をパーティから追放・・した時だって、彼女達は常に僕の命の事を考え続けていたのだから。


「ボオおおっ!」


 フロストジャイアントが巨大な斧を横に振り、二人を狙う。大ぶりな一撃をマリアとアナスタシアはかがんで避けた。その隙に僕も少し強めに魔力を込める。


「こっちだ化け物!」


 冒険者ライトとしてはあり得ないほどの威力のファイアボルトが敵に突き刺さり、その巨体がよろめく。斧を振った反動と合わせたため、二人からも不自然には見えないだろう……なんて、この期に及んでまだそんな事を考えてしまう自分につくづく嫌気が刺してくる。しかしとにかく強力な一撃を叩き込んだ事により、敵は僕こそが一番の危険だと再認識するはずだ。


「ごおおおおお!」


 だが怒りに燃えたフロストジャイアントはこちらを向いて攻撃を仕掛けてくるような事はせず、代わりに全身を大きく振るわせて筋肉を膨張させた。


 直後、フロストジャイアントの体表から勢いよく白い煙が噴き出してくる。あらゆる物体を極限の低温まで追い込む必殺の凍気である。密閉されたダンジョンの突き当りでその煙は瞬く間に充満し、普通の生物ならまともに身動きすらできない死の空間ができあがる。


 当然の事ながら、丈夫さ999999の僕はいかなる極限状態にだって負けはしない。アナスタシアは火と氷の魔力を持つため、敵の凍気にある程度余裕を持って対応する事ができる。


 だがはそのどちらでもない。彼女の魔力は雷と聖であるため、ボス前にパーティ全員に掛けたおおまかな保護魔法プロテクションしか頼れるものが無いのだ。もちろん彼女もAランクにまで上り詰めた冒険者であるため、一般人のように一瞬で息の根を止められたりはしない。だがこの凍てつく寒さの中ではどうしても動きを鈍らさざるを得ず、それはこの戦闘においての相対的な穴となる。


 そしてフロストジャイアントはそれを見逃さなかった。


 奴は斧を両手で握り締め、渾身の力を込めてマリアに振り下ろした。すんでの所で飛びすさり直撃は避けたマリアだが、破砕されたダンジョンの壁と床が嵐のように彼女の体を打ち付けていった。


「マリア!」


 アナスタシアが悲鳴のような声を上げる。かろうじて連携を取れていた二人は大きく分断され、もはやマリアを守る者はいない。物理攻撃に対する防御魔法を持たないアナスタシアはせめて自分に注意を向けようとありったけの魔法を敵に浴びせるが、フロストジャイアントはそれを後回しに片腕で身を守りながらマリアへと大きく跳躍した。それがトドメのための跳躍である事は誰の目から見ても明らかであった。


「逃げて、二人とも!」


 マリアが魔力を携えた両手を構えながら叫ぶように言う。自分の全てを投げ打ってでも巨人に対峙せんとするその一言。血のような必死さがにじむその一言が僕の鼓膜を大きく震わせる。


 体の全ての水分が沸騰するような怒りが全身を駆け巡るのを感じた。


 何故どいつもこいつも人殺しの僕なんかを気にして心を痛めたり気を揉んだりしている。何故こんな薄汚れた存在のために命を賭けようとまでしてしまうのだ。彼女は生死の境に置かれたこの期に及んでまだこちらの事を考え続けている。そんな彼女を前にしてまだ自己保身のために実力を誤魔化す……そんな人殺しに何故僕はなってしまったんだ。もはや悔恨でも罪悪感でもなく、こうまで卑劣な存在へと我が身を貶めるこの状況に対してとてつもなく大きな怒りを抱いていた。


 取り繕うつもりもない、これは言うなればただフラストレーションが限界を迎えただけの事。かつてノウィンで怪しい二人組を前に抱いた衝動、ポヌフールで心の内を晒したジョシュアに対して本当なら全てを打ち明けてしまいたかった苦悩。それ以外にも様々な場面における不満が解消されないままに、ついにここに来て心の器の中身が盛大に溢れてしまったのだ。


 言うなればの欠乏。


 他者を欺き過ごす生き方の中であまりにも目前の正義から外れ過ぎてしまった事による抑えきれないほどの不満。それがここに来てついに僕に一切の大局的な見方を放棄させ、ただ場当たり的な正義衝動へと内なる魔力を突き動させるに至ったのであった。


 目の前で人が襲われている。僕には力がある。考える必要すら無い。


 もはやAランクモンスターの動きなど止まって見える。覚悟を決めたマリアがせめて一矢報いようと精神を集中させている。その覚悟が現実になる瞬間などもう永久に来やしない。


ウィンドカッター・・・・・・・・


 超高密度の空気の塊がフロストジャイアントの足元へと発射され、一瞬で地面へと着弾する。解き放たれた空気のうねりが無数の風の刃を生み出し、その幾重にも折り重なる斬撃はコンマ一秒足らずでその巨体を千を超える数にまで分割した。


「え!?」


 吹き上がる殺戮の風が巨人の肉体を縦横無尽に横断しバラバラに分かれさせ、部屋の上空へと巻き上げていく。目の前のでかい障害物がはけて視界が開けた数秒の後、手のひらに乗せられるほどの大きさとなった無数の肉片がボタボタと濡れた音を立ててボス部屋の床へと降り注いでいった。


「え? ……え、なにこれ?」


 アナスタシアがぽかんとした声を上げる。マリアが両腕を突き出したままに驚愕の表情を浮かべ固まっている。実感の伴わない静寂の時間が二人の間を流れていくのを感じる。


「私達……助かってる……?」


 それでも呆然とした顔でアナスタシアが事態を確認するようにそう言った。マリアが魂の抜けたような様子で両腕を下ろす。そのまままた何秒か静寂の時が流れる内に、二人が徐々に危機を脱した実感を得ていくのを感じた。ついでに僕も段々と冷静になってきた。


 自分のした事の言い逃れのできなさにじわじわと冷や汗が湧いてくる。突然倒されたAランクのモンスター。マリアは襲われていて、アナスタシアも援助攻撃をしていた。残るのは誰かなんて考えるまでもない。


 やがてこれ以上何も起こらないボス部屋の中、アナスタシアがちらりとこちらに顔を向けた。思わず目線を逸らしたくなる。何を言いたいのかは不明だが、少なくともその視線には僕を挙動不審にさせるだけの力があった。


「い、いやあ何だったんだろうな今の! 急にフロストジャイアントが切り刻まれてさあ! おかしいよなー!」


「え? いやライト、今ウィンドカッターって言ってたような……」


「ぐほお!」


 くそ、風魔法なら見えないだろうと思ったのに! あの戦闘の最中に魔法の声を聞き分けることができるなんてどんだけ耳が良いんだよこいつ!


「えっと、あの、じゃあライトさんが助けてくれたんですか?」


「え!? い、いやそれはだから違うんだって! あれはただ言ってみただけっていうか……!」


 いつの間にかこちらに来ていたマリアまでそんな事を言い始める。僕はとにかく肯定だけは避けながらも、なんとか他の言い訳が無いかを頭の中で必死に考える。


「……ありがとう、ライトさん。……もう会えない・・・・・・と思ってた」


 その一言を聞いた瞬間、頭の中でこねくり回していた全ての言い訳が吹っ飛んだ。


 今はもう空しく響くようになった感謝の言葉。ただステラの代わりとして振るうだけの力に感謝などふさわしくない、それを本来受け取るはずだった人間は別にいたのだから。


 だが同時にそれは安心の言葉でもあった。マリアが生きていられた事、僕が生きていられた事、それを彼女が心の底から喜んでほっとしているのを示す言葉。彼女がまだ僕という人間を諦めないでいてくれている事、彼女はまだ僕と一緒にいるつもりなのだという事、それをただ一言のもとに僕に実感させるだけの言葉。


「マリア……あの……」


 ボスを攻略したらすぐに退散するはずだった僕が、何故かマリアに対してしどろもどろな言葉をかけていた。人殺しには許されていないとひたすらシャットアウトしていた他者との繋がり。それに今更また手を付けようとする不可解な行動。


「もー、何してんの二人とも!」


 二人で顔を付きあわせてまごまごしていると、アナスタシアが横から声を上げる。


「ほら握手して仲直り! これでいいでしょ!」


 アナスタシアが手を片方ずつ取り、僕らを引っ張って近づける。ここ数日体験したことのない至近距離に近付いてくるマリアに、妙に夢のような現実感の無さを感じる。


 二人を繋ごうとするアナスタシア。まだ戸惑いながらもそれをこばまないマリア。僕がそれらを台無しにするのは簡単だった。だがその抗う気持ちが僕の中から急速に薄れていっているのを感じる。



 ほら握手して仲直り。これでいいでしょ。



 もう本当にこれでいいんじゃないか? マリアもアナスタシアも僕がおびえるほどは僕を責めるような姿勢が見られない。いや、というよりはそんな素振りは初めから無いに等しい。


 解っている。それが単に僕が秘密を明かしていないからに過ぎないって事は。


 だけどこれからずっと罪人として誰も寄せ付けずに生き続けるなんて不可能じゃないか? 今日や昨日みたいな態度で本当にノウィンの村民達と共に過ごしていく事ができるのか? 全てに開き直ってマリアと一緒になり、そして同時にステラの遺志も達成する。それが今にも折れそうな僕が取れる唯一現実的な償いの道筋ではないのか?


 開き直る勇気が必要だった。進んで汚くなる勇気が。人殺しとしての罪を抱えながらその懺悔を現実的な範囲に設定し狡猾に生きるという、その決断が。


 そうだ、これは別にステラの遺志を優先しての事ではない。ただ単に僕はもう限界だったのだ。人殺しとしての自分を責め続ける生き方に先が見えず、方向転換をせざるを得なかっただけ。僕はもうずっと救われるしかなく、ついに目の前の救いを拒む事すらできなくなってしまった、ただそれだけの話だった。


 だから僕はアナスタシアに導かれるままに腕を伸ばした。こちらに差し出されたマリアの手を取り、遠慮がちにでもしっかりと握り締めた。


 マリアが安心するように微笑んでくれる。それを見た僕もまた笑みを浮かべる。


 息を一つ吐いた。ようやく一つの何かが終わるのだと。


 別に何の罪を清算した訳でもない。だが僕はこれを境にまた人間として生きるようになる。人と笑い合い、食事を楽しみ、夜に眠る、そんな当たり前の生活をこれからは送っていくだろう。


 触れるマリアの手の平から暖かさが体の芯へと伝わってくる。その暖かさは僕になんだか懐かしい感覚を思い出させてくれた。そうだ、ステラもこんな風に暖かかった。ステラもこんな風に暖かくて笑いかけてくれて、そして今は永遠に失われているのだ。


「永遠に失われているのだ」


 永遠に失われているのだ。ステラはもはや永遠に失われていて、もう二度と暖かい事は無いのだ。ちょうどこんな風に暖かかった、こんな風にだ。こんな風にこんな風に、暖かかったはずなのに、それなのに永遠に消し去ってしまったのだこの世から全てを。今もマリアに触れているこの手で、そうだ他ならぬこの僕自身の手で、この優しい暖かさをかけがえのない暖かさを、僕が、僕が、僕が僕が、僕自身が



 途端、電撃でも喰らったかのように体が跳ねる。皮膚の表面全てに冷や汗がにじみ出し、筋肉が緊張で硬直する。


「え……ライトさん?」


 取り返しのつかない食毒でも体に入れてしまったかのように心身の全てが全力で拒絶を示す。自分のものではないような激しい呼吸音が近く遠く聞こえる。気付いたら手を跳ね除けていた。喉が震え叫んでいるのが解るのに、その声も誰か他の人間が耳元で叫んでいるみたいに自分のものと思えない。


「ライトさん!? ライトさん!?」


 ただひたすらに叫び声を上げていた。ただひたすらにマリアから距離を取るように壁際へと後退していた。何の恐れかすら解らない、なのにそれを捨て置く事など絶対にできない。ただその恐怖を少しでも軽減するためにマリアから体を離し、距離を取り、威嚇するように叫び……。


 そしてその喉を通る叫び声が何か別の物に塞がれ、肺が詰まる。そのまま息もできずにもがくように喉を掻きむしる数秒。丈夫さが999999である事なんて理解できずにひたすら穴でも空けようとするように爪を立てる数秒。そしてそれとはまったく無関係に何かの衝動が喉をせり上がり、えづきが体を折り曲げ、僕に膝をつかせ、そして


「うごええ! おえ、うおええええええええ!」


 僕は胃の中の物を吐き出していた。訳もわからない程の多大なストレスによる嘔吐。ストレスの原因がいつまでも解消されずにそこにあり続けた事による本能的な緊急避難。


 ひたすらにダンジョンの床を汚し続けた。胃の中身が空になった後もえづきは止まらず、何度も何度も存在しない内容物を吐き出そうと必死に胃のけいれんに身を任せ続けた。


 あるいはそれは本当に何かを吐いていたのかもしれない。目には見えない僕を恐れさせる何かが体の中に溜まっており、それを全て吐き尽くすまで僕の体も心も満足に動けない、そういう状態だったのかも。


 そしてその何かを吐き出し続けた結果、僕はようやくなんとか動けるようになった。床についた腕はガクガクと震え、視界は常に揺れている。その震えをなんとか制御し、顔を起こし前を見た。


 そこには僕と同じく震えながらこちらを見るマリアがいた。顔を青ざめさせ、潤んだ瞳にまぶたを震わせている。たった一瞬で地の底まで落とされ切ったようなその顔を見て、朦朧とする頭でかわいそうだと思った。


「あ、あの……わ、私……何か悪いところあったら、な、直しますから……だから、あの……あの……」


 無理に口の端を上げてつっかえつっかえに喋るマリアの言葉に、僕は酸素をむさぼりながらもなんとか思考を傾けようとする。悪い所? 悪い所 マリアの


「……何も無い」


 その瞬間、かろうじて心と繋がっていた彼女の笑みがただ形だけを残して完全に壊れ果ててしまったのが解った。その笑みに至る一切の過程も意味も残らず、ただ壮絶なまでの心の傷以外もう何もうかがう事のできない表情。誰か身近な者が死んだ時にもこんな顔を浮かべるかどうか、それほどまでの絶望を感じさせる表情。


 僕は彼女のその顔を見て、また胃の中身をぶちまけた。


 ただ僕の正常を取り戻すためだけに、涙を流す彼女の前で吐き続けていた。

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