はりぼての崩れ落ちた先

 魔物の姫を犯人と決めて以来、世界がクリアに見え始めたと思った。目に映る人たちの笑顔がこんなにも僕に向いていると。上空から一望する瑞々しい世界全てが自分自身と繋がっていくのを感じると。


 錯覚だった。


 掠れた視界に映る目前の光景の方がよっぽどハッキリと混じりけのない僕自身だった。見ようと見まいと、否が応でも僕の構成要素として体の中に入り込んでいく。世界から隔絶されたたった一つの真実。


「あ、ああ……」


 柔らかい腹の肉を殴りつけた感触。倒れ込む

 森の中にいるのはただ僕一人のみ。他に誰がいるはずもない。


 何かが頭の中に強烈にフラッシュバックする。身に覚えのないはずの体験。存在しないはずの記憶。目の前の大切な人に致命的なダメージを加えるこの忌まわしい感覚が、何故か僕の体の一つ一つの細胞の中にハッキリと刻み込まれている。


「マリア……す、ステ……ラ……」


 重なって押し寄せる怒涛の衝撃が僕の頭を使いものにならなくしていく。抱いてきた自己像を徹底的に破壊し尽くす目の前の光景。そしてかつて見た悪夢現実


『僕が人を殺すような事をする訳がなかったんだ』


『そうだ考えてみれば当たり前の事じゃないか』


 ここ最近口癖のように頭の中で繰り返し唱え続けてきた言葉が狂ったように頭蓋骨の裏で反響する。脳を殴りつけるように響き渡るその声を聞きながら、視界には倒れ伏す二人の女が焼き付いて離れない。目をそらしても耳を塞いでももうずっと離れる事の無い、刻印のように魂に定着した永劫の痛み。


「あっ あっ あっ」


 まともに耐えられないほどの感情の激流。五感の境目すらをあやふやにするほどの感覚の暴走。その足のおぼつかなさにさえ自信が持てない、目の前の何が何であるかもわからないぐにゃぐにゃに歪んだ世界。


 もうそれ・・を全て手放してしまいたい。もうこんなもの・・・・・を持ち続けていたくない。果てしなく繰り返し押し寄せてくるその誘惑にギリギリの淵で耐えながら、かろうじて自我をつなぎとめて顔に前を向かせる。


「駄目だ、まだ……まだこのまま・・・・で……」


 その何もかもが心許ない中で必死に視覚を手離さずに一つ所を見据え、なんとかそこに近付くように身体を手探りに動かしていく。ゆっくりゆっくりそれが視界を占める部分を大きくしていき、なんとか僕の身体で干渉できる距離にまで時間を掛けて辿り着く。地面に屹立した太い柱に寄り添うように横たわったその動かない何か。僕にとって非常に大事で重要だったはずの何か。


「ごほっ ごぼ かはっ」


 咳の音を聞いた時、わずかに感覚が正常に戻った。


 マリアが口から血を吐き出している。呼吸が上手くいっておらず、顔も青い。内臓に致命的なダメージを受けているのは明らかだった。


「あ、ああ……」


 震える身体を必死に統制し、かがんだまま倒れないようになんとか姿勢を固定する。距離感もつかめないまま両の腕を彼女の体にかざし、神経が冷え切った指先を開いてなんとか魔力を込める感覚を思い出す。


「ヒール……!」


 ビカビカと明滅するように聖の魔力が彼女へと放出される。幼児レベルと世界最大級とがでたらめに繰り返され、その出力は完全にぐちゃぐちゃだ。人類史上最高のはずの魔法技術がまるで活きていない。


 だが聖の魔力が999999ともなればその一瞬の最高出力が数度かすめただけでも効果は劇的に表れる。みるみるうちに彼女の苦し気な表情が和らいでいき、呼吸も正常になる。苦し気な咳が地面を汚す事も無くなった。


「うっ……ううん……」


 そのうめき声に最悪の事態は免れたと知り、僕の気は一瞬だけ緩んだ。そして怪我の治った彼女は当然の帰結として目を覚ます。


「あれ? 私は……? 何が……」


 身を起こし、僕の顔を見つめるマリア。その眼差しだけで全身から意味のわからないくらいに汗が噴き出してくる。ずっとその寝ぼけたような顔でい続けてくれるかもしれないと都合の良い想像が頭をよぎる。だがマリアはすぐにハッと眉をひそめ、信じられないような顔で唇を震わせる。


「ら、ライトさん……なんで……」


 言葉を発した口を閉じる事すら忘れるほどに、ただ理解できないものを見る目を一心に僕にぶつけてくる。僕は汗だくにうつむいたまま何も答える事ができない。何でと言われたら人殺しだからだ。どうして起き上がってしまったんだと一瞬でも考えてしまった、自分だけ可愛い人間未満の犯罪者だからだ。


 するとその時、地面に何か硬質な物が落ちるような音がした。僕とマリアが同時に顔を下に向けると、そこには数個の金属片が散らばっていた。僕はそれが何であるかわからなかった。だがマリアはその金属片にこれ以上ないくらいに目を見開き、顔を青ざめさせた。


「え、うそ……」


 呆然とその金属片を見つめていた彼女は絞り出すようにようやく一言だけ呟いた。次に何かを確認するように自分の右手をまじまじと見て、更に顔を青くする。そこで僕はようやくそれが何であるかに思い至る事ができた。


「指輪……私の……」


 マリアの開いた両の目にじわりと水が溜まっていく。限界までまぶたの上に乗せられたその涙は、やがて頬を伝ってすっと地面へと落ちていった。僕はその様子から目を離す事ができない。


「あ、ああ……なんで……なんで……」


 苦痛に耐えるように閉じられた彼女の両目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれおちていく。マリアがこんな風に泣くのを僕は見た事が無かった。出会った当時14歳の僕と比べてマリアは知識も経験も豊富な頼れる大人だった。それが膝と両手を地面について嗚咽をこらえきれないほどに涙を流している。


 僕なりに彼女を喜ばせようと色々考えてきたはずだった。僕はガキだから見えてないものも多いし気が利かないけど、それでも彼女は大人だから僕の至らないところを許して笑ってくれていた。


 だから僕は彼女の涙なんて見た事がない。見たところでどうしていいのかまるでわからない。


 人殺しだから抱きしめる事すらできない。そんな風に泣かれても僕にはもう何もできない。


 いつまで涙を流す彼女を見ていればいい。僕には何もできないのに、彼女は僕の前でただ泣き続ける。僕の心だって擦り減って擦り減って死にそうなのに彼女はもう笑いながら全ての罪を許してはくれない。ずっと9年の差を根拠に大人として振舞ってきてくれた彼女が、今は自らの心の傷に手一杯で僕の心までをおもんばかってはくれない。


 誰か助けてほしいのに、誰も助ける事ができない。僕を助けてくれるはずのマリアは泣いている。僕が泣かせたから泣いているんだ。もうこの場では誰も助からない。このままでいたくない。このままでいたくない。苦しい。助かりたい。助かりたい。


 気付けば脚が動き出していた。


 おかしな事に、これも覚えのある感覚だった。蹴りつける地面の硬さから、胸を蝕むどうしようもない圧迫感まで全部。まるで今日の全てがの焼き直しであるかのように。


 僕は森で起こった全てを置き去りにまた逃げ出した。一歩一歩現場から遠ざかる度に、心の奥の取り返しのつかない感覚は膨れ上がる。これも全てあの日の通り。あの日から変わった事は何一つとして無かった。

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