マリア
背中にもたれかかる質量が人一人分の存在感を伝えてくる。僕とは別の体温が体の中に徐々に交わり、身を包まれるような感覚が広がっていく。
「マリア?」
今しがた無視すると決めた事も忘れて思わず普通に話し掛ける。明らかにいつもとは違う事が起こっている。僕一人では結論を出せない何かが。
「私、ライトさんがこの村に来てくれて嬉しかったんですよ。だからもっと私とお話してくださいよ」
マリアは半ば抱き着くような姿勢のままで、そう返す。
「追放された後、ちゃんと会いに行かなかったから怒ってるんですか? これから会いにいくようにしたら許してくれますか?」
「い、いや、ちょっとマリア……」
畳みかけるようないつもとは違う何かに脳が追いついてくれない。脳が必死で答えに辿り着こうとしているのに、気付けば同じ所をぐるぐる回っている。
「私、ライトさんが診療所に来てくれた時、嬉しかったんです。私に会いに来てくれたような気がして」
背中で喋るマリアの声が、体と空気を伝わって耳に溶けていく。経験したことのないほど近くで発せられる女性の声が、未知の感覚となって僕の胸に伸し掛かってくる。
「私もちゃんと会いにいくべきでした。一人であなたと会ってしまうのが怖くて、あれからいつも皆とばかり一緒だったんです……ごめんなさい」
「あの……」
気付けば肩に添えられていた手は前に回されており、もはや完全に僕に抱き着く形となっている。
「ライトさん」
こちらを向くマリアのまっすぐな視線が見えた気がした。もはや僕の「あの」だの「その」だのにこの状況を止める力は無い。
「私の事、どう思ってますか?」
それは明確な一言だった。ぐるぐると回り道していた僕の思考を一つ所に向かわせるような、そんな一言。
「ど……どう思って?」
そうやってはっきりと質問を投げかけてきたマリアに対して、間抜けなオウム返しで反応する。
どう思って? 僕がパーティメンバーとして初めて邂逅してからここまで様々な面で共に活動してきたマリアをどう思ってたかって? そんなの
憧れてたに決まってるだろ。
村から出てきたばかりで右も左もわからない僕らを助けてくれて、一緒にパーティを組んでくれた。色々な事を知っていて、魔法も使えて、賢くて綺麗で、そんな年上の女性に憧れない訳がないだろうが。
当時まだ14歳の僕にとって、一回り年上の彼女は身近に頼れる存在であると同時に雲の上の存在でもあった。何も知らないガキの僕をかわいがって親切にしてくれるからって変に勘違いするもんじゃないと、少し意図的に距離を取っていた所すらある。その先にはただ行き止まりがあるだけだと思っていたから。
そんな憧れていた年上の綺麗な女性が僕に好意を寄せているっていうのか?
そんなの夢のような話だろ。
想像と呼ぶ事すらはばかられる、妄想の域に入る類の与太話。しかもそれが実は夢ではなかったなんて、それこそ正に夢のような話としか言い様がないじゃないか。
だが僕に夢を見る資格など無い。
「マリア……あの……」
夢を見る資格なんて無い人間がそれでも言葉を詰まらせる。
顔が少し熱くなった気がする。包み込むような抱擁に心を乱されながらも、もっとそれを続けてほしいと思っている。背中に当たるしっかりとした作りのローブ越しに胸の感触を探し始めている。
何故僕のような人間がそんな浮ついたような反応をする必要がある? いままでさんざ辛辣にしてきた女にただ一言、馬鹿な事を言うなと一蹴するだけの事が何故そこまで難しい? まさかこのままどうにかなりたいと思っているのか?
「僕は……僕は……」
僕はなんだ。何か言いたい事でもあるのか。
言葉を選ぶほどの選択の幅が自分にあるとでも思っているのか。
いい加減にしろ人殺し!
心を乱すな!
何かを望むな!
何故そんなに気持ちを高ぶらせる必要がある!
なんでお前の心臓はそんなに激烈な勢いで稼働している!
やめろ!
動かすな!
止めろ、その心臓を!
止めろ!
その激烈な勢いを止めろと言っているんだ!
止めろ!
止めろ!!!
止めろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
止め
んっ?
ふと気付く。何か鼓動がおかしい。
いや実際僕の鼓動は平時と比べて大分早い。これだけ心が乱されているのだからそれは当然だ。
でもいくらなんでも早すぎないか? こんなに激烈な速度の鼓動は今まで経験した事も無い。心臓から送られる鼓動が人間の限界を超えるくらいの速度で僕の体を絶え間なく揺らし続けている。
いや違う。これは僕の鼓動じゃない。
僕の鼓動も早いが、そこに更に加わる別の鼓動が壮絶なまでに僕の体を打ち震わせているのだ。僕の中の内なる嵐に更に覆いかぶさるかのような大きな嵐。動揺を気取られまいと取り繕う心が吹き飛んでしまうほどの、自分とは別の何かからの鼓動。何処かからの動揺。
そう、それは背中越しの……厚い衣服越しの……押し付けられた胸越しの……。
振り返って、マリアの方を見る。隠すように僕の体に押し付けられたその顔は、正に茹でダコのようにとしか言い表せないくらいに、見事なまでの真っ赤色へと染め上げられていたのである。
「いやあんたが一番動揺してんのかよ!!!」
思わずそう叫ぶと、マリアが顔を押し付けたままびくりとする。そして慌てたように勢いよく頭を上げ、物申すかのようにこちらを向いた。
「な、なな、なんですか!? 別に動揺なんてしてませんけど!?」
「いやめちゃくちゃ真っ赤じゃん! 僕より大分年上の大人のはずなのになんでそんな余裕無いの!?」
「は、はあ!? 真っ赤っていうか別にこのくらいが普通なんですけど!? ちょうどこのくらいが女子のアベレージですけど!? ライトさんが経験無さすぎてわからないだけなんじゃないですかあ!?」
動揺しながらも変に口の回るマリア。明らかに言い訳じみた主張でありながら的確にこちらの反論できないポイントを付いてくるあたり、無駄に賢しい。
「というか何で急に振り向くんですか!? 女の子が真っ赤になってるっていうならもうちょっと気を使えばいいじゃないですか!」
「知らないよ! それこそ年上の経験で乗り切れよ!」
「いやていうか別にそんな年上でもないですけどね!? あと10年も経てば26と35だし、そんなでもないですけどね!?」
色々とピントのずれた部分に怒り出すマリア。僕にずっと向こうを向かせたまま話を進めるつもりだったのかとか、26と35は16と25と何か違うものなのかとか、色々とつっこみたくもなるがその全てが口に出す前に馬鹿馬鹿しさによって霞んで消える。
「そ、それにい! かの有名な哲学者であるヒューゴーが著書の『人間と生命』の中でこう言ってるじゃないですか! 『男と女の関係は時に互いに一歩引く事により円滑になる』って! これは近年ベストセラーになった『恋はユニークスキル?』で示された距離感の法則にも通ずる主張であり、つまり……」
「いや聞いてらんないからそんな長そうな話! もういい!」
なんだか収拾がつかなくなりそうな空気を敏感に感じ取り、僕は強引にマリアの腕を抜け出して部屋の出口へと向かった。
「あ、ちょっとライトさん!? 嘘でしょ!」
「とにかく今日は早退する! じゃあな!」
信じられないといった感じのマリアの声を背中に受けつつ、診療所の廊下を駆けてヒール室を後にする。身体の奥から上ってくる変な熱さはまだ残っているが、全て無視してとにかく外へ外へと足を進める。
こうして僕はなんだかよくわからないゴタゴタの内にこの場を抜ける事に成功したのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます