常連客
私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は、様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。
そんな祖母から聞いた話。
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商売人冥利につきる、そんな話です。
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今となっては面影もありませんが、私の実家は昔、商店を営んでいたそうです。
といっても先祖代々の家業ではなく、曽祖父が一人で興し、彼の死とともに閉じられた、一代限りの店でした。
曽祖父は幼い頃に丁稚奉公に出され、のちに暖簾分けを許されて、地元に店を開きました。商才のあった人なのでしょう、店は酒、煙草、お菓子に日用品を扱うなんでも屋で、ライバルのいない田舎では、なかなかに繁盛していたそうです。
ですが残念なことに、曽祖父は早すぎる死を迎えてしまいました。癌だったそうです。
祖父は長男でしたが、当時は結婚もしていない若僧で、なにより曽祖父に似ず商才は皆無でした。堅実ではありましたが人付き合いが苦手で、お世辞の一つも言えない性格だったのです。
結局、惜しまれつつも店は閉じられ、我が家は元の農家に戻ったのでした。
「もしかしたら私、大店のお嬢様やったかもしれんっちこと?」
初めてその話を聞いたときは、廃業させた祖父に不満持ったものですが、
「あのじいちゃんには、どう考えたって客商売は無理よ。あんた、お嬢様どころか、借金まみれの可能性もあったんやから、じいちゃんには感謝せんと」
と笑いながら祖母に言われ、それから日頃の祖父を思い浮かべると、なんだか納得してしまいました。
「おばあちゃんは、お店のこととか知らんの?」
「ばあちゃんが嫁に来た時は、もうなんも残っちょらんかったけんなぁ。商品を置いちょったっちゅう土間だけが、やけに広かったくらいよ」
祖母は当時を思い出すように、少し遠い目をしました。
「それでも、ときどき来るお客さんがおっちょったなぁ」
「お店、もうしてないのに?」
「知らんかったみたいよ」
そこで祖母は、珍しくニヤリと思い出し笑いをし、そのお客さんの話をしてくれたのです。
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祖母がお嫁に来てから、数ヶ月が経った頃のことです。
祖母はいつも夕方になると畑仕事を切り上げ、夕食の準備のために一足早く帰宅していました。その日もそうして、家の前まで帰ってきたそうです。
ふと顔を上げると、玄関の前に誰かが立っているのに気がつきました。白髪交じりの初老の男性でした。
「こんばんは」
さて、この人は近所の誰だっただろうか。
頭で考えながらとりあえず挨拶をしましたが、男性は何も言いません。もう一度声をかけようとすると、男性は祖母の方を見もせずに、そのまま歩いて去ってしまいました。
「あんた、そんなとこに突っ立って、なんしよんの」
代わりに祖母に声をかけたのは、ここ数日腰痛で寝込んでいた姑でした。
「いま、誰か来られてたんやけど。なんも言わずに帰ってしまいました」
「どうせ近所の誰かやろ。用事があるならまた来るわ。おおかた、あんたじゃなんもわからんやろうと、帰ったんやわ」
いつも一言多い姑に内心舌を出しながら、祖母は夕食の支度のために家に入りました。
結局その夜、誰かが訪ねて来ることはありませんでした。
その後も何度か、その男性は玄関の前に立っていることがありました。
毎回、何か言いたげな顔はしているものの、祖母には何も言わずにすぐにいなくなったそうです。
二回目に見かけたくらいから、祖母にはその人が生きている人ではないということがわかったそうです。男性はいつも煙のようにいなくなっていましたし、何よりまだ暑さが残る時分だったいうのに、分厚い緑色の半纏を着ていたのでした。
それがわかってからは、祖母は声をかけることはせず、ただ男性を見ているだけにしました。他の人には見えないであろう男性に律儀に挨拶をして、変人扱いされるのが嫌だったのです。
そのとき祖母が”みえる”ことを知っているのは、当時もう亡くなっていた高祖母だけでしたし、祖母はその秘密を誰かに言う気はなかったそうです。夫である祖父は見るからに頭が硬く現実的な考え方をする人で、言ったところで信じてもらえる自信もなかったといいます。
ある日の夕方のことです。その日は地区の寄り合いがあり、出かける祖父を見送るため、祖母も一緒に外に出ました。
するとそこに、あの男性が佇んでいたのです。
男性を初めて見かけてから数ヶ月が経ち、いつの間にか、男性の着ている半纏はそれほど不自然ではなくなっていました。
誰かと一緒にいるときに男性を見かけるのは初めてでしたが、祖母は見て見ぬ振りをしました。変に反応して、隣の祖父に訝しがられるのを避けるためでした。
ところが、反応を示したのは祖父の方だったのです。
「あ」
そんな間抜けにも聞こえる声を出し、祖父は一歩踏み出した姿勢のまま固まってしまいました。その視線は確かに、佇む男性の方を見据えていたそうです。
祖父の反応を見て、男性は初めて表情を変えました。かすかに笑うように唇を動かすと、懐に手を入れて、一合徳利を取り出したのです。
そしてそれを、ゆっくりと祖父に差し出しました。
祖父はじっとその男性を見つめていましたが、やがてそろそろとその徳利を受け取りました。そして、呆気にとられる祖母を置いたまま、家の中に戻っていきました。
祖母は信じられない気持ちで、家の中と男性とを交互に見ていましたが、祖父はすぐまた戻ってきました。ふと鼻をくすぐる香りがし、徳利の中に酒が満たされていることがわかりました。
「煙草は、今切らしちょって。すんません、また入れときますんで」
祖父はそう言いながら、男性に徳利を手渡します。その声も手もかすかに震えていましたが、顔は精一杯平静を装っているのがわかりました。
男性は徳利を大事そうに持つと、空いた手で小銭を取り出し、祖父に渡しました。
「いつも、おおきに」
小銭をおしいただくように受け取ると、踵を返した男性がしばらく歩いてフッと消えてしまうまで、祖父はそのままの姿勢で見送っていました。
そして、言葉も出ない祖母を置いて、そのまま寄り合いに出かけてしまったそうです。
「あんたはまた、そんなとこに突っ立って。寒いやろうがえ、早よ閉めよ」
姑にそう言われるまで、祖母はずっとその場から動けませんでした。
祖母が驚いたのは、今まで眉ひとつ動かすことのなかったあの男性の挙動ではなく、祖父の方でした。
祖父の対応は明らかに男性のことが見えていてのことでしたが、普通は見えないはずなのです。それとも自分の勘違いで、あの男性はれっきとした生きた人間だったのでしょうか。しかし、あのとき目の前で、男性が煙のように消えてしまったのを、祖父も一緒に見ているはずなのです。
実は祖父も、”みえる人”なのでしょうか。
普段の祖父の言動からは想像もできない仮説でしたが、祖父に真相を聞くことができない時点では、それが一番自然に思えることでした。
祖母はその後の家事はまったく上の空で、味付けがからいの薄いの、あんたが来てから腰が痛むようになったのと姑が文句を言うのも、まるで右から左だったそうです。
味のしない夕食を終え、姑が休んでしばらくすると、祖父が帰宅しました。
待ちに待っていた祖母でしたが、なんと切り出せばいいのかわからず、とりあえずいつものようにお茶を出します。祖父の方でも思うことがあったのでしょう、お茶を一口すすると、何か言いたげにちらりと祖母を見ました。
「……あの」
「なんか」
「あんた、みえるんですか?」
「……」
生きてはいない人が、もしくは幽霊が。なんといえば適切だろうかと祖母が言葉に詰まっていると、祖父がため息とともに言いました。
「なんのことかわからんが、さっきのことを言いよるんなら、ありゃ、白昼夢ぞ」
「……はい?」
「幽霊だの妖怪だのは、祟るもんじゃろが。今まで何度か来たことがあるが、ありゃなんもせん。ただ酒を買いにくるだけや。やけん、白昼夢」
「…うちも見たんやけど」
「二人で同時に夢見たんやろ。なんの不思議もないわ。そもそも、幽霊なんぞこの世におるかい」
祖母にというよりは、自分に言い聞かせるように、祖父は一人で頷きながら言いました。その口ぶりから、何度かあの男性に遭遇したことがあるとわかりましたが、祖父はそれをすべて夢と片付けているようです。
祖母は、あのとき祖父の声を手も小さく震えていたことを思い出し、夢と言い張る強い口調もあって、合点がいきました。
祖父は、自分が見たものが信じられず、知っている言葉に無理やり置き換えているのでしょう。得体の知れないものに自分が理解できる名前をつけることで、恐怖に蓋をしようとしているのです。なんとも、頭が硬く現実的な祖父らしいことでした。
ひょっとしたら祖父と”みえる”秘密を共有できるかもしれないと、こっそり期待していた祖母でしたが、目の前で白昼夢を主張する祖父を見ると、がっかりというよりは笑いがこみ上げてきたそうです。思い出した恐怖を隠すためか、膝に置かれた両手は白くなるほど握り締められていましたから。
「それで、あの白昼夢の人っち、知り合いなん?」
やけに順応の早い祖母に祖父は少し驚いたようでしたが、おかげで緊張は少しとけたようでした。握りこぶしをほどき、お茶をもういっぱいすすると、懐かしむように話し始めました。
「あん白昼夢の人は、まだ親父が店をしよった頃、近所に住んじょったんや。毎日あの時間になると、酒を1合と煙草を3本買いにきよった。人見知りで無口な人でな、毎日来よんのに、店で親父以外と話しよんのを、見たことないわ」
「お店もうしてないのに、まだ来るんやなぁ」
「親父より早よ亡くなったけん、店閉めたの知らんのやろ。どうせ夢なんやけん、酒の一合くらいやってもいいわ。うちの常連やったんやけん。一応、代金もくれるしな」
そう言うと祖父は苦笑して、懐から酒1合分には到底足りない一枚の小銭を取り出すと、神棚に供えました。
白昼夢なら、渡したお酒ももらった小銭も、実体があるはずがないのですが、そこのあたりはおそらく考えないようにしているのでしょう。そこに言及すればきっと怒られるだろうなと、祖母は何も言わなかったそうです。
「そうそう。あん人のこと、お袋には言うなよ。お袋はああいうの苦手で、しんけん《とても》怖がるんや。夢なのにな」
祖母にそう釘をさしながら、祖父は寝巻きに着替え始めました。
「おい、もう寝るぞ。いつまでも起きちょってん、しょうがなかろうが」
いつもは祖母など気にせずさっさと休む祖父が、そう急かします。
思いがけず、夫と姑の弱点を知ってしまった祖母は、内心ほくそ笑みながら、おとなしく寝る準備をしたそうです。
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「おじいちゃん、幽霊怖いんや」
祖母の話を聞いて、私もほくそ笑みました。活用できるかどうかはわかりませんが、頑固で厳しい祖父の弱点を知れたことは、それだけで小気味のいいものでした。
「そのあとも、その男の人っち来たん?」
「何度か見かけたけど、ばあちゃん一人のときやと、絶対なんも言わんで帰るんよ。やっぱり、見知ったじいちゃんやねぇといけんみたいやったなぁ」
「人見知りやなぁ」
「そのうちじいちゃんが出稼ぎでおらんごとなったら、あん人も出てこんごとなったよ。なんか、申し訳なかったわ」
「あの世に行ったんやない?」
「やといいんやけど。うちの店が、よっぽど気に入っちょったんやろうね。死んだあんたのひぃじいさんは、子どもにはそりゃは厳しい人やったそうやけど、いい商売人やったんやろうねぇ」
祖母につられて、私も仏壇の上に飾られた曽祖父の写真を見ます。
厳しそうな目元が、その時はなんとなく緩んで見えました。
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あれから、二十年近くが経ちました。
昔商店だったという古い家は、今はもう駐車場になってしまい、跡形もありません。
ところが先日、定年退職を迎えた私の父が、曽祖父の商店を復活させたいと言い出したのです。父はまた祖父に似ず、おしゃべりな社交家でした。ですが、お調子者でお人好しすぎるところがあり、決して曽祖父の商才を受け継いでいるとはいえません。
もちろん、暇にまかせた戯言以外のなにものでもなかったため、母に鼻であしらわれていました。
しょぼくれた父と呆れる母を笑って眺めながら、私はふと、商店が復活したら、あの男性はまた来てくれるだろうかと考えました。
もしもそんなことがあれば、何十年来の常連さんには、やはり酒も煙草も好きなだけ持って行ってもらわねば。
私は頭の中だけで、三代続く商才のなさを発揮するのでした。
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