泣きぼくろ

 私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は、様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。

 そんな祖母から聞いた話。



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 特別な人には、それとわかる「しるし」がある、という話です。


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 私には、生まれつき右目の下にほくろがあります。よく言われる泣きぼくろというやつです。


 幼い頃はよく、近所の人や親戚から「かわいいこと」とか、「よぅけ泣いて、お母さんを困らせたんやろ」など、褒められたりからかわれたりしていたものです。僅差で褒められることの方が多かったので、私もこのほくろは気に入っていました。


 祖母は、孫たちのことはとりあえずなんでも褒めてくれる人でした。

 しかし、私のこの泣きぼくろに関してはなぜか気に入らなかったようで、


「いらんもんを持って出てきたこと」

「あんた、大人になったらそれ、取ってしまいなさい」


 と、散々な言いようでした。


 小学校高学年の頃だったでしょうか、それに抗議したことがあります。


「おばあちゃんは、なんでそんなに、このほくろのこと、好かんがるん?」


 祖母はしばらく迷っていましたが、やがて観念したように教えてくれました。


「ばあちゃんが子どもの頃、隣の家に、イトさんっちいう、そりゃあべっぴんさんがおったんよ」


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 隣家に住む「イトさん」は、祖母より十歳近く年上で、田舎には滅多にいないような美人でした。働き者で、いつもニコニコと誰にでも優しく、祖母にとっては憧れのお姉さんだったそうです。

 ときどき遊び相手にもなってくれ、年の離れた祖母に対しても、丁寧に話をしてくれる人だったといいます。

 そんなイトさんでしたから、年頃になるとあちこちから縁談が舞い込みました。そして、近所の和裁教室の跡取りとの話がまとまったのです。

 イトさんはその教室に通っており、そこで見初められたとのことでした。イトさんは裁縫の腕も確かだったので、その名前も相まって、良縁だと誰もが喜んだそうです。


 ところがその良縁は、相手の突然の事故死によって、あっさりなくなってしまいました。祝言のひと月前のことだったそうです。


 まわりの人は、「あんたが悪いんやないんやけん」「結婚する前でよかったよ」と、イトさんを慰めました。実際その通りでしたし、祖母などは大好きなイトさんがお嫁に行かなくなったことが、とても嬉しかったといいます。


 しかし、当時まだ存命だった祖母の祖母、つまり私の高祖母だけは、渋い顔をしていたそうです。


「あん子は、他に見初められちょんけんなぁ…」


 まだ幼かった祖母には、その言葉の意味はわかりませんでした。


 半年後、新たな縁談が持ち上がりました。今度は町内でも有数の大きな農家でしたが、嫁に来てくれるなら畑仕事はせずに、和裁の教室を開いてもよいと言ってくれる、好条件でした。


 まわりも喜び、トントン拍子に話が進んだのですが、また祝言の少し前に破談になってしまいました。

 相手が博打で作った多額の借金が発覚し、結婚どころではなくなってしまったのです。

 結局その家は、たくさんあった田畑を売り払い、夜逃げ同然で引っ越していってしまいました。


 三度目の正直、と次の縁談には誰もが期待しましたが、結局それもうまくはいきませんでした。またも直前になって、相手が片足を切断する大怪我をしてしまい、結婚は流れてしまったのです。


 この頃になると、イトさんを見るまわりの目も変化していました。

 破談になったのは全て相手側の都合で、イトさんに落ち度はありません。しかしだからこそ、何か得体の知れない力がイトさんに働いているのではないかと、皆大きな声では言わないものの、影で噂していました。


 イトさんも、度重なる不運にすっかり元気をなくし、以前のような明るい笑顔が見られなくなっていました。


 しかし、それとは裏腹に、イトさんの美しさはどんどん増していきました。

 もともと色白だった肌はますます白く、憂いを帯びた瞳は潤み、髪は絹糸のようにつやつやと輝いていたそうです。


 ある夜のことでした。祖母は、夜中にふと目が覚めたそうです。


 家族は皆寝静まり、家の中はしんとしています。それでも誰かに呼ばれた気がして、祖母は布団を抜け出し外に出ました。

 夜空には満月が輝き、あたりを白々と照らしています。祖母は、家の前の道に誰かが立っているのに気がつきました。


「ばあちゃん、イト姉ちゃん」


 高祖母は祖母に気づくと、無言で手招きをします。高祖母の隣に立った祖母は、目の前のイトさんに息を呑みました。


 夜だというのに、イトさんは綺麗に化粧をして、晴れ着を着ていました。その晴れ着は、以前「お嫁に行くときに着ていくのよ」とこっそり見せてもらったイトさんの婚礼衣装より、格段に上等で美しいものでした。


 着飾ったイトさんは満月に照らされて、まるで天女のような美しさだったそうです。


 驚いて言葉も出ない祖母に、イトさんはニッコリと微笑みかけました。最近見ることのなかった晴れやかな笑顔に、祖母もつられてニコリとします。

 それを見て、イトさんは高祖母と祖母に今度は深々と頭を下げました。


 そして、何も言わずくるりと踵を返すと、そのまま滑るように前に進み始めました。


「イト姉ちゃん、待って」


 そう言おうとしましたが、高祖母が後ろから口を塞ぎました。振り返ると、喋ってはならんと、厳しい目で首を振っています。


 イトさんが向かう先は、獣道もない林の中でした。綺麗な着物が破れてしまう。そう心配した祖母でしたが、イトさんはまるで溶け込むように林に入っていき、やがて見えなくなってしまいました。


 そのときのことで、祖母が覚えているのはここまでだそうです。


 次の日の朝、いつもと同じように布団の中で目が覚めました。 

 昨日は変な夢を見たなぁ、と思いながら、日課であるニワトリの餌やりに庭に出たときです。何やら隣家が騒がしいのに気がつきました。イトさんの両親が、血相を変えて走り回っています。


「あんた、うちのイト、見らんかった!?」


 祖母に気がついたイトさんの母親が駆け寄ってきました。普段は見ない剣幕に気圧されていると、いつの間にかやってきた高祖母が


「こん子が知っちょんはず、ねかろ。今さっき起きたんや。なんぞ、あったんか?」


 そう代わりに応えました。


「イトが、朝からおらんのや。なくなったもんはなんもねぇんに、イトだけがおらん。ゆんべは、なんもねかったんやけど…」

「あんた、イトちゃんやってもういい歳なんやけん。ちっと姿が見えんくらいで、そげ騒がんでも」

「そげ言うたっち、昨日着ちょった野良着も寝巻きも草履も、あん子のもんは、なんもかんも残っちょるんで。おかしいやろ!」


 イトさんがいなくなったことに取り乱す様子を見ながら、祖母は昨夜のことを思い出していました。


 あれは、夢ではなかったのかもしれない。


 それを伝えようとすると、高祖母にギュッと手を握られました。高祖母は祖母になにも言わせないまま、家の者を呼んでくるとイトさんの母親に告げ、家の中に祖母を引っ張り込みました。

  その頃には、隣家の大騒ぎは近所中に広まり、あちこちでイトさんを呼ぶ大声が聞こえ始めていました。


「隣のおばちゃんに、イト姉ちゃんのこと教えてあげんと」


 祖母はそう訴えましたが、高祖母は首を振りました。


「こうなることは、あん子が生まれる前から決まっちょったんや。あん子は、人じゃないもののところに嫁に行ったんよ。もう、どげもこげもならん」


 高祖母の顔も口調も厳しいものでしたが、意味のわからない言葉に祖母は食い下がりました。


「人じゃないものっち、何なん」

「神さまっち呼ばれたり、物の怪っち呼ばれたり、正体はばあちゃんにもようわからん。でも、この辺りの山やなんかには、昔からそれがおっちょんのよ。それが、あのイトちゃんを、生まれる前に見初めてしまったの。あん子が大人になるまで待っちょったんよ」


 信じがたい話でしたが、昨夜のことを思い出し、祖母はゾッとしました。あのときイトさんが着ていた婚礼衣装。あれは、得体の知れない何かが、美しい花嫁のために用意したものだったのでしょうか。


「こういうことは、ばあちゃんが子どもの頃にもいっぺんあったんや。そんな特別な人には、生まれたときから、それとわかる『しるし』がついちょるもんよ。あんたもよく覚えちょきよ」

「しるし?」

「イトちゃんは、ほれ、左目の下のあったろ」


 高祖母が指すものがなんなのか、祖母にはすぐにわかりました。シミひとつない真綿のようなイトさんの顔には、ひとつだけ、左目の下にほくろがあったのです。


「イト姉ちゃん、どうなるん?」


 祖母は半泣きで尋ねました。


「人じゃないもののところに嫁いだらどうなるか、ばあちゃんも知らん。でも、あん子はもう……」


 高祖母は言葉を濁しましたが、それを聞いて、薄々は気づいていた「イトさんはもう帰ってはこない」ことが事実なのだと、祖母はその日一日涙が止まらなかったといいます。


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「近所のもん総出で探して、山狩りまでしたけんど、結局イトさんは死体も見つからんかった。みんな、神隠しだとか拐かされただとか、気が触れてどっかに行ってしまったんじゃとか、いろいろ噂しよったけどなぁ。終いにゃ、実はイトさんには好いた人がおっちょって、その人と駆け落ちしたじゃとか」


 祖母は当時を思い出すように、悲しい顔で言いました。


「イトさんの家族は、どうしたん?」

「駆け落ちしたっちゅう話を信じて、ずっと帰るのを待っちょったよ。むげなかったけどなぁ、ほんとのことは言えんかった」

「…その人っち、ほんとは食べられたんやないん? よく昔話とかであるやん」


 今思えば、残酷な質問をしたものです。

 ですが私は子どもながらに、嫁入りというオブラートで、生贄の少女が包まれてしまったように思えたのでした。


 案の定、祖母はため息をつきました。


「ばぁちゃんのばぁちゃんが、どういうつもりで嫁ぐと言ったんか、ばぁちゃんにはわからん。でも、物事がよぅわかっちょった人やけん、ばぁちゃんはその言葉を信じちょんよ。イトさんの両親や近所ん人たちが、本気で探しよったのは、ほんとやしな」

「でもそれ、神様かどうかもわからんのやろ? イトさん、大丈夫なん?」

「イトさんがどうなったかは、誰にもわからんのよ。…でもあんとき、イトさん、笑いよったけんなぁ。案外、人のところに嫁に行くよりも、よかったんかもしれん。少なくとも、つらい畑仕事をしたり、姑にいじめられることはないやろうけんなぁ」


 祖母は自分の結婚生活を思ったのか、小さく笑いました。


 祖母もイトさんの両親も、信じているというよりは、きっと願望なのでしょう。生きていてほしい、幸せでいてほしいという気持ちが祖母の言葉から汲み取れて、しかしそれがなぜだか悲しくて、私は話の矛先をずらしました。


「で、私の泣きぼくろが、イトさんのと一緒やったん?」

「そうそう。でも、サナちゃんのそのほくろが、『しるし』なんかどうか、ばぁちゃんにはわからんのよ。だから余計、ばぁちゃんは心配なん。サナちゃんは、イトさんほどじゃないにしても、べっぴんさんやけん」


 心配そうにため息をつく祖母の最後の一言が、身内の欲目であることには、子どもながらに気がついていました。

 

 それでも私は、ほんの少しだけ不謹慎な期待を持ったのです。

 それは子どもにありがちな、「自分は特別な存在で、いつか誰かが迎えにきてくれる」という妄想でした。


 ですがそれを言ってしまうと、祖母を悲しませ、かつ怒らせそうだったので、賢明にも口をつぐんだのでした。


 恥ずかしいことに、私は中学生半ばまでその妄想を持ち続けていました。

 ですがその頃になると、私の顔には無遠慮なそばかすが浮かぶようになり、やがてそれがシミと呼ばれるほどにまで成長すると、自分は特別な存在などではなく、ただのメラニン多めな体質であることを、涙ながらに悟ったのでした。


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 祖母に「しるし」の話を聞いてから、二十年以上が経ちました。祖母が嫌った泣きぼくろは、まだ私の右目の下にあります。

 いつだったか、知り合いからほくろの除去を勧められたことがありました。


「ほくろって癌になる可能性もあるし、今はレーザーで簡単にできるんだから、取っちゃえば? その泣きぼくろだけは、チャームポイントで残すとしてもさ」


 少し悩んだのですが、結局は断りました。


 祖母はこのほくろを嫌っていました。

 ですが、いつか私の知らない姿の祖母とどこかで出会ったとき、このほくろがあれば、すぐに私と気づいてくれる「しるし」になるかもしれない。

 なんとなく、そう思えたのです。

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