行ってはいけない家(下)

 祖母から「行ってはいけない家」の話を聞いてから、五、六年経った頃のことです。


 私は高校一年生で、勉強も部活もほどほど以下の、気楽な夏休みを過ごしていました。その日も九時過ぎに起きるというダラけぶりで、ノロノロとリビングに降りました。


 私以外の家族は皆、それぞれの役目を果たすために出かけていて、リビングには誰もいません。当然のように、私の分の朝食はありませんでした。

 とりあえず、と冷蔵庫から麦茶を取り出したときです。


「おー、サナ」

「あれ、兄ちゃん。いつ帰って来たん?」


 声をかけてきたのは、県外の大学に進学していた次兄でした。夏休みで帰省していたのです。


「昨日帰った。で、そんままこっちの友達と遊びよったんや」


 つまり、朝帰りということなのでしょう。次兄は大きなあくびをしました。


「乱れた大学生活送っとるねぇ」

「お前はダラけた高校生な。なんかそん頭は」


 寝癖を指摘されて直しているすきに、次兄は私の麦茶を一気飲みして、大きなため息をつきました。


「疲れちょんなら、寝れば?」

「んー… お前さぁ、昔ばーちゃんが話しちょった、じーちゃんの肝試しの話、覚えちょん?」


 私は次兄から麦茶を奪い取り、そんな話もあったね、と曖昧な返事をします。


「オレさぁ、あの話の真相、知ってしまったんやけど」

「はぁ?」


 その予想外の言葉に、思わず麦茶を詰まらせてしまいました。


「真相っち、どういうこと?」

「昨日遊びよった中に、カナタもおったんや。で、そのうち怖い話大会になったんやけどな」

「兄ちゃんたち、いい年してそんなことしよんの?」

「うるせー。で、オレはばーちゃんから聞いたその話をしたんよ」


 カナタとは、同じ地区に住む兄の幼馴染です。昔は庄屋をしていたという大きな専業農家で、地区の有力者とも呼べる家でした。


「みんなが帰ったあと、カナタが、こっそり俺だけに話してくれた。あいつん家、かなり昔からのこの辺の記録が残っちょんのやっち」


 そこで次兄は言葉を切り、またひとつため息をつきました。言いたいけれど、言いにくい。そんな表情でした。


「あの家は、もともと普通の農家やったらしい。明治の終わりか大正の始めか、とにかくそれくらい昔に、あの家に障害のある子が生まれたんやと」

「障害…」

「知的のな。十歳を過ぎても、五、六歳の知能しかなかったそうや。そんな子やからこそなんか、母親はえらい可愛がって大切にしとったが、父親や他の家族は、あからさまに疎ましがっとったらしい」


 現代でも、障害者への差別や偏見は色濃く残っています。百年近く昔であれば、たとえ家族であってもそんな冷たい対応をすることは、珍しくなかったのでしょう。

 そこまでは納得できた私でしたが、続く次兄の言葉を聞いて凍りつきました。


「やがて母親が亡くなると、父親はその子を納屋に閉じ込めたんやと」

「は……? 座敷牢っちこと?」

「お前、よう知っちょんな。でも違う。ちゅうか、そっちのがまだマシ」


 次兄は、もう何度目かわからないため息をつきました。私は胃の辺りがキュッと締め付けられるような不快感を感じながら、彼の言葉を待ちます。


「閉じ込めただけなんやっち。そして、死ぬまで出さんかった」

「……」

「一週間くらいしてから、『いたずらの仕置きのつもりで半日くらい納屋に入れたら、恐怖のせいか心臓が止まっちしまっちょった』っち、父親が吹聴して回ったらしい。でも、隣近所ん人は三日三晩聞いちょったんやっち。納屋から聞こえる、『腹が減った』『食いもんをくれ』っちいう叫び声をな」

「…そんなん、犯罪やん! いくら障害があるからっち、許されんやろ」


  憤りながら、私はあの時の祖母の話を思い出していました。

 祖父が聞いたという恐ろしい呻き声。あれは祖母が言っていたような餓鬼ではなく、閉じ込められていた子どものものだったのでしょうか。


 次兄も同じことを思ったのでしょう。頭を掻きながら、


「あの話は、てっきりばーちゃんの作り話やと思っちょったんやけどなぁ」


 と呟きました。

 一方で私は、祖母に話を聞いたときに感じた、小さなささくれのような違和感を思い出しました。


 祖母は、怖い話をするときは「わからん」というのが口癖でした。それは、人智を超えたものを人間が勝手に決めつけてはならないという、祖母の配慮だったのだと思います。

 ですがあのとき、祖母からその言葉は聞かれなかった気がします。そして、祖父の恐怖体験は餓鬼の仕業だと、結論づけていました。

 それは、少なくとも恐怖体験の原因に関しては、やはり祖母の作り話だったからではないでしょうか。


 祖母はもしかして、本当はあの家のいわくを知っていたのではないだろうか。

 ふとそんな疑問が浮かびました。


「許されんことやけど、でも、そんな時代やったと言うしかない。今じゃ、ありえん話やけどな」

 

 次兄の言葉に、ハッと我に返りました。次兄は空になったコップを手の中で弄びながら、私の方は見ずに続けます。


「その子が死んでから十年も経たんうちに、その家は絶えたそうや。父親や、跡継ぎの息子が相次いで亡くなってな。周りは祟りやと噂したようやけど、まぁ、自業自得やわな」

「それから?」

「近くの寺に相談はしよったらしいけど、結局、触らぬ神に祟りなし、っちことなんやろ。いわくは伝えられんまま、あの家は『行ってはいけない家』になったんや。まぁ、殺人と、消極的とはいえ周りがそれに加担、隠蔽した話なんか、後世に伝えようとはせんわな」


 私は大きくため息をつきました。


 胸の中には、様々な感情が渦巻いていました。過去の人々の信じがたい所業への驚きと憤り、死んでしまった子どもへの哀れみ、恐怖。そして祖母への疑念。

 胸のモヤモヤの行き先をどうしたらいいかわからず、こんな話を聞かせた次兄を恨んでしまいそうでした。

 当の次兄は、どこかスッキリとした顔をしていました。おそらく、彼一人では抱えきれない話を私に分担させ、気が晴れたのでしょう。


「ところでさー」

「……なによ」

「あの家っち、なんで焼けたんかな」

「知らんよ」

「カナタの家でもわからんらしいんや。相談しちょった寺の坊主からは、うまい具合に焼けてくれたから、もう安心やろうっち言われたらしいけどな」

「安心?」

「火は、なんでも浄化して、あの世に送ってくれるらしいわ」


 そんなこと、おばあちゃんも言ってたな。

 そう思ったとき、ふとパズルのピースがはまった気がしました。


  家に火をつけたのは、祖母なのではないかと。


 祖母は、隠されていた地区の暗部を祖母なりの方法で知り得、家にとらわれていた魂を解放するために、火を放ったのではないのだろうか、と。


「その話、おじいちゃんとおばあちゃんにした?」

「するわけねーやん。そもそも、カナタには口止めされちょんのや。お前も、人には言うなよ。ペラペラ喋る内容やないんやから」


 お前が言うな、と内心突っ込む私をよそに、次兄は大きな伸びとあくびをすると、「じゃ、オレはちっと寝るわ」と自室に引っ込んで行きました。


 一人残された私は、朝だというのに食欲はおろか、やる気も何もかも奪い取られていました。


 祖母にはこっそり、今の話をしてみようか。

 ちらっとそう考えもしましたが、それはすぐに打ち消しました。

 過去のことをほじくり返しても、祖母が悲しい顔をするだけのような気がしたのです。


 疑問は残りますが、それは祖母の言うとおり「わからない」で済ませ、何もかも知る必要はないのだと、自分に言い聞かせました。

 とりあえず麦茶を一杯飲み、次兄に続いて自室に向かいます。


 そして夕方、「夏休みだからってダラけるな」と次兄と二人で母からお説教を食らったのでした。


─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…

─…─…


 あれから十年以上が経ちますが、祖母が話してくれた「行ってはいけない家」は、今も変わらず荒れた敷地のみが残されています。


 いつだったか一度だけ、こっそり敷地の入り口まで行ってみたことがありました。中に入るのは怖かったのですが、そこにはもう家が建っていたことも、それが焼けてしまったことも思い起こさせるものはなく、人の侵入を拒むように竹が生い茂っているだけでした。


 ふと足元に目をやると、端のほうに古びたペットボトルと、おかしの袋が雑草に引っかかっていました。色褪せ、置かれてから数年は経っているようでした。


 ただのゴミが風に転がってきただけかもしれません。

 ですが私の脳裏には、次兄の姿が浮かびました。


 兄妹って、考えることも同じなのかなぁ。

 そう思いながら、私も持参したお茶とお菓子をその隣にお供えしました。


 そして、もっと前に来ていれば、きっと祖母がしたお供えも目にすることができたんだろうと、少しだけ悔やんだのでした。

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