行ってはいけない家(上)

 私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は、様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。

 そんな祖母から聞いた話。



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 昔、近所には『行ってはいけない家』があったそうです。


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 私の祖父は、理屈屋で頭が固く、絵に描いたような頑固爺でした。


 孫のしつけにも厳しく、私たち兄妹はしょっちゅう怒られていたのですが、中でも泣かされたのが、食べ残しについてでした。戦中戦後の厳しい時代を生き抜いて来た祖父は、「出されたものはありがたく食え」「残すことはならん」と、食事のたびに目を光らせていたのです。

 祖父の言うことはもっともなのですが、子どもにとってそれは辛いものがありました。私たちは好き嫌いは少ない方だったと思うのですが、それでもどうしてもダメなものはありました。


 タコが苦手な長兄、ナスが嫌いな次兄、ニガウリが食べられない私。


 これらの食材が出ると食事は拷問へと変わり、食べ終わるまで一時間近くかかったり、時には拳骨をくらい、文字通り泣かされてきたものです。


 ある夏の昼食のことです。食事のテーブルを囲んだ私たちは、我が目を疑いました。

 タコの酢の物に、ニガウリ入りのナスの炒め煮。


 一時間後、涙目の私たちは祖母に口直しの飴をもらいながら、ブツブツ文句を言っていました。


「大変やったねぇ」

「昼飯作ったの、ばぁちゃんやんか。なんで俺らの嫌いなもんばっか作るん」

「ごめんねぇ、うっかり忘れちょったんよ」


 祖母は、祖父に叱られた私たちをよく慰めてくれましたが、私たちが嫌いな食べ物を「うっかり忘れ」ることが度々ありました。きっと、内心では祖父に賛成だったのでしょう。


「じいちゃんは、考え方が古いっちゃ。食べれんもんがあるくらいで、殴んなっつーの」

「ばーちゃん、今度じーちゃんの好かんもん出してよー」


 ふてくされる兄たちの横で、私は舌の上のニガウリの味を消すため、飴を舐めるのに集中していました。


「まぁまぁ。あんたたちは大変やろうけど、じいちゃんがああ言うのにも、理由があるんよ」

「どうせ、戦争中は食べ物がなくて〜、とかやろ…あててて」


 生意気な長兄の頰を捻り上げたあと、祖母は窓の外を指差して話しはじめました。


「あっこに竹藪があるやろ。今はもうなんもないけど、あっこには昔、空き家があったんよ。じいちゃんがまだ若かった頃、ばあちゃんが嫁に来る前の話よ」


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 祖父がまだ若かりし頃、二十歳前のことです。


 ある夏の晩、祖父は地区の集会所で近所の若い衆と酒盛りをしていました。若い男性が集まれば、気に入らない年寄りを貶しあったり、どこそこにべっぴんさんがいるなど、今も昔も変わらぬ話題で盛り上がっていたそうです。

 そんな話題も尽きた頃、誰からともなく、怪談話が始まりました。古い城跡に殺されたお姫様の霊が出るとか、隣町のある池には蛇女が住んでいるとか、眉唾物の噂話でしたが、仲間の一人がふと、「あの家の話っち、誰か聞いたことあるか?」と言い出しました。


「あの家」とは、祖父たちの地区にある空き家で、なんの変哲もないように見えますが、なぜか大人たちから「絶対に行ってはならん」と言われている家でした。


 わしは聞いたことがない、俺も知らないとみんなが口々に言います。祖父ももちろん知りませんでした。子どもの頃から、行ってはいけない理由を聞くことも禁じられているくらいだったのです。


「なぁ、行っちみらんか? 肝試しにちょうどいいじゃねぇか」


 血気盛んな若者たちですから、誰かのその提案にみな手を叩いて賛成したそうです。

 全員で行ってもつまらないし、大人数だとバレるかもしれない、とのことでクジが用意されました。


 そして祖父が、当たりの赤い印を引いてしまったのです。


 堅物で慎重な祖父が、そういった面白半分の行事に参加したというのが、私たちには意外でした。祖父もまだ若かったということなのでしょうが、もしかしたら、このあとの経験を経て、私たちの知る性格が出来上がったのかもしれません。


 クジに負けた祖父は、提灯と炭のカケラを渡されました。その家に着いたら、確かに行った証拠として、どこかに炭で自分の名前を書いて帰るというのが、肝試しの決まりでした。

 ニヤニヤ笑う仲間たちに送り出され、集会所を出発します。集会所からその家まで、歩いて十分ほどの距離でした。さっさと終わらせてしまおう、そう思いながら早足で向かいます。


 その家は、田んぼの中にぽつんと建っていました。昼間であれば、家のを囲う木々の間から屋根やくすんだ漆喰の壁が見えるのですが、三日月と提灯の頼りない灯の元では、まるで単なる林のように見えます。家の敷地の前に立つと、確かに誰も踏み入ることがないのでしょう、庭木も雑草も伸び放題でした。それらが風になびいてザワザワと音を立て、なんとも不気味でした。

 さっさと終わらせてしまおう。再度自分に言い聞かせながら、祖父は家の敷地へと足を踏み入れました。


 手前に母屋、その向かいに外便所、母屋の奥には小さな納屋のある、ごく普通の家でした。目立つところに名前を書こうと、母屋の玄関口にしゃがみ込んで提灯を置き、炭をポケットから取り出した時でした。


 ガタン!


 納屋の方で物音がしました。それと同時に、突然提灯の火が消えます。

 祖父の心臓は跳ね上がりました。


 落ち着け落ち着け、猫かなんかや。


 心の中でそう唱えながら、マッチを擦ろうしますが、手が震えてうまくつきません。

 と同時に、体に違和感を覚えました。

 空腹感。

 そう気付いた時には、今まで感じたことのない狂おしいほどの飢餓感に襲われ、その場に倒れこんでしまいました。

 恐怖はあっという間に飛び去り、頭を占めていたのは「腹が減った」という思いだけ。なぜ突然そうなったのか、考える余裕もなかったそうです。


「……はらが、へったぁ」

「たべるもん、くりぃよぅ…」


 どこからか、か細い呻き声が聞こえてきました。隣の納屋の中で、何かがガタガタ、カリカリと音を立てています。扉を開けようとしているようでした。


「はらがへったよぅ……」


 その台詞を言っているのが自分だと気がついたとき、祖父はそのまま気を失ってしまいました。


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 目覚めたときは、布団に寝かされていました。


 そこが自分の部屋だということ、障子から差し込む光が朝のものだと気がついたとき、再びあの猛烈な飢餓感が襲ってきました。

 思わず呻き声をあげると、枕元で看病していたらしい妹がそれに気づき、無言で口の中に何かを突っ込んできました。途端に、頭の芯が蕩けるような甘さが、口の中だけでなく全身に広がります。

 金平糖だ。わかった時には、もうそれは噛み砕かれてなくなっていました。


「もう一個、いる?」


 恐る恐る尋ねる妹に頷きます。二つ目の金平糖を飲み込んだときには、あれほど激しかった空腹感が、嘘のようになくなっていました。


「兄ちゃん、大丈夫?」

「ああ」


 頷くと、妹は安心したように笑い、そしてまたすぐ顔を曇らせました。


「あんな、父ちゃんが、起きたらすぐ来いっち…」

「……わかった」


 祖父はため息をこらえて起き上がりました。呼ばれた理由は、痛いほどわかっていました。


 まだ気だるさは残っていますが、動くのに支障はありません。少しふらつく足に力を入れながら、父の部屋へと向かいます。途中通った土間を見て、ギョッとしました。

 狭い土間に、若い衆がひしめき合っていたのです。よく見ればそれは、昨夜の酒盛りの仲間たちで、全員が揃ってその場に正座させられているのでした。

 いい若者たちがしょぼくれている姿は異様で滑稽でしたが、祖父はそれを笑えませんでした。なぜならそれは、おそらく数分後の自分の姿でもあるからです。

 祖父の父は、近所でも有名な雷親父でした。


 十分後、祖父は頭に大きなコブを三つ作り、仲間たちと揃って土間に正座させられていました。そのまま1時間父の説教を聞き、それでも解放されずに、昼までそのままだったそうです。

 やっと開放されたあと、仲間に詳細を教えてもらいました。


 祖父を笑いながら送り出した面々でしたが、いつまでたっても帰ってこないので心配になり、こっそり様子を見に行きました。すると、祖父は家の玄関先で倒れていたのです。慌ててそこから運び出しましたが、集会所に置いておくわけにもいかず、悪事の露見を覚悟で、祖父の家に運び込んだのだそうです。

 自分の息子と仲間たちの様子を見た祖父の父は、すべてを察したようだったといいます。祖父を布団に寝かせるよう指示したあと、無言で仲間たち一人ひとりに拳骨をくらわし、有無を言わさず土間に正座させたようです。


「お前の親父さん、ほんとおっかねぇっちゃ。まぁ、お前が倒れちょんの見たときも、肝が冷えたけどな」


 仲間たちが笑い話にしてくれたことが、祖父には何よりの救いだったといいます。


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「じいちゃんは、死ぬほどの空腹を知っちょんのよ。食べるものがあることのありがたみもな。やけん、あんたたちにうるそぅ言うの。わかっちあげよ」


 祖母はそう締めくくり、私たちに一つずつ飴玉をくれました。

 飴玉を受け取った途端、不思議なほどの空腹感に気がつきました。つい先ほど、昼食を食べたばかりだというのにです。

 兄たちも同じだったのでしょう、揃って勢いよく飴玉を口に放り込みました。しばらく無言で飴玉を舐めているうちに、不思議な空腹はじんわりとおさまって行きました。

 それはまるで、今聞いたばかりの祖父の体験談そのものでした。


「落ち着いたかえ?」


 祖母の、なんでもわかっているような言葉に私たちは頷きます。長兄が口を開きました。


「その、なんでじいちゃんは、急に腹が減ってきたん? その家になんかおったんやろ?」


 そうだそうだと次兄と私も口々に尋ねます。


「餓鬼っち、知っちょるかえ?」


 祖母は静かにそういいました。


「ガキ?」

「クソガキ?」

「あんたたちのことやないよ。餓鬼っちいうのは、地獄にいる鬼の一つで、いつもお腹を空かせちょんの。食べ物がないところにおったり、食べ物が火に変わって食べれんかったりするけんね。あの家にはきっと、その餓鬼がおったんよ。で、じいちゃんはそれに取り憑かれてしまったの」


 祖母の説明に、私は身震いしました。先程感じた空腹感を思い出したのです。飢餓とは呼べないほどの一瞬でしたが、あの恐ろしい感覚。あれを常に感じているなんて、なんてかわいそうな存在でしょう。


「その家に、その、ガキ、がおっちょったん?」

「多分な」

「なんで?」


 祖母は少し考えるように息を吐き、長兄の質問に答えました。


「人にものを譲らんかったり、自分だけ美味しいものを食べるようなケチな人が、死んでから餓鬼になるっちいわれちょん。その家に住んじょったんが、そういう人やったんやろ」


 黙り込む私たちに祖母は続けます。


「あんたたちも、なんでも独り占めせんと、みんなで分け合うんで。お菓子でもおもちゃでも、なんでもそうや」


 おそらく三人とも、思い当たることがあったのでしょう。無言のまま素直を頷いた私たちを、祖母は順番に撫でててくれました。


「なーなーばーちゃん、その家っちどうなったん? 今はもうねぇやろ?」


 次兄が尋ねました。確かに、話のはじめに祖母が指し示した「あっこ」には、今はもう竹藪しかありません。


「危ねーけん、取り壊したん?」

「ばあちゃんが嫁いできた頃には、まだあったんやけどなぁ。いつ頃やったか、焼けてしもうた。原因は分からんかったから、今でいう不審火かな」

「まだ、ガキっちおるの?」

「もうおらんやろ。火は、なんもかんもきれいにしち、あの世に送ってしまうけん」


 隣にいる長兄が、ほっと息をつくのがわかりました。それを見てか祖母はにこっと笑い、もう一つずつ飴玉をくれました。

 普段はしない丁寧なお礼をして、兄たちは遊びに出かけます。


「さ、サナちゃんも遊んじょいで」


 そう言った祖母に、なぜか私は違和感を覚えました。冬の日、荒れた指先にマフラーの繊維が引っかかるような、かすかな感覚があったのです。


 ですが、違和感という言葉も知らないような幼い頃だったので、何を違うと感じているのか、それがなぜなのか、わかるはずもありませんでした。

 わからないまま、違和感は金平糖のようにあっという間に溶けていってしまったのでした。


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 その日の夕食は、昼間の残りの食材を利用したのでしょう、タコの唐揚げとニガウリのお浸し、そしてナスの味噌汁でした。

 ですがこの日ばかりは、心で涙しながらも、私たちは文句を言わず食事を平らげました。


 祖父と、夕食を作った母が目を丸くする横で、祖母は目を細めて微笑んでいました。

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