春の寝床
私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は、様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。
そんな祖母から聞いた話。
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祖母が道すがらに話してくれた、季節に関する話です。
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小学六年生の、立春の日のことです。
私は冷たい風に身をすくませながら、学校から帰る途中でした。
私が住んでいたのは、歌に南国と歌われる地域でしたが、それでも冬はそれなりに寒いのです。
「サナちゃん」
後ろから声をかけて来たのは、買い物帰りの祖母でした。
「今、帰りかえ」
そう言いながら、乗っていた自転車を降りて隣に並びます。
「一緒に帰ろうか」
「うん。あ、麦チョコ買っちょん」
自転車の前かごに乗った買い物袋を素早く盗み見ながら、私は応えました。
「今日っちさ、立春なんやろ?」
「あら、よう知っちょんねぇ」
「先生が言いよったんや」
自転車がカラカラ鳴る音にスニーカーの足音が重なるのを聞きながら、私はため息をつきました。
「でもさ、まだしんけん《とても》寒ぃよな。全然春やねぇやん」
すると祖母はなぜか鼻を上に向けてクンクンと鳴らし、
「そうやなぁ。まだ春にはなっちょらんごたる」
そう言いました。
何かいい匂いでもするのかと私も真似してクンクンしてみましたが、冷たい空気が鼻腔に入っただけでした。
「なんかいい匂いした?」
「ん? 春の匂いがするかと思ったけど、まだやったわ」
「春っち、匂いがするん?」
すると祖母は秘密を打ち明けるように少し声を潜めました。
「春の穴っち、知っちょんかえ?」
もちろん知りません。
「春っちいうのはな、普段土の中で眠っちょんのよ。で、冬の終わりになると、ぬくい空気と一緒に、いっせいに穴から出ちくるの。それが春の穴。春は、穴の周りからどんどん広がっちいくんよ」
「…なんか虫みたい」
「ばあちゃん、姿は見たことねぇけど、もしかしたらそんなかもなぁ」
なんだか、イメージと違います。春といえばお花とか妖精とか、そんな感じなのではないのでしょうか。
「で、そんときに春の匂いがするんよ」
「どんな匂い? いい匂い?」
「あんまりいい匂いじゃねぇなぁ。草が腐ったのを薄めたようなかな。まぁ、土の中から出てくるんやもん」
「なにそれ… なんか、イメージとちがーう」
私はますます困惑しました。
「なんかこう、お花のいい匂いとかじゃないん?」
「そりゃ、あんたの勝手な思い込み。立春だってそうやろ。人間が勝手に決めた暦通りには、季節は変わらんのよ」
「そんなもんなんかねぇ。あ、ありがと」
祖母がポケットから取り出した飴玉を口に放り込み、私は空を見上げました。暦の上ではもう春なはずの空は、確かに冬の褪せたような色をして、上空では強い風に薄っぺらい雲が流されていました。
「春の穴っち、どこにあるん?」
「そこら辺に、ようけあるよ」
「そうなん? おばあちゃん見たことあるん?」
「ない」
「やっぱないんか…」
「でも、春の穴が開いちょんと、その近くはホワッと空気がぬくくなっちょんけん、あぁこの近くにあるんやなっちわかるんよ。うっかり穴の上に家を建てて塞いでしまったら、その家は年中寒いっちいわれちょん」
いつの間にか、もう我が家は目の前でした。今日は母が休みのはずです。私は先ほどのように鼻をクンクン鳴らしました。
「今日は、カレー!」
祖母は、ニンマリ笑った私を苦笑して眺め、「カレーの前じゃ、春の匂いなぞ太刀打ちできんわなぁ」と呟いたのでした。
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祖母の話を聞いてから、私は冬の終わりにはいつも、鼻を動かして春の匂いを探します。といっても、正解はわからないので、祖母の言葉をヒントに、自分の知らない匂いを空気の中から見つけるのです。
いつだったか、「これは!」というものを発見しました。祖母に聞こうにももうできなかったので、私はそれが私の春の匂いだと決めました。祖母が言っていたように、やはり、いい匂いではありません。
ただその匂いが鼻腔をくすぐるたび、近くに開いているであろう穴の周辺から若葉が芽吹く様子を思い、もうすぐ春が来るのだと、私はワクワクするのです。
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