呑んべえと狸
私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は、様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。
そんな祖母から聞いた話。
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酒飲みが狸に化かされたという、まるで日本昔話のようなお話です。
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祖母は、日頃ほとんどお酒を飲むことはありませんでした。
かといって嫌いというわけではないようで、寒い夜などはときどき「寝酒よ」と言って、梅酒のお湯割りを作って飲んでいました。甘いものも炭酸も好きな人だったので、ごくたまに私の母が缶チューハイを飲んでいると、「ちっとおくれ」とコップを差し出し、チビチビと美味しそうに飲むこともありました。
そんな祖母でしたが、酔っ払いは大嫌いだったようで、お調子者の私の父は飲み会のたびに、「酔う前に帰っちくるんで!」とうるさく言われていたものです。酔って帰ると尚うるさいので、大抵父はほろ酔い程度におさえるか、祖母が寝つく頃まで飲み歩くかのどちらかでした。
祖母の酔っ払い嫌いは、祖母の兄に原因がありました。
早くに亡くなったため私は会ったことはありませんでしたが、たいそう酒好きな人で、おまけに面倒なからみ酒だったようです。
普段は大人しい人なのに、お酒が入ると声も気持ちも大きくなって、喧嘩をふっかけたり大ボラを吹いたり。
祖母もかなりの迷惑を被ったようでした。そのせいで、酔っ払い=兄、の図式が出来上がってしまったのでしょう。
兄は、四十路手前の若さで亡くなりました。酒で体を壊したのだろうと、誰もが呆れ交じりに話していたそうです。
「けんどな、ちっと違うんやねぇかなっちいう気もするんよ」
祖母がポツリとそう言ったのは、その兄の何回忌目かの法事から帰って来た日のことでした。
「そりゃ、兄さんが死んだのは酒のせいもある。そりゃ間違いない。義姉さんなんか、あん人のせいで、そりゃ苦労したもんよ。でもなぁ…」
「それだけじゃないってこと?」
「そうそう、そういうこと」
私は、祖母のよき話し相手でした。
祖母は自分が”みえる”ことを他人には言いたがりませんでしたが、それでも誰かに話を聞いてもらいたいことはあったようです。
私は、おそらく身の回りで唯一、祖母が”みえる人”であることを知る人物でした。
「なんかあったん?」
「兄さんが死ぬ一年くらい前からかな、おかしなことをしだしたんよ」
「おかしなこと?」
「まるで、昔話のごとあったけどなぁ…」
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祖母の兄は、若い頃から親も呆れるほどの酒好きでした。
出稼ぎで五年ほど街で暮らしてからというもの、家の外で飲むことを覚えてしまい、夕方になるとしょっちゅう飲み歩いていたそうです。
所帯を持てば落ち着くかと親は期待して、街から戻った兄はすぐに親の勧めで結婚しました。
しかし、新婚当初は家で嗜む程度だった兄ですが、相次いで両親が亡くなり家を継いでからというもの、好きに飲み歩くようになったといいます。
飲み歩くといっても、昭和二十〜三十年代の田舎のことですから、そうそう飲み屋があったわけではありません。
兄は困ったことに、近所の友人や知り合いの家を五合徳利を持って訪ね、「最近、どげかえ?」などといいながら上がり込んで、そこの主人となし崩しに酒盛りを始めてしまうのでした。
当然迷惑極まりないのですが、幸か不幸か、兄は酒に弱い酒好きでしたので、長いときでも二時間もすれば酔いつぶれていたそうです。
また、いつも同じ家に行くのではなく、近所中の家を順番に渡り歩いていたので、来られる方からすれば月に一回程度の面倒ごと、それくらいなら勘弁してやるかと、大目に見てもらっていたようです。
大変なのは義姉でした。
夕方になるとふらりとどことも知れず出かけてしまう夫。しばらくすると、出かけた先の家から連絡が入ります。そうすると、食事中でもその家に走っていって平謝りに謝罪し、つぶれた夫を文字通り耳を引っ掴んで連れて帰るのです。
そんなことが、週に三、四回はあったといいます。
当初こそ、兄を諌めたりなだめたりしていた義姉ですが、そのうち愛想をつかしてしまいました。
とはいえ子どももでき、シラフの時は気が弱く仕事もちゃんとする人だったので、なんとか離婚までは至らなかったとか。
昔の人は偉いなぁと、私は子供心に感心したものです。
祖母は、盆や正月、祭りなどで実家に里帰りするたびに、義姉から兄の愚痴を聞いていたそうです。
兄の酒癖の悪さは知るところでしたから、祖母は義姉の味方でした。もっとも、義姉と一緒になって兄を諌めても、まるで効果はなかったようですが。
ある年の秋祭りのことでした。
祖母は毎年この祭りを楽しみにしていて、このときも子どもたちを連れて里帰りしていたそうです。
すると、実家に到着するやいなや、義姉が切り出しました。
「聞いてや! あん人、今度は田んぼで飲んできたんで!」
いきなりのことで訳がわからずにいると、義姉が悔しそうに続けます。
「こないだな、いつもんごと出かけち、けんどいつまでたっても、どこの家からも連絡がないんよ。川にでも落ちこんだかと探しに出たら、そこの田んぼの真ん中で、グースカ寝ちょんの! 私はもう、腹がたつやら情けないやら」
そこの、と示した先は、家のすぐ近くの刈り取りが終わった田んぼでした。
つまり兄は、田んぼで酔いつぶれていたのを義姉に発見されたようです。
「またどこぞにお邪魔して、帰る途中でつぶれたっちこと?」
「知らんに。本人に聞いても何も覚えちょらんち言うし。心配して損した!」
義姉はプリプリしながら、手際よく祭りのご馳走を作っていました。言い方はきついですがしっかり者で、近所からも「あの家は嫁さんでもっちょる」と言われるほど、よくできた義姉だったのです。
「兄さんは、相変わらずしょうもないなぁ」
義姉の肩を持ちながら、祖母も料理に加わりました。
「義姉さんも、苦労するなぁ」
「酒さえなければ、仕事もするし尻に敷かれてくれるし、悪くないんやけどなぁ」
義姉の言葉に笑いながら、このときは祖母も特に心配はしてなかったといいます。酔っ払いにはありがちな、失敗話のひとつだと思っていたそうです。
そうではないと知ったのは、次の年のお盆のことでした。お参りのため、慌ただしさを少し過ぎた頃に里帰りしたのです。
「おう、よう来たな」
実家に着くと、珍しく兄が出迎えてくれました。その顔を見て、祖母は言葉が出なかったといいます。
頰はこけ、目の下には濃いクマがありました。なんとなく黒くくすんだその顔は、まるで狸のようだったといいます。
そしてなにより驚いたのは、兄の背中に覆いかぶさるように、黒い靄が漂っていたことでした。頭のてっぺんから膝のあたりまで広がり、まるでおんぶ紐で靄を背負っているようだったそうです。
「に、兄さん、どげしたん? どっか悪いん?」
思わずそう訊きましたが、兄は意外そうに首を振りました。
「いんや、むしろいいくらいや。実はな…」
なにか言いかけた兄でしたが、「まぁ、ゆっくりしてけ」と言いながらそそくさと離れていきました。奥から義姉が出迎えに来た姿を見つけたのです。
兄が踵を返すと、黒い靄は小さく揺らめいて消えてしまいました。その一瞬、獣のような匂いを感じたそうです。
「いらっしゃい、よう来たね」
義姉は、去っていく兄をひと睨みし、いつもと変わらず祖母を迎えてくれました。
「義姉さん、兄さんどげしたん? あの顔…」
「ああ。あん人な、とうとう酒が頭にまわったごたる」
「あたま?」
「前に、田んぼでつぶれちょった話しをしたやろ」
「うん」
「あれがな、ここんところ続いちょるんよ。月に10回は、田んぼやら畑やら道端で寝っ転がっちょん。もう、あん人はダメやわ」
ため息とともに聞く義姉の言葉には、以前のような怒りはなく、もはや完全に愛想が尽きたという感じでした。
「しかも、自分はどこそこでもてなしてもらったとかホラ吹いて。昔話じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい」
「仕事は行きよんの?」
「これで稼ぎがなかったら、追い出しちょんよ。さ、早よ上がりよ。仏さまに顔見せちゃって」
義姉に促され、その話は立ち消えになりました。まだいろいろ訊きたいことはあったのですが、義姉は兄のことを口に出すのも嫌そうだったので、祖母は遠慮したそうです。
ですが心の中では、兄が背負っていたあの黒い靄のことが、とても気になったといいます。
その晩、兄は珍しく飲みには出かけず、みんなで夕食を囲みました。
家では義姉の目もあってか酒は控えているようで、シラフのまま時々祖母に視線を送ってきます。きっと昼間言いかけた話をしたいのだなと思いましたが、その機会のないまま、その晩は更けてしまいました。
食事中の兄の背中には特に変わったことはありませんでした。ですが自室に戻ろうと立ち上がったとき、一瞬だけ、昼間と同じように広がった黒い靄がみえたそうです。
靄はまたすぐに消えてしまいましたが、その時すれ違った兄の子どもが何も言わなかったので、祖母はあの靄は自分にだけみえるのだと確信したといいます。
次の日の朝、祖母は帰り支度をしていました。当時は里帰りといってもゆっくりはできず、一泊で帰るのが当たり前だったそうです。
「昨日の話やけどな」
荷物をまとめていると、そっと兄が隣に座りました。背中には昨日の靄はありません。ですが、近くに寄ると、ムッと獣の臭いがしました。
台所で朝食の片付けをしている義姉の様子を見ながら、兄は続けました。
「お前にだけは話しちょく。実はな、おれ、好いた人ができたんよ」
「はあ!?」
予想外のことについ大きな声が出た祖母を、兄は睨みつけました。
「でけぇ声出すなちゃ。あいつにバレたら大ごとやけん」
気の弱い兄らしく、話しながらもチラチラ義姉の方を伺っていたそうです。
「兄さん、本気で言いよんの?」
「もちろん。誰にもまだ知られてねぇけんど、時期が来たら、お前にも紹介しちゃるけんの」
「どこの人なん? どういったわけで、そげなことになっちょんの」
「詳しくは言えんけどな、この近所に一人で住んじょる、未亡人なんよ。おれは、仕事帰りにたまたまその人に会うてな、それでまぁ、ちょくちょく会ううちに、ちいうわけよ」
「会うっち、そん人の家で?」
「まぁ、そうやな」
ちょっと考えても、ありえない話でした。
当時の田舎は良くも悪くもつながりが強く、一人暮らしの未亡人のところに足繁く通えば、近所にバレないわけがありません。話の内容ももちろんですが、自分の置かれている状況のおかしさに、兄自身が気付いていないことに、祖母はゾッとしたといいます。
「なに、馬鹿なこと言いよんの」
「馬鹿なもんか。今に見ちょれ。あいつ追い出して、あん人をこの家に迎え入れるけん」
「義姉さんは、兄さんにはもったいないくらいの嫁さんやで。それに、子どもたちもおるやないの」
兄の二男一女の子どもたちは、叔母である祖母から見ても利発で可愛らしく、兄も将来を楽しみにしていたそうです。
「子どもたちも、あん人に任せればいい。べっぴんで優しいで、誰かとは大違いや」
兄はすっかり「あん人」にベタ惚れなようでしたが、聞けば聞くほどおかしな話に、祖母は混乱したといいます。
「むげねぇ《かわいそうな》人なんよ。夫と子どもに死に別れてな、ここまで流れて来たんやっち。女の一人暮らしは心細いからっち、おれが行くのを喜んで待っちょってくれてなぁ」
「死に別れたって、なんで」
「それは知らん。その話をすると涙ぐむんよ。それがまたいじらしいで」
「…兄さんまさか、そん人にお金なんか、渡しちょらんやろうね」
「いくらか渡そうとしたけんど、そういうことは一緒になってからっち、断られたんや。まったく、できた女子やわ」
兄はそこまで言うと、ちらりと時計を見やって立ち上がりました。いつの間にか、出勤の時間になったようです。ちなみに、兄は役場づとめでした。
「気をつけて帰れよ。新しい義姉さんがきたら、仲良くな」
小声でそう言って、兄は離れていきました。台所で無言の義姉から弁当を受け取り、子どもたちに見送られながら出かけていきます。何の変哲もないその姿と、先ほどの異様な話が結びつかず、祖母は呆然としていたそうです。
ただ、角を曲がる寸前の兄の背中に、またあの靄が寄り添うのが見えたといいます。
─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…
「…それで?」
詰めていた息を吐くのと同時に、私は尋ねました。語っていた祖母も少し疲れたのか、小さくため息をつきました。
「…帰り際に、それとなく義姉さんに聞いたけんど、兄さんはほんとにお金は渡しちょらんようやった。けんど正直、タチの悪い女に騙されちょん方が、まだ納得がいったわ」
「お兄さん、騙されちょったん? なにに?」
「さあなぁ。兄さんに会ったんは、それが最後やったんよ。その年の秋の祭りの前に、危篤じゃっち連絡が来てなぁ。慌てて駆けつけたときにゃもう、義姉さんが遺体にすがりついて泣きよったわ。ほんと、むげねぇのは義姉さんの方よ」
当時のことを思い出したのか、祖母は眉を寄せました。義姉とは本当に仲が良かったのでしょう。
「ふーん……。黒い靄っち、結局なんやったん?」
「それもよくわからん。でもな、通夜の晩、ばあちゃん変なものを見たんや」
祖母は少し声をひそめてそう言いました。
「あれはなぁ、狸に似ちょったけど、ほんとはどうやったんか…。とにかく、狸みたいな動物が、通夜をしよん座敷のすぐ外の庭におってな。いっこも逃げようとせんの。ばあちゃんが追い払おうと近づくと、口を開けて威嚇してな。その口の中が、恐ろしいくらい真っ赤でなぁ。通夜が終わるまで、ずっとそこに座っちょったよ。薄気味悪かったわぁ」
「お兄さん、狸に取り憑かれちょったんかなぁ」
「かもしれん。動物に悪さする人じゃなかったんやけどなぁ。どこで恨みを買ったんか、それとも逆で、惚れられたんか。ばあちゃんにはわからん」
そして祖母は、大きく伸びをして長話で固まった体を伸ばしながら、「でもまぁ、やっぱり一番は酒のせいよ」と呟きました。
「サナちゃんは、酒を飲まん人を旦那さんにしよ。今は自分で選べるんやけんな」
「何年先になることやらね」
私も祖母の真似をして伸びをしながら、他人ごとのように応えます。
「ところで、お義姉さんっち、お兄さんのこと好かんのやなかったん? なんで亡くなったとき泣いたんやろ? 」
ふとそう尋ねると、祖母は意外そうな顔をして目を見張りました。
「大人っち、そういうもんよ。サナちゃんにはまだ難しいかね」
そう言って、可笑しそうに笑いました。
─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…
─…─…
あれから二十年近くが経ち、残念ながら私は、祖母が禁じた酒飲みと結婚してしまいました。祖母の兄とまではいかないものの、なかなか面倒なからみっぷりです。
酔っ払いを何とか布団に押し込んだあとは、必ずと言っていいほど祖母の兄の話を思い出します。録音していれば、夫に聞かせてやれたのに、と悔やんでいます。
それと同時に、あの時はわからなかった祖母の義姉の気持ちも、理解できるようになりました。大人になったということなのでしょう。
わからないこともあります。祖母の兄は、結局なにを見ていたのでしょう。
酔っ払いの妄言、幻覚なのでしょうか。
それとも本当に、狸かなにかに取り憑かれていたのでしょうか。
しかしいくら考えても、祖母にもわからなかったことが、私にわかるはずもありません。
私にできるのは、大いびきをかく夫の耳元で、酒飲みが狸に化かされた話を囁くことだけです。
祖母の、兄と義姉のことを思いながら。
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