第10話「鮮血の舞うヴォールト城」
──ひとまず最低限の一般常識は教えました。ただし、貴族としての常識はその限りではありません。
そう、従者ダミアンから報告があった。
それなら一度顔合わせくらいはしておいてもいいか、とルーベンは考えた。
辺境を守る公爵家ともなると、その屋敷は城と見紛うばかりのものになる。実際、領内では普通にヴォールト城と呼ばれていた。
時には領民からの陳情を聞いてやる必要も出てくるため、謁見の間なども用意されている。本来、支配者である貴族とそれ以外が同じ高さの大地に立つことなどあってはならないのだ。仮に野外であれば、戦時中などの特別な事情を除けば、平民たちは皆大地に伏して貴族を敬うべきなのである。
ルーベンは突然出来た第三子──ローリーとの顔合わせも謁見の間で行なうつもりでいた。これはつまり、ルーベンにとってローリーと同じ高さで会話をする気がまったくない事を示していた。
これまでに入っている情報からすれば、ローリーなる者は間違いなく王家か公爵家の血を引いているのだろう。
しかし傭兵などという社会の最底辺の者たちと共に過ごしてきたならば、貴族としての教育など受けているはずがない。
たとえいかに貴き血を引いていたとしても、蛮族程度の
最低限の一般常識程度が身についたならば、この国で最も力を持っているのが国王だという事くらいは理解しているだろうし、公爵家当主であるルーベンがそれに次ぐ立場にいる事もわかっただろう。
ローリーをどう使うにしても、まともに公爵家の一員として認める気はルーベンにはさらさらなかった。
であればはっきりと立場の上下を教え込む必要がある。
謁見の間で会う事にしたのはそういう理由からだった。
◇
領城勤めの兵士に案内され、謁見の間に現れたのは、王城に飾ってある建国王の肖像画に瓜二つの赤髪金眼の青年だった。
ルーベンは正直驚いた。宰相より先祖返りと聞いてはいたが、まさかここまで似ているとは。
しかし時は現代。建国直後の大昔ではない。かつての王に容姿が似ているからと言って、何が優れているわけでもない。
側に立っている兵士の持つ槍と比べたところでは、身長はディランと同じくらいだろうか。年齢は次男のアーロンに近いはずだが、ローリーの方が背が高いようだ。
そのように身長がわかるという事は、跪いていないという事である。公爵を前に膝をつかないとは、不敬にも程がある。
ダミアンは一般常識は教えたと確かに報告を上げてきていたはずなのだが、と思ったところで、そういえば一般の平民が上位の貴族と直接会うような機会などほとんどない事に思い至った。
稀に何かの功績を上げて褒美を与えられる平民もいるが、あれらはその都度、城や屋敷の人間に謁見の作法を叩き込まれている。つまりそうした作法は一般常識には含まれていないという事だろう。
しかし傭兵であったと言うのなら貴族に雇われる事もあっただろうし、戦功を上げて褒美を受け取る事もあるはずだ。
なのにそうした礼儀を知らないのだろうか。
だとしたら、傭兵と言っても大した実力でもなかったのかもしれない。
帝国から「王家の者が暴れている」という内容のクレームが来たそうだが、実際のところはそう被害が出たわけではなく、王国に対して嫌味を含んだ言い方をしただけだったのだろう。つまり、政治的な駆け引きだ。
そう考えると、たかが嫌味のために蛮族を養わなければならなくなった己の不幸を嘆きたくなる。
「貴様がローリーか」
名前の前に頭が高い事を指摘してやろうかとも考えたが、物を知らない下民上がりを相手に揚げ足を取るようで少々みっともない。
敢えて一般常識のみを教えておくよう命じたのもルーベン自身であるし、ひとまずこの場はローリーの作法については不問とする事にした。
この先必要になるようなら、改めて教育していけばいい。
「はい、父上」
何の感情も映していない金色の瞳でルーベンを見つめたまま、ローリーがそう答えた。
確かに、そう答えるのが正しい。
実際のところは不明であるにしろ、ルーベン自身もそういう事にすると合意した上でローリーを公爵家に連れてきたのだ。
しかし、なんとも言えない気味の悪さがルーベンを襲った。
もしかしたら、礼儀も知らない下民上がりに父と呼ばれた事が不快であっただけかもしれない。あるいは、もっと違う理由だったのかもしれない。
いずれにせよ、ルーベンは貴族らしくなくつい顔を顰め。
「……私を父と呼ぶな」
そう言い放った。
「わかりました。公爵閣下」
すると即座に、やはり何の感情も映さない瞳でそう返された。
何かがおかしい。直感がそう言っている。
普通、親に「父と呼ぶな」などと言われれば、多少なりとも動揺するものなのではないだろうか。そうでなくとも、何かしらの感情は浮かぶはずだ。
しかしローリーの瞳には全く何の変化も無かった。
これではまるで、ローリーの方がルーベンを父と認めていないかのようではないか。いや父どころか、ローリーはルーベンを取るに足らない存在だと考えているのではないのか。
「……口を慎め、ローリー」
苛立ち紛れにそう吐き捨てる。
ローリーはルーベンに対し了解の意を伝えただけなので、これは明らかに理不尽な言い様である。
しかしローリーはそうした貴族の理不尽に慣れていないのか、今度は少しだけ困惑したような色を瞳に乗せながら、しかし無表情につぶやいた。
「十分慎んでおりますが。公爵閣下」
何を言っているのかこの男は。
慎んでいる人間はそんな事は言わない。
「──貴様っ! 何だその舐めた態度は!」
ルーベンが「父と呼ぶな」と言った──つまり、内心で息子とは認めていない──からか、それとも初めからローリーに目を掛ける気がない事をどこかから聞いて知っていたのか、ローリーの側に立っていた兵士が彼に槍を突き付けた。
しかし仮にルーベンがローリーをどう思っていようとも、それはあくまで公爵家の問題である。少なくとも表向きはルーベンの子として受け入れた以上、公的なローリーの身分は公爵の係累ということになる。
間違っても一兵士如きが無体を働いていい相手ではない。
(……あの兵士はどこの誰であったか。その程度の事もわからぬのでは、推薦者も含めて少しきつめの罰を与える必要があるな)
公爵家に仕えようと思えば、普通は実力だけでなく家柄や推薦などのコネクションも必要になる。
例外的に、国からの補助金と聖教会へのイメージ戦略でどこの馬の骨とも知れぬ孤児院上がりを雇う事もあるが、そういったケースは稀なためルーベンも顔くらいは覚えていたりするものだ。
覚えがないということは、あの無能な兵士を推薦した家か人物かがいるという事になる。あんな兵士が増えては公爵家の格を落とす事になりかねないため、推薦者にも連座で罰を与え、分からせておく必要がある。
連座で罰が下ると言うと厳しく思えるが、このシステムは罰を受ける側にも良い所がある。
それは、このように何かをやらかしてしまったとしても、推薦者や自分の家が連座で罰を受けることで一人あたりが負担する罰が軽くなることだ。
逆にそうした後ろ盾のない孤児院上がりは、特に何かをやらかしていなくとも割の合わない仕事を回されてしまったりする。
そう、あのダミアンのように。
何にしても、この時ルーベンはこの兵士の言動を問題だと認識はしていても、さほど重い罰を与えるつもりは無かった。
ところが、新たなる公爵家の係累はそうは思っていなかった。
何より彼に殺傷能力を持った刃物を突き付けてしまったという行動が良くなかった。
「公爵家の人間、という事になっている私に、正当な理由無く槍を突き付けるとは。一般常識として教わっているぞ。貴族に無礼を働いた平民は死刑だ、と。斬り捨て御免、という事例だなこれは。覚えたことをすぐに実践できるとは、さすがは公爵家だ」
ローリーが頷きながら、そんな事を呟いたのが聞こえた。
咄嗟にはその意味が理解できず、ルーベンは聞き返そうとした。
「貴様、今なん──」
「──かひゅ」
しかし、遅かった。
ルーベンが息を吸った時には、ローリーの手は兵士の首にかかっていた。
そしてルーベンが口を開いた時には、ローリーの手は兵士の首から離れていた。
さらにルーベンが声を発した時になると、兵士の喉からは鮮血が吹き出していた。
これは後からわかったことなのだが、首に手をかけていた時ローリーはただそうしていただけでなく、親指で兵士の喉を突いていたらしい。
屋敷内であるので兜こそ脱いでいるものの、兵士はチェーンコイフをかぶっている。それは当然首周りも防護していたのだが、驚くべき事にローリーは指の力のみでコイフの
哀れな兵士は血を撒き散らしながら倒れ込み、喉を掻きむしるようにして暴れていたが、しばらくすると全身から力が抜けていき、やがて息絶えてしまった。
その間、ルーベンも、ルーベンの補佐役の家令も、他の兵士たちも、ローリーを連れてきたダミアンも、誰ひとりとして動くことはなかった。
あまりに非現実的な光景だったからだ。
あるいは、喉に大穴を開けられたため、倒れた兵士の叫び声が響かなかったからかもしれない。
「──平民でありながら貴族に槍を向けた愚か者は始末いたしました。ご安心ください、公爵閣下」
そしてこの惨劇を生み出したローリーは、その顔を返り血で染めながらも、先ほどと同じ何の感情も乗っていない金の瞳でルーベンを見つめ、ごく普通の口調でそう言った。
あまりの事態にルーベンもついていけていなかったが、ローリーに静かに見つめられた事で、何かを話さなければというプレッシャーを感じてしまう。
何とか絞り出し、言葉になったのは、しかしどうにも的外れな内容だった。
「そ、そう、か。だが、ローリーよ……。我が家を守る兵士は、基本的に、最低でも、騎士爵という貴族籍にある者だぞ……。平民ではない……」
「なんと。そうでしたか。その、騎士爵というのは──」
ちらり、とローリーはダミアンを見た。
しかしダミアンは倒れて動かない兵士を凝視しており、ローリーの視線には気付かない。
ローリーはおそらくダミアンに何かを確認したかったのだろうが、すぐに切り替え、ダミアンから視線を外し、再びルーベンを見た。
「騎士爵というのは、公爵家よりもかなり格が低い……のですよね。雇われているくらいですから。ならば、問題はありませんな。これも一般常識なのですが、貴族というのは爵位の高低に厳しいものです。私が公爵家の係累であり、公爵位が貴族の中でも最高峰であるならば、つまり斬り捨て御免は王族以外の誰に対してでも使えるということ──」
そう、感情の乗らない瞳で、声で、淡々と言ってのけた。
その後、ローリーは我に返った兵士たちによって取り押さえられた。
ルーベンは敢えてそれを止めようとはしなかった。
たとえローリーが実際に公爵家の一族だと認められていたとしても、突然これだけの事をしでかせば拘束されて当たり前である。
しかし後に、あの時止めておけばよかった、と後悔する事になった。
なぜならこの日、結果的に、公爵家に仕える兵士の殆どがその生命を散らしてしまったからだ。
ローリーは強かった。
特別に防御力があるわけでもない貴族服をまとい、寸鉄すらも帯びていない完全なる徒手で、襲いかかってくる兵士たちを次々と屠っていった。
その様はまるで、舞い散る落葉の中でひとり演舞を披露しているかのようだった。もちろん落葉というのは公爵領軍の兵士たちのことである。
いつかは疲れるはずだ、もうあと少しだけ、そう考えながら止め時を失ってしまったルーベンは、飛びかかる兵たちが誰も居なくなるまで声を出せないでいた。
ローリーの動きは実に巧妙で、傍から見ていると本当にもうあと一手で押し倒せると思わせるような、そんな立ち回りをしていたのだ。これも後からわかったことだが、兵士から見てもそうだったのだという。
そのせいで、実に多くの兵士の命が無駄に失われてしまった。
騒ぎが収まり、ローリーをひとまず庭の離れに追いやった後、ルーベンは当然ダミアンを呼び出した。
「ダミアンッ! 何だアレは! 貴様、どういう教育をしているッ!」
「も、申し訳ありません! ですが、私はあくまで一般的な平民の常識しか教えておりません! まさか、あのような事をするなどとは夢にも思わず……!」
「そんな──」
そんな言い訳が通用するか、と怒鳴りつけようとし、何とか堪えた。
ダミアンの言う通り、あの男は少なくとも言葉の上では一般的な平民の常識しか口にしていなかった。
斬り捨て御免とかいう言い回しは知らないが、無礼打ちの事を言っているのなら、過去にはそういう事例も確かにあった。実際に行なった貴族も多くは無罪になっていたはずだ。
さすがに昨今は平民の影響力も無視できなくなっているし、他国の目もあるため、平民相手でも大っぴらに無茶は出来ないが、明文化されているわけではない。法的には未だに貴族絶対主義のままのはずだ。
ダミアンはルーベンに命じられた通りに仕事をこなしただけである。その点だけ見れば何の落ち度もない。
結果的にルーベンの思惑通りにならなかったという理由で首を刎ねてやる事も出来るが、そうしてしまった場合、ローリーの相手をさせる人間が居なくなる。
あれだけ異常な人物だ。
彼とただ会話をし、額面通りだとしても常識を伝えられるというだけで、十分得難い人材ではある。
今ダミアンを始末してしまうわけにはいかない。
「……とにかく、一般常識の前にだな、ええと、一般的な倫理観も教えておけ……」
「それは……。ですが、たとえ百の言葉を尽くしたとしても、それを理解してもらえるかどうかは……。また妙に曲解されて、さらに大変な事にでもなれば……」
抗弁するダミアンの表情からは「余計な事はしたくない」という感情が透けて見える。
そう言われると──言われてはいないが──余計な事はしない方が良いように思えてくる。
「……わかった。もういい。奴にはもう何もさせるな。離れに押し込めて、大人しくさせておけ。可能ならあの建物から一歩たりとも外に出すな」
「は、はい。わかりました。公爵様からの命令という事で申し伝えておきます……」
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