第3話「運命に殺されるはずだった少年」





 ある、月のない夜。

 ひとりの女が王都の貧民街にやってきた。正確には、貧民街と平民街の境界線にある孤児院へ、であるが。


 女は孤児院の門前に大きめのバスケットを置くと、逃げるようにその場を立ち去った。


 その後、その女の姿を見た者はいない。

 元いたところへ帰ったのか、貧民街の闇に飲まれてしまったのか。


 この国において、厳密に身分を分けられているのは王族と貴族、そして平民のみである。

 貧民という身分は存在していない。身分が無いということは、居ないのと同じだ。

 国が管理しきれない、何も持たず、何も生み出さない者たち。

 そうした者たちを街の端に押し込め、平民街で蓋をしたのが貧民街であり、そこに住む者たちが貧民であった。


 貧民街から身元の確かな死体が出る事はない。万が一貧民街で命を落とせば、身に付けている物全てと、時にはその髪さえもまるごと剃られて売り飛ばされてしまうからだ。そして名もなき骸のみが王都の外へと打ち捨てられることになる。


 故に、女の行方はもはや誰にもわからない。





 ところで孤児院門前に置かれたバスケットの中には、ひとりの赤子が入っていた。

 赤子は孤児院の関係者がその存在に気がつくまで、バスケットの中で静かに眠っていた。


 孤児院は聖教会の下部組織の慈善団体によって運営されていたが、ならばこそ、経営基盤は脆弱だった。孤児院に寄付される額は微々たるものであり、聖教会から下りてくる予算も決まっていたからだ。

 赤子一人とは言え、易易やすやすと受け入れる訳にはいかない。

 しかし門前に放置されてしまっては無視するわけにもいかない。聖教会の風評にかかわるからだ。

 孤児院は渋々ながら赤子を拾い、育てる事にした。


 もし僅かばかりでも金銭や食糧、毛皮や布などの物資と共に預けられていれば話は違ったかもしれないが、バスケットの中には赤子と赤子を包む端切れしか入っていなかった。

 そのせいか、敢えて死なせるような扱いこそされはしないが、その赤子の孤児院での立場は非常に悪いものだった。





 それから5年。


 赤子は男児となった。

 生き延びるのにギリギリの食事しか与えられなかったため、5歳にしては非常に小さな身体をしていた。

 また親を知らず、愛も情も与えられることが無かった男児には、喜怒哀楽というものが備わっていなかった。

 年に見合わぬ能面のような表情を、孤児院の他の者たちは不気味に思い、院内での男児の扱いはさらに悪いものとなった。

 目まで隠すほど伸びている、薄汚れた焦げ茶色の髪からは、常に汗と脂の匂いが漂っており、そうした不潔さもこの男児が遠ざけられる一因になっていた。

 これも元はと言えばイジメめいた仲間外れのせいである。齢5歳の男児であるし、ひとりでは身体も頭も清められない。男児が不潔であるのは本人にはどうしようもない事だった。


 このままでは、そう遠くないうちに衰弱か病気で死んでしまうだろう。


 と、そう周囲には思われていた。

 院としても、もう5年も面倒を見たのだから、誰とも知れぬ者に押し付けられたとはいえ拾った義理は果たしたものと考えていた。





 そんな頃、スラムと平民街の境界の辺り、ちょうど孤児院の近くで、ある貴族家による炊き出しというものが行なわれるようになった。

 炊き出しとは無料で食事が配られる行事のことだ。

 近くに住む孤児や貧民たちも最初は何の罠かと警戒して遠巻きに見ていたが、その貴族の令嬢らしき小さな女児が手ずからわんを差し出すのを見て、少しずつ警戒を解き、炊き出しを受け入れていった。

 貧民たちが警戒したのも無理はない。炊き出しには常に、この貴族令嬢を守る屈強な私兵のような者たちが付き従っていたからだ。


 その私兵の彼らもはじめのうちこそ貧民たちを見下し、鼻でもつまむがごとき態度であったが、自分たちが仕える令嬢に平伏しつたないながらも感謝の言葉を述べて椀を受け取る貧民たちを見ているうちに、徐々にほだされていった。

 いつしか、私兵の彼らも令嬢と並んで貧民たちに椀を差し出すようになっていた。


 彼らが差し出す椀を受け取る貧民たちの中に、薄汚れた焦げ茶色の髪をした男児もいた。

 おそらく男児はこの時初めてまともな食事というものを食べたのだろう。

 まず温かい食べ物というものも初めて知ったらしく、匂いを嗅いだ後スプーンを口に入れ、熱さに驚き吐き出していた。

 しかし味はそれでわかったようで、その後は恐る恐るスプーンを口に運び、あっという間に器を空にしていた。


 周りの孤児たちと比べても特に小さくみすぼらしいその姿は、貴族の私兵にも哀れに思えたのか、食べ方やスプーンの持ち方などを手取り足取り教えられていた。

 この頃にはもう、私兵たちには臭く汚い貧民たちと接する事に抵抗がある者は居なくなっていたようだった。


 男児は小さくみすぼらしかったが、頭が悪いとかそういうことはないらしく、教えられた事はすぐに吸収し自分のものにしていった。

 その日の炊き出しが終わる頃には、周りの貧民どころか、それなりの地位の平民と比べても恥ずかしくない程度には食器の扱いに慣れていた。


 炊き出しは毎日行われ、しかも数年も続いた。

 また炊き出しだけではなく、金銭という形で援助を受けて、それで生活している貧民もいるようだった。

 この資金援助は孤児には直接与えられず、孤児院に纏めて届けられる事になっていた。孤児院は受け取った資金をある程度孤児たちに分配していたが、あの男児に配られる事はなかった。

 そのため、資金を得た人たちが炊き出しにあまり集まらなくなっても、男児だけは生きるために炊き出しに通い続けた。


 貴族の私兵たちも一人変わらず通い続ける男児に情が移ったのか、食器の使い方だけでなく身体の動かし方や武器の扱い方、果ては強大な相手と戦うときの立ち回りなども教え込むようになった。

 男児はこれらの技術も真綿が水を吸うように瞬く間に身につけていった。

 ただ、誰も気が付かなかったのか必要無いと思っていたのか、言葉遣いや一般常識を男児に教える者はいなかった。


 十分な食事と訓練、そして睡眠によって、男児はすくすくと成長していった。





 男児が年相応に成長し、少年と呼べる年齢になった頃、炊き出しは唐突に終わってしまった。

 資金援助は続けられていたようだったが、この頃には食糧が高騰し、貰える金銭では満足に食べ物を買うことが出来なくなっていた。


 幸か不幸か、もう貧民街の貧民たちは、飢えを感じないという状況に慣れてしまっていた。

 しかし糧を得たくとも、貧民たちは働き方を知らない。中には知っている者もいたが、公的な身分を持たない貧民では定職に就くことも出来ない。


 もはや、日常的に飢えた生活には戻れはしなかった。


 働いて糧が得られないならば、奪うしかない。

 何故か貧民よりも飢え、しかもいつの間にか数を減らしていた平民から、貧民たちは糧を奪うことにした。

 食糧は買えないが、刃物が買える程度の金銭はある。襲うのは容易だった。


 ところで少年が暮らす孤児院であるが、ここにはそれなりの援助が続けられていた。

 故に炊き出し以前と同じ程度には、孤児たちはギリギリ生きていける食事を得ることが出来ていたのだが、当然のように少年の分は無かった。

 ただでさえギリギリの支援である。少年の分を無くしそれを他の者に振り分ければ、多少なりとも腹が満たせる。孤児院の者たちはそう考えた。それは運営側の大人たちも同じだった。


 仕方なく、少年は生きるため、平民から糧を奪おうとする貧民たちの活動に参加した。

 しかし少年は金銭を持っていなかったのでナイフすら買えず、ひとりだけ素手だった。





 そして貧民たちと共にあっさりと衛兵に捕らえられ、少年は王都より放逐された。


 この時少年の怪我が他の貧民たちより少なかったのは、素手だったから手加減されたからか、あるいは鎮圧にいつかの貴族の私兵が参加していて、手心を加えてもらったからなのかもしれない。





 ◇





 さて、王都を放逐された貧民たちであるが、当然ながら行く先など無かった。

 街を一歩外に出れば、そこには厳しい自然が待ち受けている。

 街に近寄ろうとすれば衛兵に再び叩きのめされてしまうし、街から離れていけば凶暴で恐ろしい獣──蠻獣ばんじゅうのひしめく森に入るしかない。


 しかし一応人類も狭い生存圏に、いくつもの街を作り、それらをか細い糸で繋げて生きている。

 王都と他の都市との間にも立派な街道が存在していた。

 森の切れ目を縫うようにして敷設されているそれは、しばらく放置すればあっという間に草木に覆い隠されてしまうが、そうはならない程度には整備され、人の通りも活発であった。


 その街道を通るのは、地方からの納税のための隊商──税は農作物などによる物納も多いため、街の有力商人と役人の半官半民で隊商が組まれ、流通の柱になっている──とその護衛の狩人ハンターたち、それから腕に自信のある個人の行商や流れの狩人などが主だ。


 商人や役人などの一般人では生存不可能な外の世界であっても、この狩人たちならその限りではない。

 彼らは特殊な訓練を積み、積極的に蠻獣と戦闘を行なう事で一般的な人間を遥かに凌駕する身体能力を得ており、中には二階建ての家ほどの大きさの蠻獣とも単身で渡り合う戦闘力を持っている者もいるほどであった。


 隊商などはそうした狩人を護衛に付け、街道を移動し国の流通を支えている。


 王都を放逐された貧民たちがそうした者に見つかってしまうと、彼らので街に通報が行ってしまうかもしれない。であれば、森と比べて安全であるとしても、街道の近くで生活するわけにもいかない。


 しかたなく、怪我が軽い者や無傷の者はひとまず森の浅層に入り、蠻獣を警戒しながら雨風を凌ぐ事にした。

 放逐される際に酷い怪我を負っていた者などは、他の者も他人の看護までする余裕が無かった事もあり、放逐されていくらもしないうちに命を落としてしまった。


 貧民たちは分け入った森の浅層で、奇跡的に生き残っていた、追放者の先輩である元平民の者らと合流し、ひとつの集団を形成することとなった。





 貧民と共に放逐された少年も、この集団に混じっていた。


 手慰み程度とは言え、大貴族の私兵から手ほどきを受けていた事もあり、少年は幼いながらもこの集団の中では上位の実力者であった。


 この森は浅いところなら普通の野生動物か小型の蠻獣しか出て来ない。

 貧民と元平民で構成されるこの集団の中には知っている者は居なかったが、これは大型の蠻獣の生命維持に必要な特殊なエネルギーの濃度が足りないからだと言われていた。

 森に分け入り蠻獣を狩る事を生業なりわいとしている狩人たちと、それをサポートする人々によって運営されている「狩人ハンターギルド」という組織にはそういった情報も蓄積されており、ギルド加盟者や一部の貴族らにはその情報も公開されていた。


 野生動物は言うに及ばず、小型の蠻獣程度ならば、貴族私兵の戦闘術を身に着けた少年は徒手としゅでも難なく狩る事が出来た。さらに元肉屋だという男が少年の狩った獲物をさばき、集団は飢えを凌ぐ事が出来た。

 また、小型と言えど凶悪な蠻獣である。

 ウサギ型蠻獣の爪やリス型蠻獣の牙など、上手く解体すればナイフ状の武器に加工できそうな素材も入手出来た。

 これらは元細工屋だという男が武器に変えた。こうした蠻獣由来の素材の中には下手な金属より丈夫な物もあり、王都では骨細工屋という職業も普通に存在しているのだ。統一性や見栄えの問題から兵士たちは金属製の装備品を使うことが多かったので、主には平民出身の狩人向けの店であった。


 道具も何も無い中でのスタートだったが、最初は石を砕いたり適当に捌いた蠻獣の骨で簡素な道具を作り、それを使い戦闘や解体を行なった。

 そうして新たに得た素材を使い、次はもう少しきちんとした道具を作り、また戦闘と解体を行ない、といった具合に繰り返していき、徐々に道具や装備の品質を上げていった。


 常に勲功一位である少年には、ある時、ウルフの牙製のナイフが2本作られた。

 ウルフは浅層にもいるし稀に森の外にまで出る事もあるが、牙でナイフを作れるほどのサイズの個体となると、森の中層から出てくる事は滅多にない。これは出会った少年が仕留めた大型の個体の一点ものだった。

 同時に毛皮や肩甲骨などの骨を使った防具も仕立てられ、少年の戦闘力は格段に向上した。


 少年を中心にそんな生活をしていくうち、元肉屋も、元細工屋も、他の元平民たちも、この森で生きていくためには生産活動だけでは駄目だという事に気が付いた。

 貧民と元平民は皆、少年から戦い方を習った。

 言葉は理解していても会話する事に慣れていない少年の説明を理解するのは困難であったが、身振り手振りも混じえて教わる事で何とか形にしていった。命が懸かっている事も理由としては大きかった。

 また、逆に他の者たちも、元肉屋や元細工屋、それから元家具屋や元仕立て屋などから生産技術を習う事になった。元薬屋からは薬効のある植物や食べられる植物も教わった。

 いざ集団からはぐれてしまった時、ひとりでもある程度生きていけるようにするには戦闘技術だけでは足りないからだ。これらの知識や技術は少年も同様に身に着けた。


 元平民たちはこうして人間的な活動を思い出し、また貧民たちは初めて労働の楽しさを知った。





 そうして数ヶ月、彼らは森で過ごした。あるいは一年くらい、いやもっと経っていたかもしれない。


 蠻獣ばんじゅうを狩り、時に狩られ、森の中での生き方を模索し。

 王都からも街道からも見えないくらいの位置、森の浅層と中層との境目あたりに拠点を作り。

 無口ながら集団で最高の実力者であり、また人間的な欲求が薄く心根が純粋である少年をかしらに据え、彼らは原始的でありながら組織的な集団として団結力を高めていった。


 短期的に命を繋ぐ算段がついてくると、彼らは今度は長期的に生活を安定させる事を考えるようになった。

 健康的な生活を送るためには、腹を満たすだけでなく精神的な満足感が必要であることを平民たちは慣例的に知っていた。

 しかし、森の中には娯楽はない。森の中での楽しみと言えば、食事の時間くらいだ。

 つまり、必要なのは調味料である。

 しかしこの森には、調味料として使えそうな植物は生息していなかった。


 集団は街道を通る隊商を襲う事にした。

 税が物納で行なわれているのなら、香辛料となる農作物や穀物もいくらかはそこに含まれているはずだからだ。







★ ★ ★


バタフライエフェクトと言うほどバタフライなエフェクトではありませんが、他にしっくりくる言い回しが思いつきませんでした。

ちょうどいいのがあれば変更するつもりで、タイトルに(仮)と付いています。

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