第2話「悪役を忌避した令嬢の功罪」
侯爵令嬢エヴァンジェリン・コンクエスタ。
それは、コンクエスタ侯爵という王国でも有数の貴族家という恵まれた出自に驕り、贅沢の限りを尽くし、強きに
さらには王女の婚約者に懸想するあまり、王女を貶めるような行為を繰り返し、あまつさえ大陸の覇権を狙うスフォルト帝国と内通し、王国崩壊の引き金を引き。
最期にはその罪を裁かれ断頭台の露と消える運命の、稀代の悪女である。
そして少女の知る
「──
まさか、悪役令嬢エヴァンジェリンに転生するだなんて……」
自室で大きな姿見を見ながら、少女が呟く。
なぜ、少女がその物語の世界に、しかも登場人物のひとりに成り代わってしまっているのかはわからない。
しかし、確実に言える事がある。
「……このままだと……。15年後に断罪されて、私死んじゃう……!」
エヴァンジェリン・コンクエスタ、齢五つ。
この日、彼女は生まれ変わった。
◇
死にたくない。
その一心で、その日からエヴァンジェリンは善行を積む事にした。
たとえ、物語の強制力のようなものによっていずれ現れる聖女と敵対してしまうとしても、それまでの評判が物語のように最悪なものでなければ、即座に処刑などという結末は避けられるかもしれない。
そうした、ある種の打算的な考えからの行動ではあった。
しかし、少女の倫理観は転生前の社会の影響でかなり真っ当であり、そして少女は善性の人間であった。
少女が行なったのは、まずは王都の端にある貧民街での炊き出しだった。
と言っても当然自分ひとりでやったわけではない。
父にねだって資金を用意し、侯爵家で雇っている私兵を使い、彼らに手伝ってもらったのだ。もちろん、炊き出しのスープを作るための人員も雇った。
コンクエスタ侯爵と言えば、本来であれば自分たちに何の得にもならない事には金も人手も使いたがらない、貴族の典型のような人物だ。
いくら侯爵がエヴァンジェリンを溺愛しているとは言え、そして使った金額も侯爵家からすれば大した事がないとは言え、その信念を曲げさせた事は称賛されて然るべきだった。
この炊き出しによって、この年の貧民街の餓死者数は激減した。
また侯爵令嬢のこの善行は、じわじわと市民の間で噂として広まり、それがやがて貴族社会にまで届き、果ては王家の耳にまで入る事となった。
その結果、エヴァンジェリンの父コンクエスタ侯爵は王より直々に称賛の言葉を賜る栄誉を受けた。
受けた本人としては、何の価値もない貧民が多少生き残ったところで如何ほどのものかと考えていたが、王に褒められるのは流石に気分が良かった。
なので、翌年以降も娘に懇願されるがまま、貧民街への支援は続けた。
さらにその様子を見たコンクエスタ侯爵派閥の法服貴族たちは、派閥の盟主に擦り寄ると同時に王家の覚えを
しばらくすると、貴族社会でのこの動きは王都のスタンダードになり、飢えによる死者は王都から数字上は消える事となった。
「よし。私と我が家の名声はかなり上がりましたわ。次は……ええと、今私が8歳だから……大変! 確か、今年はスラムを中心に疫病が蔓延して大勢の人が亡くなる年!」
次に少女が手を付けたのは、都内の衛生環境の改善だった。
と言っても、下水道の整備などは一朝一夕に出来る事ではない。
排泄物を一ヶ所に集め、隔離する仕組み作りや、それを行なう新事業の立ち上げなど、これまでに高まっていた侯爵派閥の名声を最大限に利用して、平民、貧民の衛生意識を向上させた。
人間、目に見えないものを警戒し続けるのは難しい。ろくに教育を受けていない人々なら尚更だ。しかしたとえ目に見えずとも、音や匂いといった別の五感で感じられるものなら話は別だった。
端的に言えば、それまでは慣れきってしまっていて気が付かなかった糞尿の匂いだが、一度でも遠ざけてしまえば、誰もがもう二度と近づきたくないと考えるようになったという事である。
もちろんそれだけでは風邪や流行り病をシャットアウトすることなど出来ないが、それでも衛生的には糞尿のすぐ隣で生活していたような環境とは雲泥の差があった。
侯爵や貴族たちも、この新事業で扱うモノがモノということで初めはあまり乗り気ではなかったのだが、自分たちの住む街が臭くなくなる事に気づいてからはやる気を見せるようになり、寄付金の額も増えていった。
そうして、疫病の発生自体は避けることが出来なかったものの、
先にも述べたが、エヴァンジェリンは善性の人間である。
彼女は確かに自分の命欲しさに自身や家の名声を求めていたが、民を救いたいと思う気持ちは本物であったし、実際の行動も素晴らしいものだった。
ただ、あくまでひとつの結果として。
多くの命が助かった事実は、必ずしも多くの人を救うことにはならなかった。
増えすぎた、いや、減らなかった人口によって、王都周辺の食糧の絶対量が不足する事態となったのだ。
口減らしとまでは言わないものの、本来命を落としていたはずの命が繋がったことで、本来であれば足りていたはずの食糧が足りなくなってしまった。
いくら貴族たちが金銭的な援助をしようと、商品が無ければ買うことは出来ない。
命を落とさずに済んだ平民のうち、もちろん仕事に就ける者は精力的に働き、生産力の一助となる事が出来た。
しかし貧民街の者たちのような、何の教育も受けておらず、何の仕事にも就けない者は、ただ与えられた物を享受するだけであった。
それが良いとか悪いとかではなく、彼らはそういう風にしか生きられなかったのだ。貴族や富裕層にしても、金銭的な援助は出来ても、貧民街の人間を雇うなど発想すら出来ない事だった。
それでも、貧民たちには善意──という名の自己顕示欲──に目覚めた貴族や富裕層によって、経済的支援が続けられた。
そうしてやってきたのは、食糧品の品薄に端を発する未曾有のインフレーションだった。
貧民たちはおろか、普通に働く平民でさえ日にパン一欠片しか食べられないような日々。
こんなにも働いているのに何故、と平民は思う。
ましてや、働いてすらいない貧民だって、貴族からの支援でパン一欠片くらいは食べられているのだ。
国民の不満は最高潮に達し、やがて爆発した。
暴動という形を取ったそれは、勢いこそ凄まじいものであったが、長きに渡りひもじい状況に置かれていた平民では万全の体調の兵士には到底敵わず、すぐに鎮圧されてしまった。
そもそも、有事の際のために特殊な訓練を受けている兵士と一般人では基本的な身体能力に大きな差がある。もし平民たちが万全の体調であったとしても、結果は全く変わらなかっただろう。
それは多くの平民もわかっていたことだったが、一般人と兵士が命懸けで戦うことなど基本的には有り得ず、それゆえに実感はしていなかった。
しかしこの暴動で、参加しなかった平民たちもその事実を目の当たりにし、結果的にこの後の平民街の治安は劇的に向上することとなった。
暴動に参加した平民たちに下された刑は、王都よりの追放であった。
単に王都から追放されるだけならば、罪に対して刑罰が軽いと感じるかもしれないが、それは違う。
この世界、人類の影響力の及ばない街の外は危険だ。
というよりも、人類は自分たちの影響力が及ぶ範囲のみを生存圏として辛うじて確保している、と言った方が正しい。
人類がその影響力を減じている最大の理由は、この世界の過酷な自然環境にある。
とりわけ、
例えば比較的人の街の近くに出る、よく目にする蠻獣にオオカミ型のウルフ種がいる。ただしウルフと一口に言っても、その容姿や形態は多岐に渡る。同じウルフ種でも体高に数倍の差がある事もある。
生まれたての子ウルフはみな小さな子犬程度の姿と力しかなく、どれも似たようなものなのだが、成長するに従って徐々に大きくなっていき、角が生えたり、牙が伸びたり、目が増えたり、炎を吐いたり、空中を走ったり、大地を割ったりと様々な能力や身体的特徴を獲得していくのだ。
代を重ねるわけではなく、同一個体が経年によってその形態を変じていくこの現象は、正確に言えば進化ではなく成長であると定義すべきである。
であるならば、ウルフのこの成長はいわゆる出世魚と同じシステムであると言えよう。
人間から見ていかに異様な成長に見えたとしても、それが彼らの生態であるなら、そういうものとして受け止めるしかないのだ。
これはウルフ種を例に取った話だが、ウルフ以外にもサル型のオーガ種やトカゲ型のドラゴン種など様々な蠻獣が様々に自然の中で生息しており、大抵の蠻獣は人類にとって脅威であった。
街の兵士たちが想定している有事には、そうした蠻獣との戦いも含まれている。
一般人と身体能力に大きな差があるのも当然であった。
もちろん、街道周辺など比較的安全な場所もあるが、街道が安全だったからと言って着の身着のままの平民たちに出来ることなどない。隣の街に辿り着く前に野垂れ死んでしまうだろう。
つまり外への追放とは、遠回しな死刑と変わらないのだ。
かくして、暴動に加担した平民たちは追放された。
追放された平民らがどうなったのかは誰も知らない。
しかし確かな事実として、働き手である平民が去った王都内において、著しく生産力が低下した事だけは間違いなかった。
今度こそ、貧民たちもパンさえ買えなくなってしまった。多少の金があろうとも同じ事だ。なんなら、パン一欠片よりナイフ一本の方が安いくらいの相場であった。
元々、満足な教育も受けられず、働くことさえ知らない貧民たちだ。
かつては飢えるに任せてそのまま死んでいった者たちであったが、ここ数年の援助によって、満たされる喜びを知ってしまっていた。それは同時に、貧民たちに立ち上がる体力を与え、さらに、金銭を品物と交換する知恵も与えてしまう事となっていた。
貴族たちによる支援はナイフに化けた。
何もしなくても与えられる金銭を差し出せばパンと交換してもらえる、という事はすでに皆学習している。
ではその金銭では足りなくなった場合はどうすれば良いか。
簡単だ。金銭を与えられる前にやっていたように、かっぱらえばいいのだ。
もちろん、パンに限らず食糧品全体の価値が高騰している現状では、平民街とは言えそれを売っている店のセキュリティは相応に高くなっている。
だが、そのためのナイフだ。そのための体力だ。
暴動を起こした平民が追放され、向上したはずの治安は急降下した。
貧民たちはそれぞれの手に、与えられた金銭で入手した様々な刃物を持ち、平民街の各所を襲撃し──平民の先輩たちと同じ末路を辿った。
こうして、本来の許容量を大幅に超えていた王都の人口は適正数まで減少する事となった。
食糧品や各種生活必需品の高騰も徐々に落ち着きを見せ、それまでの騒ぎなどまるで無かったかのように平和な王都が戻ってきた。
エヴァンジェリンの名声も陰る事はなかった。
客観的な事実として、彼女がやったのは紛れもなく善なる意思に基づいた正しき行ないであり、それは誰にも否定する事ができなかったからだ。もっとも、多くの貴族が彼女の活動に賛同し援助していた事も、彼女の名声に傷が付かなかった事と無関係とは言えないが。
結果として国民が増えたことも本来であれば喜ばしい事であり、それを活かせなかったのは国家の上層部の能力不足である。
もちろんそんな事は思ったとしても誰も口にしないので、貴族社会では単に「学もなく欲深い平民が突然反乱を起こした」という結論で片付けられていた。
当然、これらの事実はエヴァンジェリンの耳に入る事は無かった。
彼女の行動の結果、食糧不足や反乱が起きたと本気で考えた者は居なかったし、貧民や平民を気にかけていた彼女に反乱の話などを聞かせ、そのメンタルに悪い影響を及ぼす事を避けたからでもある。
臭いものに蓋をするかのような、王国の対応。
しかし、追放された平民も、貧民も、全員が死んでしまったわけではなかった。
絶望的な状況の中、死に瀕した事で目覚ましい成長を見せ、生き延びる事が出来た者も僅かながら存在したのだ。
運や巡り合せもあっただろう。それでも、ろくな武器も持たずに過酷な自然の中を生き延びた事は事実だ。それは彼らに、生に対する執着と、確かな自信を植え付けた。
生きることへの執着と自身の生存能力に対する自信は、遺棄された力無き民を野生の獣に変えた。
★ ★ ★
主人公が哀しきモンスターなので、区別するためにファンタジーモンスター的な存在は
読みにくいかと思いますが、いつか「蛮」の旧字体を聞かれた時にさらりと書けたらカッコいいと思いますので、せっかくですしここで覚えていってください。
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