しばしの沈黙。闇夜のように無際限むさいげんなそれを、突如とつじょ前触まえぶれなく、女のクシャミが無残むざんやぶる。それを契機けいきに、男が息を吸った。続けて「うーん、円盤えんばんかなぁ……」と、たましいの抜けたようにつぶやく。

「……なにがです? んっ、へへっ! ……んへっ!!」

「クシャミ独特どくとくすぎない?」

「うるさいですねぇ、いったい何回言うんですか、……クシャミするたび言いますよね」

「うん、まあね」

「『まあね』じゃないんですよ……、というか、なんでちょっとうれしそうなんですか……、もしかして先輩、ヘンタイなんですか?」

「……。どうなんだろ、考えてみたこともなかった」その語調が物語ものがたるのは、したしんだ山並やまなみにふと美しさを見る、そのわびしさに似た、新たなる自己認識じこにんしき

「ないんですね……」

「そういう雪子ちゃんは?」

「いちおう私、女の子ですよ?」

「知らないよ」

「え? どういうことですか?」

「ん、なんだろ、自分でもよく分かんないな。でどうなの?」

「……やめないんだ」後退あとずさるように女は言い、食べ放題ほうだいの店で途方とほうれるように言葉を続ける。「たぶんですけど……誰だって考えると思いますよ、年頃としごろになると。女の子は特に、男の子だっておそらくはみんな……。自分はどこかおかしいんじゃないかって、自分はヘンタイなんじゃないかって……」

「へぇ」のびたラーメンをながめるように男は言う。「そんなもんなんだ」

「だと思いますけどね、私は。きっとみんな、そんな感じでなやんでますよ」

「みんなが思うなら、それは普通のことなんじゃないんですか?」め立てるように男は言った。

「なんで今日の先輩はちょくちょくキレ気味ぎみなんです……? 頭痛ずつうでもするんですか、雨のせいで」

「いや、ただ雪子ちゃんのテンションに合わせただけ」

「いえ、私キレてませんよ。いつもより上機嫌じょうきげんまでありますが……それがなにか?」

「どうして上機嫌なの?」無意識に夕食を食べるような抑揚よくようのなさに、疑問符ぎもんふあわててベールをかける。

「それはですねぇ、さっき食べた立ちいソバが、すごく美味しかったからですよ」

うそでしょ……僕には死ぬほどマズかったけどね……」

「失礼ですよ。あやまってください。私と店の人に」

「ごめん、さすがにそれはできないかな……。よくあれを完食かんしょくできたなって、自分で思うくらいだし……」

「……まあ、残さず食べたのはエラいかもですね」

「だよね」

「やっぱり撤回てっかいし――」

「――食べられずに死んじゃう人が、世界にはたくさんいるんだしね」

卑怯者ひきょうもの」、女は包丁ほうちょうを振り降ろすように言った。

「え?」

「あ、すいません、言いすぎました。だけど……あまり極端きょくたんなのもあれですよ。大事なことだとは思いますけど……誰かのことを思うのは。顔の見えない誰かのことだっていうなら、なおさら。でも、二人きりのときくらいは……なんかこう……」

「ごめん。怒ったよね?」

「いいえ。なんかあれですね、今日は怒れない日みたいです」

「そんな日があるんだ」

「みたいです。……あれ? それでなんの話でしたっけ?」

「えっと……、そうそう、雪子ちゃんのクシャミがあざといって話だったような……」

「あざとくはないですねえ! あざとくは! わざとクシャミができますかって!」

「ご、ごめん、つい……、なに言っても怒らないって言うから……」

「そうは言ってないですねえ……!」

「思ったんだけど」

「なんです?」

「こよりを使えばできるよね、クシャミ」

「でしょうね!」

「さむい?」

「……ん、まぁ少しだけ」

「上着、そうか?」

「雨でびちゃびちゃですけどねぇ」

ぎゃくにさむいかな」

「と、思いますね。お気遣きづかいは、嬉しいですが」

 二人分のふくみ笑いの気配。それは、ビュッフェの食卓しょくたくに並ぶ、おにぎりとクロワッサンのようなむつまじさ。

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