背中合わせる腹の虫

倉井さとり

 夜の駅。

 大雨のために列車れっしゃが遅れ、一時ひととき停滞ていたい余儀よぎなくされた人々は、思い思いに時間をつぶしている。


 仕事帰りの三十男さんじゅうおとこは、上司に延々えんえん叱責しっせきされた疲れから、スマホをながめる気力すらなく、ホームのベンチに項垂うなだれるように腰掛けている。彼は、自身の取りめのない考えに沈んでいた。


『なんでこんな思いをしてまで、はたらかなきゃいけないんだろう。今すぐめたい。だけど、病気の母がいるから転職てんしょくするのも現実的じゃない。長男とはいえ、なぜ俺だけがこんなに苦労しなきゃいけないんだ。

 すでに家を出た弟と妹は、母の看病かんびょうについて口ばかり出すが、手も金も一切出さない。

 父は女遊びばかり。だらしないくせみょう平等びょうどうおもんじ、家に入れる金をしんでまで、外で作った子供たちの援助えんじょをしている。たまに母に優しくして得意になり、それをさかなに朝から酒を飲み、居間いま反吐へどよごす。そんなのが一番の家族サービスなのだから、殺してやりたくなる。

 本当、こんな人生、嫌になる。いっそ死んでやろうか。新幹線しんかんせんにでも飛び込んで。思えば子供の頃は、新幹線が好きだった。俺にとっては、一番いい死に方かもしれない。厚顔無恥こうがんむちな奴らのいに、徐々じょじょになぶりごろされるよりは、ずっとマシなんじゃないか』


 疲労を足枷あしかせ思考しこうは弱まり、彼の主観しゅかんは溶け、傍観ぼうかんの中ににじんでいった。


 ふと彼は、背後はいご気配けはいを感じた。

 彼のすわるものと背中合わせに配置はいちされたベンチに、今しがた誰か座ったのか、それとも彼が認識にんしきしていなかっただけで、初めからそこに誰かがいたのか、あるいは朦朧もうろうとする彼の見るまぼろしなのか、それは誰にも分からない。


先輩せんぱい。私思うんですけど」

 女の声。若く、思慮しりょが足りないような語調ごちょう


「どうしたの?」

 男の声。同じく若く、知的ちてきよそおいながら、底なしに抜けているよう。


「パンケーキって……なんか、よく分かんないですよね」女の声は深刻しんこくそのものだ。

「どういうこと?」

「パンなのか、ケーキなのか……」

雪子ゆきこちゃんってあれだよね。どうでもいいこと気にするよね」ひどおだやかな声。

「自分でもそう思いますけど……。でもですね、小学生の頃から気になってて……」

「なんかやみが深そうだね」

「闇とかないですよ、中二病ちゅうにびょうですか……。闇とか言っちゃう人は、みんな中二病ですよ」

「すごい偏見へんけん潔癖症けっぺきしょうともいえるかも」

「それはともかくですね。あるときから、どういうテンションでパンケーキを食べたらいいのか、分かんなくなっちゃったんですよねぇ……」

「もの食べるのに、テンション関係あるかな……?」

「ありますよ。テンションが合わないと、美味おいしくなく感じます」

「なら、梅干うめぼし食べるときは、どういうテンション?」

「え? なんで梅干しなんですか? パンとかケーキじゃないんですか……」

「でどうなの? はやく言いなよ」

「な、なんでちょっとキレてんですか……? 鈴虫すずむし先輩、ちょっと怖いですよ……」


 男は息を殺している。

 雨足が強まり、かえって沈黙ちんもく際立きわだつ。

 女は、狼狽うろたえた風に何度か言葉をみ込んだ。ついで、男の言葉をうながすように、固唾かたずをわざとらしく呑んでみせるも、そのくわだては無駄に終わる。死んだカエル観念かんねんにも似た静寂しじま。沈黙の重さにえかねたのか、女は、浅漬あさづけの本能を体現たいげんするような、淡白たんぱく口調くちょうで切り出す。

「……分かりましたよ、言います言います」一つつやっぽいめ息。「……やっぱり、自爆じばくするテンションですよね」

「自爆?」

爆弾ばくだんを食べる心境しんきょうといいますか……、だって、口の中、爆発するじゃないですか、梅干し食べると」

「そう、かなぁ? どっちかというと、ちぢむイメージがあるけど……」

「そうですかぁ?」

「なんかもう、ブラックホールだよね、口の中が」

「先輩って、意外と大袈裟おおげさですよね」

「雪子ちゃんだって……」

「で。先輩はいつも、どういうつもりでパンケーキ食べてるんですか?」

「どういうつもりって……」

「はやく言ってくださいよ」

「なんで怒ってんの……?」

「そりゃあ怒りますよ。言ってくれなかったら、ですけどね。私にだけずかしい思いさせるんですか?」

「恥ずかしい? ……なに言ってんだろこの子……」

「大丈夫ですか先輩? なんかれてますよ……?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る