第2話 カッター・Na・ナイフ
『……では続いてのニュースです。先日、ノーベル生理学・医学賞の受賞が決定した「メンデレーエフ」博士が、受賞を辞退すると発表しました……』
「ハァッ、ハァッ……くそっ……」
商店街のラジオの音声を後ろに流して、男が全力ダッシュで駆け抜ける。歳は二十近いか、オレンジがかった茶髪は少々長め、整った顔立ちと垢抜けた服装。振り向く人々に目もくれず息を切らして疾走する。
「ま、てやっ……ハァッ……」
それを追うのは学ランの少年。その容姿は一目見た程度では3秒で印象が薄れ、やけに目立つ頬の火傷痕だけが記憶に残る。そして両手にはこの時季にしては暑そうな黒手袋。
逃走は下り坂へ。茶髪男に続き学ラン少年が直滑走を決め、その差を埋めて……
「っだぁっ、とった!」
坂の底で追いつき、勢いのままタックルで突っ込む。
だが、茶髪男は半身で構えていた。学ラン少年をするりと流しつつ上方向への力を与える。
「え」
少年は茶髪男の背後の鉄柵を超えそのまま放り出される。その先は川、街中を流れるコンクリ固めの濁った水へ強制ダイブ。派手な水飛沫を上げ着水したのを茶髪男は鉄柵にもたれつつ見届ける。
「ゼェ……ハァ……」
川はそれなりに深いらしく、着水地点に煙が上がる。数人が何事かと集まってくる。
「なんだなんだ?」
「人が落ちたのか!?」
「なんか煙が上がってる……」
茶髪男が耳を塞いで怒鳴った。
「待て! 近づくな‼」
銃声のような鋭い爆発音、そして火と共に水柱が上がる。所々から悲鳴が聞こえた。
「爆弾? テロ?」
「ヤバいヤバい」
「とにかく警察を……」
野次馬たちはとりあえずスマホを構えたり、その場から離れたり、様々反応を見せる。それを脇目に茶髪男は柵の乗り越えを試みて
「……は?」
手が柵から動かないことに気がつく。鉄柵がいつの間にか茶髪男の手首を捉えていた。有り得ない事象を目の前に思考停止に陥る。その横から一言。
「あのバカ、考え無しに突っ込むからこうなる」
振り向くとそこには、黒縁メガネのスーツ男が片手を柵に触れて立っていた。クロガネである。
水煙が川の流れにゆっくり押し流される。ガシャッ、と何かが落ちてきた。炭化したヒトの腕だった。
「こいつ、捕まえてきてくれたまえ」
ここに来てから四日目、博士に唐突に呼び出された。手渡された端末には結構派手めの大学生らしき人物がコンビニから出てくる様子が映し出されている。これだけで人探しとは正気か。
「承知いたしました」
隣のクロガネが即刻了承しやがった。
「身長170前半、細身、推定
どうやらここ3日で散々痛めつけられた成果を求められているらしい。能力の訓練という名の
「成功報酬は滞在2週間延長だ。頑張りたまえ」
ん……?
「それ、なんですか。2週間延長……って?」
「ああ、言ってなかったっけ。君、ここ居られるのあと10日だよ」
「へ……?」
聞いてねぇよ。
「1元素の納入につき、この施設2週間滞在分の報酬が与えられる。流石に寝てる間はサービスしたけど、まだ君からは
「なるほど……ってどうゆうことじゃ! んな横暴、さすがに司法や世間は俺に味方するぜ」
『メンデレーエフ』はニヤリと笑った。非常に嫌な予感がする。
「おおっと、面白いこと言うもんだねぇ。別にここを出て行ってもらっていいんだよ? だが出ていった後の命の保証はできない」
「現状、されてる気がしないのですが……」
「ならば一度死ぬ目に会ってみるといいさ。そして、
「くっそ、感謝してやりますよチクショウ……」
ほぼ垂直にそびえる護岸の凹凸にへばりついて、吐き捨てる。目にシャンプーが入ったかのように染みるのと、右腕の肘から先はどこかに吹っ飛んだ以外は被害は無い。
水中に放り込まれる直前に腕に白い物体を付けられた。水に入ると物凄い熱を発しながら泡を出して、爆発した。腕に火が付いたような感覚があったかと思うと、全身を殴打された10倍くらいの衝撃が来た。
そして何より、あの爆発に巻き込まれた感覚を全て覚えていることが気味悪い。いつの間にか右腕を除く全身を硬く透明な物質が覆って、死を免れた。身体中が痛いものの、今、ここでなんとか壁にへばりついている。
「なんだったんだ……これ」
透明な物質はいつの間にか砕けて、川に流れてしまった。回収する気など起きない。
右腕の痛みはほぼ無い。なんとなく理由の検討はつく。
「もともと
ここ3日で違和感はあったが、俺本来の右腕はもう無いらしい。現に肘のすぐ先でちぎれたはずの腕が、手首付近まで伸びていた。
「……はぁ」
とりあえず、ここから上がるか。
「水との激しい反応、橙の炎が見えた。11番:
「……」
クロガネの問い詰めに茶髪男は黙秘を貫く。
「俺らのところに来てもらおう。聞くべきことは山ほどあr」
言いかけて、クロガネが咄嗟に身を翻し、腕で何かを払い落とす。飛んできたのは果物ナイフだった。
「ねぇ、あなた、ナーくんに何してるの」
声の主は制服を着た女子高生、ストレートの色素の薄い髪と整った顔立ちは人形と見まがう程、しかしその無表情からは殺意しか伝わってこない。左手にはもう一本のナイフ。
「クロエ!?」
茶髪男が名前を呼ぶ、が彼女の姿を視界に捉えられない様子。
と、そこへ後ろから2人組の警察官。
「君、何やってるんだ!」
若い方が距離を取りつつ声をかける。もう一方の手は万一に備え拳銃に伸びている。女子高生は振り返って一言。
「五月蠅い」
警察官に向かって突撃を開始。年上の警察官が拳銃を抜き、しかし間に合わず……
「いっだああぁぁぁくねえわ!」
コハルが間に滑り込み、指が生えてないままの右腕でナイフを抑えた。女子高生は舌打ちして右手を前に出す。
「邪魔」
と同時に警察官2人が顔を抑えてうずくまった。咳と涙が止まらない。
「クロエ? 今それはダメだ!」
茶髪男が何か察したのか叫ぶ。
「おい、
「……っ」
「まずいんだろ?」
「……
「……わかった」
「なんであんた咽び泣かないのかしら」
左手を掴まれたと思うと、足を払われ、あっという間にコンクリに叩きつけられる。なんだこの女。
「でも関係ないわ」
ナイフを持ったヤバい女の子に馬乗りされたこの状況、後に続くのはもうお決まりだ。
「死ね」
「うおおっ」
とっさに右手でナイフを止める。が、力任せに腹を深々と刺される。
「アアあああああイでえええ!」
さっきとは異なる本物の痛み。身体は勝手に跳ね、声を抑えられない。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……
「…………い…………おい、聞こえるか。起きろ」
無茶言うな。こちとらお腹がクレバスだらけなんだ。大量出血で真っ赤だが。
「大して血も出てねえだろ、起きろ」
んなバカな。ギャルゲーバットエンド並みの大惨事のはずでは……
「あ? ……れ」
目を覚ますと知らない天井、でも何でもなく青い空。そして顔全体を覆う鉄のマスクを外すスーツ男と、手錠付きの茶髪男。女子高生は隣で気を失っていた。
腹に恐る恐る手を伸ばすと、服に穴はあるものの血は思ったより出ていない。手で探ってみると皮膚の下に覚えのある感触。
「まさか……」
また
「君、どうなってんの……」
茶髪男からもっとも疑問が飛ぶ。普通なら2回は死んでもおかしくない。
「さあ……」
すると、サイレンが聞こえてきた。緊急車両御一行の到着である。
「国立生化研対元素2課所属のクロガネだ。男女2名の身柄はこちらが引き受ける」
手帳っぽい物を見せるクロガネに、ベテランっぽい警察官が嫌そ~な顔して頷く。
「了解した。協力感謝する」
駆け付けた人員は周囲の怪我人やらを確認したり、現場封鎖したりと忙しく働き始める。
「コハル、戻るぞ」
俺たちは迎えのワンボックスカーに乗り込み、その場を後にした。
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