7章 火の章
ミーンミーンと鳴く蝉の声が、空っぽの頭をすり抜けて中空へと散っていく。
絶え間なく、
夏の日差しは、木漏れ日と言うには強すぎる熱と光を、木陰のベンチに、溶ける様に力無く座り込んだ身体へと、容赦なく届ける。
真夏の昼過ぎ、普通なら今頃は、クーラーの効いた部屋で涼みながら食卓を囲み、冷たいソーメンでも啜って暑さを凌ぐ、丁度それくらいの時間だ。
そんな、活動するのが困難な炎天下の世界、視界の中で陽炎がゆらゆらと揺れるのを、私は一人、対照的に冷え切り凍えそうな心地で、ただ無感情に眺めていた。
顔が熱い。
上気した額も、泣き腫らした瞼も、流れ出した涙を止めるために何度も何度も擦った頬も、今になって熱を帯び、燃え盛るように熱い。
熱くて暑くて仕方ないはずなのに、それを感じる心が麻痺しているせいか、他人事のような、どうでもいい事としか思えない。
こうして、ぼーっとしている間にも、少しづつ体から水分が奪われていき。やがてはミイラのようにカラカラに干乾びるのが先か、それとも、心配した誰かが声をかけて、この時間が終わるのが先か。
(どっちでもいい・・・)
自暴自棄というより、考えるのがただひたすらに億劫だった。
少し頭を働かせただけで、後から後から、汚泥の泡のように不快な、顔を
それが苦しくて、考えたくなくて、何処にも往けないと分かってるくせに逃げ出して、こんな場所で無為に時を過ごしている。
逃げたくないのに逃げ出して、知りたくないのに耳を
何時もと変わらない日常に、あの張り付いた笑顔に
抑えなくちゃいけないのに、我慢しなくちゃいけなかったのに、ほんの少しだけ顔を覗かせた本心は、口に出せば、あっという間に瓦解して、雪崩を打って流れ出してしまう。
どれだけ後悔しても取り返しがつかない、そんな事があるなんて、その時まで私は知らなかった。
張り付いた笑顔の裏に何があるか、それを受け止める覚悟もないままに、盲目的に信じ込み、都合のいい様に解釈し続け、そうして肥大化した幻想に縋るように、甘い、甘過ぎる目論見で嘘を暴く。
昔話の舌切り雀で、欲深なおばあさんが大きな
その瞬間に、ありきたりであったはずの幸福は崩れ、多分もう、元の姿に戻ることも二度とない。
私が何を壊したのかは、直ぐに分かる。
それだけの事を仕出かした私に与えられた罰は、罅割れた仮面の奥から現れたそれは、憎々しげに歪む、拒絶と嫌悪に満ちた表情だった。
一瞬で血の気が引き、頭が真っ白になる。嫌な汗が噴き出し、ぎゅっと握り込んだ手の平の中で、じっとりと湿度を増していく。
怖気に全身を震わせると、夏なのに寒くて仕方がない。
何か知らない内に悪い事をしてしまって、それについて怒っているのだと思いたかった。まさか、私が口にした言葉だけで、こんな顔をするなんて信じたくなかった。
剥き出しの悪意に晒されることなんて初めてで、只々、縫い付けられた様にその場に立ち尽くして、恐怖と混乱に怯えることしか出来ない。開いては閉じ、開いては閉じ、私が酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせていると、
「どうして・・・!」
押し殺すように、咽喉の奥から絞り出すような声音で、小さく呟くと、
「なんで・・・、そんな事訊くの?」
暴発するかに見えた刹那、咄嗟に壊れた仮面の奥に素顔を隠すと、歪な、不気味な程の笑顔を顔に貼り付けて、そう口にする。
努めて理性的に振舞おうとする、その努力の跡は見て取れるが、今更取り繕ったところで、既に手遅れに思えた。
本当に壊れたものは何だったのか。壊したものは何だったのか。
幼い私には何もかも分からず、濁流の中の一枚の葉のように、翻弄され、飲み込まれ、やがて
何も言えずに固まる私と、壊れていることを知りながら笑顔を浮かべ続ける母との間に、ゾッとするような沈黙が流れる。
母はそれ以上何も言わない。待ってるようでもあり、耐えてるようにも映る。
動かそうとした唇は、まるで自分のものじゃないみたいにぎこちなくて、それでも必死で絞り出した声は、
「お、おか、さんは、わたしが・・・、嫌いなの?」
とてもか細く、しゃがれたものだった。
しかし、そんな私の言葉を受けても、母の笑顔は小揺るぎともしてくれない。そのまま、気持ちの悪い間を置いて、
「そんな事ない」
感情の篭らない固い声で、いっそ突き放すように、短く吐き捨てる。
強い言葉ではない筈なのに、それだけで心が軋み、漏れ出す痛みに思わず、「ひっ」と、小さく咽喉の奥で悲鳴を上げた。
膝がカタカタと震え出し、何時の間にか目から溢れ出した体液が頬を伝い、床に小さな水溜りを作っていく。そんな私を、母は、不自然に口角を吊り上げた笑顔のまま、一言も発っすることなく、唯見ている。
何か言わなくちゃ、と思いはしても、その視線に晒されてると、指の一本さえまともに動かせず。段々呼吸も苦しくなってきて、頭に血が巡ってないのか、ふらふらと、立っているだけでも精一杯だ。
言葉にしなくても、何より雄弁に物語るその姿が、母が私に抱く敵意にも似た感情を、容赦なく、殴打するように、私の心に刻み付けていく。
そんな私を前にして、ようやく口を開いた母の声は、聞き慣れた、何時もと何ら変わらない調子で、
「嫌いじゃない。でも、あなたの髪は嫌い」
いっそ楽しげに、まるで、我が子との他愛もないお喋りに興じているかのような気軽さで、そう言い放つ。
もう母の中では、
曰く、私の髪の色が、彼女の父親と同じである事。
初めて母の口から聞いた祖父は、日本の生まれでない祖父の姿は、鮮やかな赤毛が特徴的な背の高い白人で、俳優と見紛う美男子だったそうだ。戦後、祖国に帰らずに日本に残った彼は、そこで彼女の母となる女学生と運命的に出会い、恋に落ち、周囲の反対や偏見に遭いながらも、めげる事無くそれらを乗り越えていき、やがては、ささやかながらも結婚式を挙げ共に暮らし、そうして、彼女が生まれた。
でも、どうやらそこが幸せの絶頂だったらしい。映画ならエンドロールが流れて、はいこれでお仕舞い、となっても可笑しくないほど出来すぎた物語の結末のその後は、彼女が物心付く頃には、父はすっかり家に寄り付かなくなっていた。
愛人の家を転々とし、帰ってきた時には大抵、家の中の物が何か消える。記憶の中の父親の姿は、いつも、酔っ払っているのか赤ら顔の、だらしのない格好をしたそれだった。
それでも、母はそんな父を恭しく出迎え、甲斐甲斐しく世話を焼き、彼女を育てる為に外に働きに出ては、誰に頼る事も無く日々の雑事もこなしていた。記憶の中の母親の姿は、辛かった筈なのにそんな事はおくびにも出さず、何時も朗らかで、泣く子供をあやす時にだけ見せた少し困ったような笑顔が殊更に、今でも瞼に焼き付いている。
大好きで、だからこそ、何故、という思いも尽きなかった。結局、母は父が死ぬまでその家で帰りを待ち続け、父亡き後も、たった一人で最期まで、彼女の同居の誘いも断ってまでそこに住み続け、孝行する機会も持てないまま、ある朝冷たくなっていた。
母が父をどう想っていたかについては、最期まで、彼女に語られることはなかった。
少なくともその時までの父親に対する感情は、精々が、生理的な嫌悪と道義的な非難に過ぎなかった気もする。殆ど顔を合わす機会も無かった父親の事など、正直な所どうでもよかったのだ、しかし、母の死を経て、次第にそれは形を変えていく。
父親さえ居なければ、或いは、母が父をさっさと捨てていれば、二人でもっと幸せに暮らせたのに、父の行き過ぎた放蕩が原因の、数少ない、結婚を祝福してくれた親戚や友人を失う事も無かったのに、
「お母さんはあれを選んだ。私じゃなくて」
大好きで、大切だった筈の母にとって、彼女の存在は、あの父親にすら劣る、その程度のものだと言われた気がした。
母のようになりたかったのに、母が、父に死ぬまで囚われ続けた、愚かで惨めな女としか思えなくなっていき、必死で否定しようとも、後から後から湧いてくる疑心に、やがては、父に対しても母に対しても、区別なく侮蔑の念を抱くようになっていった。
父も母も唯の負け犬で、愚かであったから幸福な人生を歩めず、孤独に野垂れ死ぬ最期を迎えたんだ。
「私はそうはならない。正しく生きて、結婚相手だって地に足の着いた、誠実な、真逆な人を選んだ」
幸せになれる筈だった。実際、結婚生活は順調そのもので、夫に恋愛感情は無かったが、それが却って良かったのだと、その時は本気で信じていた。
誠実と言うより押しが弱く意志薄弱で、優しさと皮肉の違いにすら気付けない愚鈍な夫は、彼女にとっては扱い易く、煩わされる事の少ない理想的な相手とすら言えた。
そんな、波風の立たない穏やかとも退屈とも取れる生活は、彼女自身の選択の正しさを証明しているようで、何処までも幸福で満ち足りたものだった。
何もかもが上手くいき、このままの晴れやかな気分で、何時か、愚かで不幸だった両親の幻影に苛まれる事も、悪夢に魘される事もなくなると、内心思い始めた丁度その頃、彼女は自分が妊娠している事を知らされた。
突然舞い込んだ吉報に、無邪気に喜びに沸く周囲から祝福されながらも、彼女の中では、きっと賢い自分への更なる幸福な贈り物なんだと、もっともっと幸せになって、誰もが羨むような特別な人生を歩めるんだと、そんな確信めいた思いに、狂喜した。
段々大きくなっていくお腹は、まだ見ぬ幸福で膨らんでいくようで、酷い悪阻もトラブルも無く過ぎていく十月十日は、約束された未来に向けての準備期間としか思えない。
きっと、生まれてくる我が子を抱き上げて、溢れんばかりの祝福と笑顔に迎えられた時にこそ、漸く許せるようになるのだと、母のことをもう一度、純粋に大好きだった頃の自分に戻れるのだと、願うように祈るように、彼女はその運命の日を待ち続けた。
そうして待ち望み、季節が巡って夏の盛りの暑い夜、難産とも安産とも言えないまんじりともしない時間を過ごした後に、産まれた子どもの髪の色は、父親と同じ、鮮やかな赤だった。
疲れ果て、息も絶え絶えだった彼女は、おめでとうと言って渡された我が子の、その髪の色が視界に入った瞬間、奈落の底に墜ちていく自分の姿を幻視した。
頬が引き攣るのを、不器用な笑い顔だと捉えたのか、一気に和やかなムードに変わる周囲を余所に、彼女の内心は嵐の様に荒れ狂っていた。
縋るように、恐らくは、出会ってから初めて、夫に救いの手を求めるように目線を遣ると、その顔には困惑がありありと、狼狽しているのか落ち着きのないその姿は、頼ろうとした彼女が恥じ入る程に情けない。
とは言え、当然と言えば当然。夫には一度も父の事を話してなかったし、彼女自身、容姿は母親似で黒髪黒目、僅かに瞳の色が明るい事を除けばハーフの要素は殆ど無く、これまでに指摘された事も無い。
そんな彼女から、
きっと、今頃夫の頭の中では、産後の妻の身を案じるよりも、赤子の髪の色の理由が渦を巻いて、その事で脳がオーバーヒート寸前に違いない。
夫の事など気に掛けるだけ無駄だったと、後で説明するなり誤魔化すなりすれば、勝手に良い方に解釈して勝手に安堵すると、投げ遣りに視線を外し、彼女は腕の中の赤子を見詰める。
小さな命だ、まだ目も見えず、皺くちゃな顔はお世辞にも可愛いくはない。小さな手足を緩慢に動かし、もぞもぞと動いているのが腕に伝わってくる。
普通の母親なら、こんな時にどんな顔をするのだろう。彼女には、今自分がどんな顔をしているのかが、全く分からない。
不憫で哀れだと、想像していた喜びも愛情もなく、生まれ落ちた瞬間から実の親に疎まれた赤子も、それをした彼女も、その、幸福からは程遠い空虚さに、笑う様に泣く様に顔が歪む。
お前だけ幸せになってはいけないと、赤ら顔の父がニタニタ嗤いながら、彼女の、首に、手足に縋り付く。もがけばもがくほど、その嗤い声は大きくなり、甲高く反響しては、何時までも残り続ける。
愛そうと、普通の母親になろうと試みるその度に、赤毛は父を連れて来た。
誕生日に手料理を振舞えば、耳元で、母親の真似事だとケタケタと嘲笑う。風邪を引いた子どもの面倒を見ていても、付かず離れず、見たくない癖に、触れたくない癖に、本当は逃げたい癖にと、ぶつぶつと陰気に呟いてくる。
最初は、唯の思い込みだと、度重なる育児のストレスで参っているだけだと、そう思っていた。でも、その頻度が高くなっていく内に、次第にその影は確かな存在感を持ち始め、何時しか、何処に居ても父の気配が、足音がして、彼女の心を蝕んでいく。
上手くいっていた筈の生活も精彩を欠き、まるで嘘だったかの様にギクシャクしだす。夫の無神経な言動にも、以前のように軽くあしらえなくなる。
余裕が無いのは分かっていても、父の視線が、息遣いが気になって、感情のコントロールが儘ならない。
些細な事に腹を立て、ヒステリックに
壊れていくものを、嘗ては理想的だと自画自賛していたものは軋みを上げて、どれだけ必死になって守ろうとしても、空回りするように裏目に出てはさらに傷付けた。
その度に父の哄笑が響き渡るのを、嫌悪しながらも、心の何処かでは、これが普通で今までが出来過ぎだっただけだと、人並みの幸せなんて、望むのが不相応で愚かだったんだと、自棄になって嘲っていた。
結局、夫とは、それから暫くたった後別れる事になるのだが、切り出された時には、嗚呼やっぱりかと、酷く冷静で居られた。
その頃には、喧嘩らしい喧嘩も無くなっていて、忙しさを口実に避けられているのは、お互いにとっても都合が良かった。なので、てっきり、このまま仮面夫婦を続けていくものと、そう思っていた矢先に告げられた事にだけは、少し驚く。
言い訳めいた、好きな人が居ることや、子どもの養育費は払うといった戯言を聞き流しながらも、ぼんやりと。考えていたのは母のことだった。
同じように、捨てられる側になった。馬鹿にしていた筈の母と。何も変わらない馬鹿な顛末を迎えて頭に過ぎった事は、悲劇のヒロインめいた絶望感でも自虐でもなく、唯、困ったように笑う母の顔だった。
母のことを想うのは、随分久しぶりだと、ふと思った。
それからの離婚話は、お決まりの、夫の親からの、最初から反対だった、という変心もあってトントン拍子で進み、養育費やら親権の問題を片付けると、呆気なく終わった、筈だったが、直後に妊娠が発覚し、全てが白紙に戻される。すると、事態は混迷を極めて、思い出すのも嫌になるほどの、弁護士やら夫やその親との度重なる協議、もとい紛糾に、育児に酷い悪阻も重なって、頭を下げて子どもを預けては病院に役所に不動産屋にと、飲まず食わず実際に倒れつつ怒られつつ、全てが終わる頃には、不思議なことに、あれ程煩わしかった幻影も幻聴もスッカリ消え去っていた。
破綻した途端に居なくなるとは父らしいと、疲れ切った頭に浮かんだことを今でも覚えている。
働いて働いて、子を育て家事を消化し、少し時間が出来れば資格の勉強に励む。何かに突き動かされるように、二度と悪夢を見ないように、歯を食いしばって必死に生きた。
父のことも母のことも、考えるのが怖かった。間違っていたのは誰なのか、何時から狂っていったのか、答えの出ない気持ちの悪い切迫感に襲われる度に、言い訳染みた自己弁護の言葉が、頭を満たしていった。
醜い生き物が、汚物の中を這いずりながら、見つけた汚物に愛情という名を付けて喜んでいただけ、滑稽で惨めで哀れな道化は一体誰なのか。
愛することも愛されることも、どうしてあんなに自信があったんだろう。向けられる無条件に純粋な好意が怖くて堪らない。求められても返せない、だってそんなものは私の中の何処にも無い。
「あなたの目が嫌い。どうしてそんな目で見てくるの?気持ち悪い」
ショックを受けたような顔が、どうしようもなく心地良いのだから救いが無い。
「は~、ようやく言えた。ずっと言いたかった、気持ち悪いって」
込み上げて来る安堵と、漏れそうになる笑みを噛み締めつつ、大仰に息を吐いてみせる。
道化染みたその行為は、自傷するように自身を抉った。
「何で生まれてきたの?愛されると思った?ええ、そうよね。違うって思ったんでしょ?私はあなたとは違うって」
思ってもいない言葉を吐き出しながら、一々傷付いてくれるその反応に気を良くして、何時の間にか、嗜虐的に嬲る様に、まるで父のように嗤っている事に気が付く。
「逃げられるなんて・・・、ねえ。ほんとそっくり。不幸になるなんて微塵も信じてない、私には関係ありませんって顔」
口だけが別の生き物になったかのように、スラスラと饒舌に、後から後から言葉だけが流れ出していく。
「あなたも地獄に堕ちるのよ?だって、お母さんも私も何にも変わらなかったんだから、あなただってきっとそう。幸せになんてなれないし、誰も幸せに出来ない。・・・ずっとずっと苦しんで苦しんで、苦しみ抜くの」
どんな感情で、誰に向かって発しているのかがどんどん曖昧になり、吐く言葉の鋭さとは対照的に、胸の内は麻痺したように鈍く虚ろになっていく。
愛せないなら、せめて模範的な母親で在ろうと思った。その為に重ねてきた努力に、偽りは無かった筈だ、挫けそうになる度に、自分を慰め励ましては、牛歩の歩みの如く形作ったそれを、今自らの手で壊している。
「どうして?別に良かったじゃない、黒髪で?お母さんと同じ黒髪黒目で。何であれと同じ色なの?どうして・・・」
続く言葉が、込み上げてきたもので詰まる。
支離滅裂な思考は遂に破綻をきたし、剥き出しになった感情が感情のまま溢れ出す。
「どうして・・・、愛せない?見たくないのに、嫌なのに・・・、ずっと頑張ってきたのに・・・!?なんで?なんで・・・、なんで!?」
なんで、あんたなんか、うまれてきたのよ。
・・・
続く言葉が耳に届く前に、部屋を飛び出していた。
震える膝は言うことを聞かなかったが、それでも死に物狂いで逃げ出した。
怖かった。
歪んで、壊れて、崩れて。昨日までの常識も日常も、もう何処にも無い。
何が正解なのか分からない。あの部屋に戻った時、母はどんな顔で私を迎えてくれて、その時私は、どんな顔をしていたら良いんだろう。それからは、明日からは。
それを思うと心細くて悲しくて、泣きたいのに涙は涸れ果てていて、人恋しいのにもう一歩も動けない。それなら、もういいやと諦めて目を瞑った。
抵抗と言うにはささやかな、強い日差しが目蓋越しに届き、暗闇に逃げ込む事も出来ない。
それでも、妙に明るい暗闇の中、スクリーンのように、朧気な幼い記憶が、楽しかった思い出の中の情景が、投影されるのを眺めていると、少しだけ、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。
いっそこのまま目覚めなければ良いのに。夢でも幻でも優しければ、これ以上苦しまなくて済むのなら、そっちの方がよっぽど幸せだ。
もう見たくない。考えたくない。これからなんて無くて良い。
暑いのか寒いのか、朦朧とした意識がふわふわと体から離れていくのを、どうにでもなれと投げ遣りに放置していると、
「--ちゃんっ!ーーちゃんっ!?」
突如日が陰り、楽しい楽しい上映会が中断されたと思ったら、聞き馴染みのある声に、必死且つ悲痛に呼びかけられ無理矢理に意識を引き戻された。
億劫だと思いながら目蓋を持ち上げると、思った通りの
態々本人には言わないが、こういう時のこいつの顔は、普段の何割か増しで情けなく見える。
長い付き合いの中で、取り立てて珍しくもないその顔を、ぼーと眺めていると、
「大丈夫?」
反応があった事に一安心したのか、その声にさっきまでの切迫感は無い。とは言え、その顔からは気遣いの色が、ありありと一目で分かる程に、本気で此方を心配している事が伝わってくる。
しょぼくれた柴犬の様な顔だなと、ちょっと思ったのは内緒だ。中々和むし見ていて飽きないのだが、とは言え、流石にこれ以上無視するのも悪いし、心配させるのはもっと可哀想だと思い、安心させてやらなきゃ、と、大丈夫だ心配するなと、口を開き掛けたところで気付く。思うように声が出ない。
頑張っても、唾が咽喉に絡むばかりで出てくれず、それどころか激しく咳き込んで余計に心配な顔をさせてしまった。どうやら、水分が抜け過ぎてカラカラに乾くと、まともに声すら出せなくなる様だ。
仕方なく諦めて、返事の代わりに力無く笑い掛けてみても、その表情は晴れるどころか、一層険しくなって見える。
(嫌だな・・・)
別に困らせたい訳じゃないのに、またこんな顔をさせてしまった。誰も幸せに出来ない、という母の言葉が耳に甦り、出もしない涙が零れそうになる。
私は、幸せに、なれないならなれないでも良い。でも、こうして気に掛けてくれて優しい言葉をくれる相手に、何も返せないのは辛い。
(ごめん、ねっ・・・)
何も出来ない。何も返せない。そもそも、出来ることも出来たことも、一つでもあったんだろうか。
例えこんな状況じゃなくても、誰かの為に何かしようと思った事なんて、記憶を遡っても殆ど無い。与えられる事が日常で、それが権利だと、何の疑いもなく、時に不満すら抱いていた。
やれと言われた事は渋々と、褒められたくて構って欲しくて、何時だって私、私、私。
(ごめん、ね・・・、ごめん、なさい)
悪いのは私だ。人の気持ちに鈍感で、優しくされた事も気遣われた事も、これが初めてじゃないのに、感謝の気持ちすら抱いてこなかった。
弱っているから心に沁みただけというのでは、余りに自分本位だ。ちゃんとしていたら、例えば、目の前で心配する幼馴染のような人間だったなら、最初から周囲を不快になんてしなかっただろう。
結局、私は自分が可哀想だっただけ。
情けないことに、こうして声を掛けて貰えて内心ではほっとしていた。自暴自棄な姿は格好だけ、消えてしまいたいなんて本音からは程遠くて、最初から他人の好意を当てにした、打算的で厭らしい考えが根っこに有ったと、今さらながら気付く。
けど、それでもどうしたら良いのか分からない。手遅れになってから、今からでも、私に出来ることは何が残っているのか。
誰かに聞きたくて、でもその考え自体が不遜な気もして、ぐるぐると、熱くなった頭を更に熱くして、いい加減に煮詰まってきたところで、
「よっと」
横抱きに抱え上げられた。いわゆる、お姫様抱っこという奴だ。そして、そのまま日陰になった芝生の上へと運ばれる。
よろよろと、優雅さもロマンチックの欠片も無い危なっかしい足取りで、間近の顔は、火を噴きそうな程真っ赤にして、格好良いなんて間違っても言えないその顔が何時も通り過ぎて、何だか逆に安心した。
「待ってて」
下ろした後に短くそう告げると、一目散に駆け出していく。
脇目も振らないその姿は、邪念塗れの私と違って、何処までも真っ直ぐに一途に想える。唯の願望に過ぎないそれは、それでも、少しだけ、ほんの少しだけ、確かな気がした。
その時、ふっと、草いきれの青臭い香りが鼻を通り抜けた。吹く風は相変わらず生温く、刈りたての威勢の良い芝生はちくちくと肌を刺激する。熱射病寸前の燃えるように熱い身体で、快適と言うのは可笑しい気もするが、不思議と不快には感じない。
現金なもので、「待ってて」と言われただけで、それだけの事で、張り詰めていたものが緩んでしまって、さっきまでの自己嫌悪も母の事も、頭の中心にデンと構えている事に変わりはないのに、一度強引に断ち切られた事でもって、燃え盛るような勢いを直ぐには取り戻せそうにない。その結果、行き場のなかった心と身体を、唯待つ事だけに費やせる。
贅沢な時間の使い方に思えて、その卑屈過ぎる思考が何だか可笑しかった。
待つ時間はあっと言う間、水筒やら何やらを抱えたその姿が視界に入ってくると、額に汗して息を切らして、別にそこまで必死にならなくても良さそうなものなのに、心配する体に一片の偽りも無いと言わんばかりに、駆けて来るその姿が私の願望通り過ぎて、自然と笑みが零れる。
「ごめっ!・・・遅くなって!これ飲んでっ!あ、や、先にこれ頭に巻いて。あと、これとこれとこれ・・・」
水筒を差し出されたと思ったら、あっと言う間にタオルで氷嚢を額に固定され、小さな保冷材を脇の下に、服の上から捻じ込まれた。
続けて、「じゃ、これ飲んで」と、恭しく口元に宛がわれた水筒のコップからは、良く冷えた甘いスポーツドリンクが流し込まれ、咽喉の、全身の渇きが癒されていく。
余りに至れり尽くせり、何処のお姫様だよ、と言いたくなる扱いには戸惑いや決まりの悪さを感じつつ、でもそんな事より、一度自覚したお陰で火が付き燃え上がった渇きに、もっともっとと、雛鳥の様に浅ましく、スポーツドリンクを催促するのを止められない。
水筒を一本空にし、更に二本目に突入したところで、満足したのか漸く人心地付く。
「ありがと・・・」
言い訳のしようもない程、落ち着いたら落ち着いたで、今度は無性に恥ずかしさが込み上げてきて、まともに顔が見られない。赤くなった顔を隠す為に明後日の方に向けると、消え入りそうな声で礼を言った。
「どう致しまして」
片手で団扇を扇ぎ此方に風を送りながら、もう片手ではコップを持ち、余ったスポーツドリンクをちびちびと、自身もクールダウンしながら、鷹揚に、わざとらしく冗談めかした言い方で返される。
(生意気!)
文句を言えた立場でないのは重々承知の上で、それでも、昨日まで弟分のように思っていた相手に対して下克上を許したようで、姉貴分としてのプライドが激しく揺さぶられる。
身動き一つ取れない、この体勢で張れる意地が残ってるかはさて置いて、ちょっと位挽回しておかないと、今後の立ち位置すら危うい。
某アニメのように、泣きながら縋り付いては、素気無くあしらわれる自分の姿が頭に浮かぶ。
その、情けなくて腹立たしい、でも、どこかほのぼのとして優しい妄想に、内心で葛藤を覚えていると、
「で、」
団扇を扇ぐ手は止めずに、
「何があったの?」
核心に踏み込んできた。
一瞬、何について訊かれたのか判断に迷う。急激に膨大な情報が頭に甦って、未整理かつ未処理のそれに心が追い付かず、全く取り留めの無い思考を大量に生み出しては、ブルースクリーンの画面で停止を繰り返す。
「えっとね・・・」
掬い上げた両手の指の隙間から、どんどん零れ落ちていくものばかりで、一向に
「髪、嫌だなって・・・」
「は?」
・・・一応これでも、悩みに悩んで何とか絞り出した、苦心の結晶だったんだが、
「・・・は?ぁ?」
全く伝わってないのが、悔しいような寂しいような。
「や、へ?何の話?髪って、この髪?」
そう言うと、徐に私の髪に触れる。何て返したら良いのか判らなくなって、黙って、こくんと頷く。
「何でっ?赤とか、めっちゃかっこいいじゃんっ!?」
邪気無くそう言われて、普段からこんな風に、事ある毎に羨ましがられていたなと、思い当たる。
嵌っているアニメの主人公と同じだと羨望の眼差しを向けられるのは、複雑だったが正直悪い気はしなかったし、これ見よがしに見せびらかしては、面白いように悔しがってくれるその姿に、得意気になってはしゃいだ事も一度や二度じゃない。
くせっ毛だから、小まめに手入れしてやらないと、直ぐに絡んで鳥の巣になって、うざったいし、寝癖全開のだらしない見た目にはウンザリとさせられる、けど、それでも、鏡の前で最高の状態に仕上がった時にはいつもにんまりとなる。羨望の眼差しも賞賛の声も、ついでに陰口も何処吹く風と、颯爽と髪を靡かせて歩いていると、もう殆ど無敵な気分だった。何だって出来ちゃいそうな、何処までだって行けそうな。
そう、いつだって、私の自慢だった。
今度こそ涙が滲む。乾いた砂漠を潤す水がナイルを氾濫させるように、さっきの水分補給が呼び水となって、漸く瞳から溢れ出たそれは、
今日一日の感情の振れ幅は、余りに大きくジェットコースターのように激し過ぎたので、今泣いているのがどういう訳なのか、困ったことにほとほと判らない。
唯々、開けた両の目から涙が溢れるばかりで、嗚咽するでも喚くでもなく静かに流れるそれが、まるで自分のものじゃないみたいで、何だか不思議な心地がした。
冷たい氷嚢に、生温い団扇の風、脇の下の溶け掛けた保冷材。ふと気付くと、何とも言えない神妙な表情が視界に入ってくる。
一言も発さず静かに、団扇を扇ぐ手は動かしたまま、見守る様に労わる様に。てっきり泣き出したのを見て、狼狽えているものだとばかり思っていたので、その意外さに虚を衝かれた気がしてマジマジと見詰めていると、少し赤くなって恥ずかしそうに顔を逸らされた。
その横顔は、出会った頃の面影を残したまま、何時の間にか、大人びたと言うには幼過ぎるが確かな変化に、それは今までに見た事の無い、私の知らない貌だった。
赤い顔でそっぽを向いたまま扇ぐ手は止めず、流れる涙をそのままに、敢て何も言わない。
普通なら、別の誰かなら、きっと居た堪れなくなって、濁すように誤魔化して、腫れ物に触れないように、触れさせないようにしたと思う。
それなのに、今はこの沈黙が優しい。少しづつ、体と心が融雪するように緩んでいくのが分かる。
きっと何も変わらないのに、今日あった事が消えて無くなる訳じゃないのに、これから待ってるのが決して明るいものじゃないと知っているのに、今だけは、束の間、この不器用な幼馴染の、精一杯の優しさに浸っていたかった。
その穏やかな時間は、ほんの僅かなものであったけれど、涙が止む頃には、身体を起こして、流れ出た水分を補うために水筒を奪ってみせる位には、強がり半分、いつもの調子を取り戻せていた。
二本目の水筒も空にすると、
「綺麗だよ」
出し抜けにそんな事を言われた。
主語を省くとまるで告白みたいだなと、慣れたもので曲解する事無く、ずり落ちてきた氷嚢を直しながらぼんやり続きを待つと、
「別に、赤いからっ、て訳じゃなくてさ」
言葉足らずなのはいつもの事、たどたどしいのは、吟味しているというより、言いたいことが取っ散らかっていて手探りなだけ。
「ほら、今日だって、遠くからでもキラキラしてて、すぐ誰か分かったし」
頭の中に有る想いを、言葉に置き換えるのに必死で、忙しなく視線を動かしては大袈裟なジェスチャーも交えて、焦れた様に早口で捲くし立てる。
「それにさ!ほんっっとに、カッチョいいんだって!」
何がそこまで彼を突き動かすのか、熱の篭った声で、今度は断言された。
格好良いが最上級の褒め言葉なのか、と、幼馴染の言語能力に軽く呆れも入ったが、反面自信満々でそう言われてしまえば、正直嫌な気はしない。
「どこが・・・、全然そんなことない」
そう、ウェーブがかった髪の毛は、フワフワと空気を孕んでは軽やかに、鮮やかな赤色は、夕焼けを溶かし込んだよう。
「そんなことあるって!見た事ないし、そんな綺麗な髪」
綺麗だと褒められる事も日常茶飯事。でも、言葉には裏がある。私と母の、髪の色が違う事を揶揄して、探る様に嘲る様に、気色悪い笑顔に下卑た視線、褒められた筈なのに、不安ばかりが募るそれに、ニコニコと愛想笑いで応じていた母も、内心では嫌っていた。
「綺麗なんかじゃない・・・」
その甘く優しい言葉は、傷口に触れる度に痛み、中毒性は、渇きにも似て際限が無い。みっともないと、恥知らずだと分かっていても、それ以上を求めてしまう、縋りつく先を変えただけと嗤われても、どうしようもない程ボロボロで、形振り構ってられない。
「そんなことないって・・・、ん~と、あ~」
言葉を探す様に、無意識なのか、自身の短く切り揃えられた黒髪に手を当てると、
「日に当たるとさ、キラキラしてて、赤いんだけど、橙になったり白くなったり・・・」
嘘偽りを否定出来る程、強ければ良かった。本当を隠した生活は、それがどれだけ楽で優しくても、実際には空っぽだった。
最初から何にも無かった。始まりから偽物で、母の話は衝撃的ではあったけれど、傷付いたのと同じ位すんなりと受け入れられて、それが悲しかった。
通りで、学校であった事を訊かれなかった訳だ。通りで、抱きしめられた記憶が無い訳だ。
どうしたって無理が出て、不自然さは、意図的に目を逸らさなければ見えなくならない。けれども、言い訳を重ねる程、愛想笑いで誤魔化す度に、大きくなる胸の痛みだけは、無視をしようにも、どうにも耐えられないものに育っていった。
教室で、親をウザイと言いながら、買って貰ったアクセサリーやポーチをこれ見よがしに手にした同級生の姿は、最低限の物は与えられても、それ以上を望めない私にとって、別世界だった。
ゲラゲラと、親の悪口で盛り上がる彼女達は、普段は親と、どんな風に接しているんだろう。どうすればそんな風になれるんだろう。
口にはしなくても、明確な決まり事と超えてはならない境界線が何処にでもあって、注意深く、顔色を窺いながらでなければ、まともに話しかける事すら儘ならない私の普通は、どれだけ奇異に映るんだろう。
普通が普通じゃなくなっていき、現実との齟齬は、その頃には、疾うに限界を迎えて、その胸の内は、独りで抱え込むには余りに大き過ぎて息苦しかった。
そうして、溺れるように縋り付いてはみたものの、拒絶されて罵られて、止めを刺されて、儚くも、意図しない形で長年の悩みは終わりを告げた。
スッキリしたと言うには、空っぽすぎてふわふわと落ち着かない。何もないのに、痛みだけは鈍く残っていて、悲しい位何処にも流れていけない。
「・・・昔さ、お母さんが生きてた時。一度だけだけど、みんなで旅行した時にさ」
お母さん、という単語に、遠くなり掛けた意識を引き戻される。
「俺はちっちゃくって、その時の事はよく覚えてないんだけど・・・」
最近、僕から俺に呼び名が変わったのは、どうやらアニメに影響されたものと聞いた。
「抱っこされて、いつもは父さんだったけど、その時はお母さんでさ、寝てたんだと思う。名前呼ばれて目ぇ開けたらさ、ほんと全部が真っ赤っ赤」
思い出を語ると言うより、今でも焼き付いて離れないそれが、実際に見えているかのような口振りで、
「高い所で、段々になってて、海が見えた。・・・沈みかけのお日様は真っ赤で、真っ赤なのに、父さんや兄貴たちの背中は真っ黒で、はしゃいだ声がなかったら、殆ど誰か分からないぐらい」
淡々と、不思議な程静謐に、
「驚いて、母さんの顔を見上げると、笑ってた・・・。抱っこされた事なんてまともになかったし、いっつも病院で、一緒になんていられなかった。・・・そんな母さんが笑ってた」
口調は柔らかく、早くに亡くした母親とのエピソードにしては、痛みも悲しみも篭ってない。
「嬉しそうだったなあ・・・。あったかくって柔らかくって真っ赤で、みんな笑ってた」
染み一つ無く、歪む事無く、何処までも真っ直ぐに。
当然だ。比べる事自体馬鹿馬鹿しい。全部本物。与えた側も受け取った側にも迷いの生じる余地の無い、純粋さ。その余りの違いに、嫉妬する気力すら湧いてこない。
「すっげえ思い出すんだ。その髪はさ、ほんとそっくりなんだぜ。きっと世界で一番好きな色だ」
顔は笑っているのに、その瞳は、見た事が無い程、真剣で真摯な色を湛えて、見透かす様に、私の瞳を覗き込み、
「俺が好きってだけじゃ足りないか?・・・流石に、これ以上は何も出ないぞ?」
茶化すように、照れ隠しも少々、軽口を叩く。
熱烈な告白紛い。様にならないのは、当人の、純朴過ぎる容姿にも原因は有りそうだが、本当に似合っていない。無理してるのが見え見え、背伸びし過ぎ。それでも、
「・・・生意気」
一体、無理をさせたのは誰で、何の為に背伸びしてくれたのかを思えば、ニヤニヤと頬が緩みそうになるのを、なんとか意志の力で抑えつけて、誤魔化すように悪態で返す。
「そっかな?」
良い距離感だな、と思う。こうして隣り合っても緊張しないで、安心して心を預けられる関係は、きっと私の数少ない宝物だ。
徐に、走った所為か照れてるのか、それとも単純に暑いからなのか、いつもよりも赤く見える幼馴染の頬っぺたに、すっと手を伸ばし触れる。
「熱い」
ちょっと驚いたような表情が浮かんだのを、してやったりと満足げに眺め、触れた手はそのままに、ふにふにと頬を玩んでいると、
「夏だからね」
お返しで鼻を摘まれた。
じゃれ合う様なその遣り取りに、またお互いに笑い合って、せーので手を離すと、その瞬間、ざーと一際強い風が吹く。
真夏の生温い風は、青々とした木々の梢を揺らしていき、次いで私の赤い髪が舞い上がったのを、目を瞑って遣り過ごしていると、
「やっぱ綺麗だよ」
隣からしみじみと、実感の篭ったそんな声が耳に届く。
漸く風が収まり、顔に掛かった髪の毛はそのままに目を開けると、真っ直ぐな視線とぶつかる。その真剣な想いに、答えようにも、どう返して良いか分からない。
全部持ってるとは言わない。お母さんはいないし、裕福でもない、不満や愚痴だって偶に聞かされる。それでも、私とは雲泥の差だ、愛されてきたことに、疑問を持った事など無いだろうし、未来に、恐れや不安を抱いた事も無い。
何もかもが違う。私はからっぽで、与えた事も与えられた事も無い。直前まで、未来は暗いものと頭から決め付けていた。
「私が・・・」
僅かでも良い。この優しい幼馴染に、返せるものが私の中に一つでも残っているのなら、惜しむことなくそれを捧げたい。
「私が、好きになったら、嬉しい・・・?」
それでも自信がないから、声が震える。また否定されたらどうしよう。嫌な顔をされたら、本当にもう何もない。
待つ時間は永遠のように感じられて、破顔一笑でそれを打ち砕いてくれた時には、心臓が止まりそうだった。思わず、がばっと幼馴染の頭を抱き締めると、
「ありがと・・・!!」
全身全霊で感謝の気持ちを伝えた。
目を白黒させているかは見えないけど、戸惑っているのは後頭部からでも判る。両手をわちゃわちゃと動かして、それでも引き剥がそうとしない事に、気分を良くして、さらにぎゅっと体を押し付けると、諦めたのか力が抜けて、手持ち無沙汰になった両手が、恐る恐る背中に回される。
受け容れてくれたことが嬉しくて、それでもまだまだ足りない気がして、ちくちくと当たる短くて硬い髪に、慈しむように頬を寄せる。
互いの体温を交換するような熱烈な抱擁は気が済むまで暫らく続き、解放した時には、私よりもよっぽど赤い顔になっていた。
苦しかったかなと、「ごめんなさい」と謝ると、「や、別に、何が?」と明後日の方を向いて言われたので、気分を害したのかと一瞬不安が過る。でも、そうじゃないと、安心してと言わんばかりに、優しく、ぎゅっと掌を握り締められた。
横顔は真っ赤っ赤。無理してるのが見え見え。手の平なんて、私よりも熱い位だ。でも、それでも、
「ありがと・・・」
これ以上、感謝の言葉が必要だったかは分からない。きっと繋いだ掌からも、想いは全部伝わってる。
何も言わないのに、沈黙が苦にならない。安らかなのに、どこか可笑しくって、自然とお互いの顔に笑みが浮かぶ。
(いいなあ・・・)
からっぽだったのは本当。でも、何も無いと言い張るには、この時間は幸福過ぎる。意地の悪い神様の気紛れか、それとも、上げて落とす為の単なる布石か、考え込んでも限がないし、それにきっとどっちでも良い。
未来を思って嘆くより、今この瞬間が大切じゃないと言うのなら、私はこれからもずっとからっぽのまま。
嘘にする訳にはいかない。裏切るなんて死んでも嫌だ。好きだと言ってくれた、世界で一番だと断言してくれたその想いを、他ならぬ私がどうして踏み躙れると言うのか。
何も返せないと甘えて、寄り掛かることしか出来ないなんて今日限りだ。直ぐには無理でも、今度は私が支える番。甘えるのはこれが最後。
そう意気込んではみたものの、急に無敵になれる訳じゃない。刻み込まれた恐怖心は、今この瞬間でも、思い出せとばかりに暴れ狂う。へこたれそうになる気持ちをどうにか押し止めているのは、繋いだ掌の僅かな温もりだけ。
これが最後と決意しながら、弱い私はきっと、何かある度に甘えては迷惑を掛けるに決まっているのに、それでもこの優しい幼馴染は、そんな私を見捨てる事無く、呆れ混じりの困り顔でまたこうして手を差し伸べては救ってくれる、と、それはほぼほぼ確信だ。
遠い道のりを、唯背負われて行くのは心苦しくても、繋いだ手に心を寄せるくらいは許して欲しい。
僅かな温もりは、強張る身体を解し、立ち止まりそうになる度に、手を引くように背中を押すように、先へと前へと導く。
行く道の険しさも、二人なら、あなたが隣で笑っていてくれたなら。
「ねえ」
優しさは風と同じ、目に映らないのにそこに在り、煩わしいかと思えば、穏やかに悲しみを
幼馴染は風のようなひとだ。別にかっこ良くなんてない、地味で時々情けなくて、でも、傍に居ると、呼吸が少し楽になる。
「お母さんって、どんな人だった?」
大切にしたい。それがどれ程壊れやすいのか、気付いて後悔するのはいつだって失くした後だった。
「どんな人?う~ん・・・」
今この瞬間から考えていこう。必死になる価値は、この掌の温もりだけで十分過ぎる。
首を捻りながら、遠く過去に想いを馳せる幼馴染の手を、小さくぎゅっと握り返す。
禍福は糾える縄の如し、とは誰の言葉だったか、世の中は意外と上手く出来ている。
優しかったことや、怒られたこと。ありふれているのに、何処にでも有るわけじゃない、そんな話に耳を傾けながら、何気なく見上げた遠くの空には、一筋の飛行機雲が走っていた。
まっさらな蒼天に、引かれた白線は唯ひたすら真っ直ぐに。私はきっと、そんな風には生きられない、手が届かないと憧れて、諦め切れずに見送るだけ。
それでも、心に残しておこう、良いことも悪いことも、今日あった全てを、明日へと持って行こう。
無かった事には絶対しない。からっぽなんてもう誰にも言わせない。救いも嘆きも全部受け止めて、私は強くなるんだ。
護ろうと誓う、これが初めての、自分の為だけじゃない純然たる願いだ。叶わないと、与えられないと、受け身で許される願いなんかじゃない、傷付きながら、喩え泥を飲んででも、地獄の底に突き落とされたって捨ててはいけない、最初で最後の願いだ。
「でさ~、兄ちゃんなんて俺の分まで食っちまうんだぜ。つーか、それどころか・・・」
何時の間にか、母親というより家族のエピソードに移り変わっていて、それは無邪気に楽しげで、ちょくちょく挟む愚痴にすら愛情が溢れている。
耳を傾けながらも、ふと想う。一体この幼馴染は、私のことをどんな風に他人に語るのだろう、今と変わらないならそれだけで幸せ過ぎて、でも幾らなんでも図々しい気もする。
家族でも恋人でもない、単なる赤の他人が望むには高いハードルでも、この幼馴染なら容易くひょいと越えていきそうで、そんな都合の良い妄想に心が躍る。
小さな願いを重ねた先に、そんな未来があると想えば、明日もきっと怖くない、筈だ。
語る口調は滑らかで、何時までも話が尽きないのはご愛嬌。相槌を打ちながら、時折口を挟みながらの穏やかな時間に、今日という日が、まるで何時もと何も変わらない、ありふれた日常に戻ったかのように思える。
夏の盛りはまだまだ続き、夏休みだってこれから控えている。氷嚢も保冷材も、とっくの昔に生温い物体と化して、芝生の上でぐったりと横たわっているのが目に映る。大きく呼吸をすると、青々とした緑の香りが鼻腔を擽り、耳朶を打つ蝉のコーラスは姦しくもどこか柔らかい。生き生きと世界は命で満たされ、惜しみなく全身で、ここに居るぞと叫び続けている。
何も変わらない、彼等にとっても私にとっても、今日という日は二度と来ない。時間の流れは平等で、精々長いか短いかの違いしかないというのに、その逞しさと力強さは、何処から来るのだろう。
世界は私の知らないことに溢れているのに、それを幸福だと思えるには幼過ぎて、まっさらな未来に願いを託すことしか出来ない。それでも、何時かは気付く、私と母が違う人間であるという事、母の言葉が世界の全てじゃない事、そして、これから何があるかなんて、誰にも分からない事。
私は、幸せになれなくても良い。そう、それで良かった筈なのに、今は少しだけ違う。
贅沢なのは承知の上、次いで心地好過ぎたのが分岐点、今はあやふやなこの気持ちに、名前が付くのも待ち遠しくて堪らない。
想いが彼方へと舞い上がる。無精髭に、ごつごつとした分厚い手、笑った顔は、今と何も変わらず穏やかなのに、今よりも遥かに慈愛に満ちている。
そして、その瞳に映った女性は、何時までも、
幸せそうに笑っていた。
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