6章 地の章
「暗・・・」
爽やかな朝の爽やかな目覚めという幻想は、目を開けた瞬間脆くも崩れ落ちる。
一瞬まだ夜かと勘違いするくらいに、そこは暗く、空気が淀んでいる。
寝起きで上手く働かない頭をポリポリと掻きつつ、辺りを見回したところ、昨夜散々お世話になった暖炉に炎は既に無く、薪はすっかり灰へと姿を変えていた。
光源が無いのだから暗いのは当然としても。それでも光は、開け放した扉の所や、丸太と丸太のすきまから差し込んで来ているので、辛うじて視界が確保できる程度にはある。
とはいってもやはり暗い。その上、碌に換気もせず暖炉に火を入れた所為なのか、煙とその臭いが部屋の中に充満しており、お世辞にも快適な住空間とは言い難い様相を呈していた。
無断で間借りしていただけの身では、余り文句も言えなかったが、どうにもそれに耐え難くなり、包まっていた毛布から抜け出し、開け放した玄関から外に脱出すると、肺の空気を入れ替えるために大きく深呼吸をする。
それにしても、こうして明るい場所に出て自身の格好を改めて確認してみれば、中々酷いことになっている。
どうしたものかと、その場で立ち尽くすと頭を捻る。
正直、服だけの問題なら掃えばいいだけなのだが、見えないから分からないだけで、間違いなく頭も顔も埃塗れなのだろう。ぶっちゃけると、かなり風呂に入りたい気分だ。
そんな突拍子も無いことを真面目ぶった顔で考えていると、突然、襟首の辺りをむんずと掴まれ、そのまま体が中空に吊り下げられる。
「え、何?」と思って振り返ると、襟首を咥えた巨大な顔と目が合い。
意図が分からずに、一瞬パニックを起こしかけたものの、抵抗は無意味、無駄だと直ぐに悟れば、だらりと体の力が抜ける。
頭の中に、昔見た、母猫が子猫を運ぶ映像がリフレインして、今の状況にそっくりだと、冷静に考えている内に。
そうして、無抵抗に運ばれて往く途中に。
「ねえ、放さない?いや、さ、俺は足あるし、言ってくれれば歩いて行くよ?」
そんな風に、交渉を試みてみたものの、梨の
駄目だったか、と、がっくり
そこに何があるんだ、と思い顔を上げてみれば、その視界に映り込んだ湖には一面にぼんやりと白く朝靄が
「こりゃあまた、凄いな・・・」
思わず感嘆の声が漏れる。
散々に、昨日から驚くような事は諸々味わってきたが、まだこんな隠し玉が残っていたとは。
頭の中に、千変万化という言葉が不意に浮かぶ。
その意味は確か、目まぐるしく変わっていくこと、だった筈だが。それを思えば、果たしてこの場所には、後いったい幾つの異なった顔が隠れているのだろう。そして、後いったいどれだけそれを見る事が出来るのだろう。
ついついそんな事を考え込んで、少しだけアンニュイな気分に浸りかけていると。
それが余程お気に召さなかったのだろう、突如、強烈な浮遊感に襲われて空に少しだけ近付き。その空を見て、今日は快晴だな、と思った瞬間に、耳元のバシャンという音とともに全身を激烈な痛みが駆け抜ける。
(ぅうおぉおおぉぉ!!!!)
瞬間的に脳内で膨れ上がった
何が、どうして、どうなった。何もかも一切考えられない。ただ手足を闇雲にバタつかせては縋りつける物を無心で求めた。
どうにかこうにか格闘すること。何とか震える両手足で自分の体を支え。
そのまま、四つん這いの姿勢で、思考回路の回復を待つこと数十秒。自らの身に何が起こったのかが朧げながら、理解がようやく追い着いてくる。
まず、全身びしょ濡れだった。これは今まさに湖の中に居るからで、季節は秋の終わりの頃、少し早めの寒中水泳というには、まだ水は温かったが。
とはいえ、湖の水は切るように冷たかった。心と体の準備無しでの決行は本気で死を覚悟する荒行かと想うほどにだ。
正直、もう少し深い場所に落とされていたら。こうして四つん這いになったとしても顔が水面から出ない深さだったら溺れていたろう。やばかった。
全身をガタガタ震わせると。当面の命の危機が去った事に、はあー、と安堵の溜息を吐き出しつつも、きっ、と唐突な蛮行に及んだ相手を睨み据える。
その相手は岸辺に佇み、じっとこちらを見つめている。
冗談にしては、流石にこれはきつくはないか。そう思い、四つん這いの姿勢から震える手足で体を持ち上げると、内心の憤慨を隠そうとしない、不機嫌顔で湖から上がり、その横を完全に無視して通り抜けようとしたところで、再び襟首を咥えられて、ぺいっと湖へ放り投げられた。
「なんばしょっと!!」
今度はパニックを起こさずに、即抗議の声を上げられた。
しかし、その相手はといえば、抗議の声など何処吹く風、相変わらず岸辺からこちらに無感情な視線を送ってくるだけ。
そのあんまりな様子に、今度はぐるっと大回りに湖から上がってやろうか、という挑発的な思考も浮かびかけたが。さっきと同じ結果になるのは
(まさか、本気で殺しにきたとか?)
それこそ、有り得そうとも有り得ないとも言い辛い微妙な想定だった。ただ、もしそうならその未来を覆す方法に心当たりなど有りはしない。
余りに生物としての強度に彼我の差が有り過ぎる。例えるなら、チワワとグリズリー、シャチとチンアナゴとでもいった。
闘いになる気がしなかった。いっそさっさと一撃で殺してもらったほうがマシな程、早く楽になりたいとすら願える。
それにしてもだ、湖から上がろうとする度に邪魔をして、獲物が凍死するのを待つというやり方は陰湿に過ぎるだろうに。何の恨みが、と言いたくなるレベルだ。
とすると、何だか、最初の仮定がだいぶ的外れな気がしてきた。
唐突に殺意の波動に目覚めるにしては、殺り方が間接的過ぎた。それに何より、そんな衝動に身を任せるほどに野蛮とも到底思えない。
今、この状況を創り出した相手が何を意図しているのか。
いい加減に、怒りに沸騰していた体も頭も冷め切ってしまえば、ピンと、ある一つの考えを導き出して。
(ああ、もしかして・・・)
すぐにでも、その場で上半身の衣服を脱ぎ捨てたところ、膝丈の水でそれをジャブジャブと洗ってみせる。
途端に、それを見ていた岸辺の番人は、くるりと此方に背を向けると、するすると森の方へと。
姿を消した。
「やっぱ、正解だったか・・・」
洗え、という事らしい。どうやら、友には意外と潔癖なところが有るようだ。
極寒の湖の中、ガタガタ震えながら鼻水を垂らしながら、上半身だけでなく下半身の衣類も脱ぎ捨てジャブジャブ洗う、最後についでと、自分自身の体を擦っていると、森から友が帰還して来るのが見えた。
大量の木の枝が蛇行しながらそれに続くのも見える。それを悠々と操る姿に目が釘付けになる。
唖然として見つめる中、それが岸辺に積み上がった途端、間髪入れずに火が点き燃え上がる。
唐突に岸辺に巨大な焚き火を出現させた当人はといえば、それを見届ける事もせずに今度は湖に入り、悠然と、体を洗うこちらの横をすり抜けて、今度は深みへと姿を消した。
そこまでが本当に、あっ、という間の出来事だった。まったく、寒さも忘れて呆け面で成り行きを見守る事しか出来ない。
「あいつ、ほんとに何でもありか・・・」
そう呟くのが精一杯だった。
とはいえ、実際焚き火の存在は心の底からありがたい、救いの神に見える。冷え切った身体は、寒風に吹かれる度にゾクゾクと震えが走り、歯の根も合わない。
こんな有様では声も出せやしない。一通り洗い終えて、濡れそぼった衣類を小脇に抱えたまま、全裸のままで、恥も外聞も無く夢中で焚き火に縋りつくしかなく。
それでも手足に温かみはなかなか戻らない。濡れた衣類を乾かす事も考えられず、傍らに丸めて置きっぱに、炎に着くんじゃないかというくらい近づけた両手足を無心で擦り合わせ続けていると。
どれほどそうしていただろう。ようやく手足の感覚が戻ると、強張っていた体が炎の熱で緩み人心地つけそうになった頃のこと、急に頭上に影が差す。釣られて見上げれば、大きな物体が此方目がけて降って来るのが目に入り。
間抜け面を晒していたであろう、その顔の横を放物線を描いて通り過ぎたところ、背後でビタッと音を立てて着地した。
何が起こったのか分からずに、呆けた面のまま振り返ってみれば、そこには50センチ程の丸々とした巨大な魚が横たわっている。
もしやと思い、魚の降って来た方に目を遣れば、ちょうど湖から上がろうとする長躯が視界に入り、その顔と目が合った。
言葉にしなくても伝わるものもあり、分かり合えるものもある。これこそ、食え、ということだろう、間違いない。
いきなり冷水に突き落とされた事、もう少しで魚が顔面に直撃していた事など、ちょこちょこと引っかかる部分はあるものの、これまでの行動はすべて此方を想ってのもので間違いない。
これほど尽くされて、つまらない事に腹を立てているようでは男が廃るというもの。全裸のまま背筋を伸ばすと、相手に向かって深々と頭を下げた。
相手に、この真意が伝わっているかなんて知りようもない。だが、だからといって、伝わらないからといって、感謝を行動で表わそうとしないのは、ケツの穴の小さい酷く情けなく惨めなことだ。
頭を上げ、少し照れたのか、炎に当たり過ぎたのか、赤ら顔であらためて感謝を伝える。
「いろいろ、ありがとなっ」
そう告げられても、当人は特に反応を見せない。湖から上がると焚き火の傍でしゅるるととぐろを巻いて丸くなる。
「本当にありがとな」
そのまま目を閉じて休憩モードに入ってしまったようなので。一応もう一度感謝の言葉を伝えると。振り返ると、朝食となるであろう魚と向き合う。
近くで見ると結構な迫力があるもので。元いた世界でも、この大きさの魚を丸のまま捌いた経験など無い、当然無い。
昔、誰だったか、誰かの知り合いだという人の船に乗せてもらった事も記憶としてあったが。釣れた魚は本職の人任せだったので、記憶に在るのは精々調理後の捌かれた姿だけだったと。
己のそんな乏しい経験に頼るのは早々に諦めると、取り敢えずは食べられれば良い、とかなり低いハードルを目標を据える事にし、なんとなく調理を開始する。
まずは、調理に先立って食材を吟味する。すると、先ほどはずいぶんと雑な扱いで放り投げられたものだったが、驚いたことに今も普通に生きて口をパクパクとさせている、思った以上に生命力が強い。
淡水魚である。といっても、分かった事はそんな程度。昨日食った魚の成長した姿なのかどうか、全く別種の魚かなど判別のしようもなければ。もっと言ってしまえば、この魚が美味いかどうかどころか、食べられるかどうかすら判りゃしない。
食べられない魚を獲ってきてくれたとは思いたくないが。その嫌がらせはちょっとレベルが高すぎる。
まして一度感謝の意を示した以上、今更そんな疑念を抱くのは不誠実だと。そんな考えは一旦脇に除け、替わりに調理法に思いを巡らせ。
(内臓取って丸焼きだな)
考えるまでもない、巡らせることもなく即断する。というより、端からそれ以外の選択肢が無かった。
素っ裸で道具も無しに出来る調理法など他になければ、悲しいかな、深刻な知識と技術の不足がそれを肯定する。
しかしだ、そうと決まれば話は早い。早速、手近な位置にあった石を手に取ると、少し離れた場所にある大き目の石に向かって、力一杯投げつけた。
カーン、と周囲に甲高い音が響き渡り、それは割れることなく弾かれる、そして足元に落ちて来る。
(これは角度が悪いのか?)
そう考え、今度は別の石にぶつけてはみたものの、やはり上手く割れてくれない。
魚を捌くナイフの代わりに、石器が使えないかと思い試みてはみたものの、
何度も、これに何度でも。手を打ちつけそうになりながら、切りそうになりながらも石を削る。
(こえ~)
怖くても止める選択肢は無い、その昔から、口を酸っぱくして、「食べることを疎かにしちゃあいけない。きちんと食材に感謝して、残さずに食べなさい」と言われてきたものであり。
きちんと調理して、最後まで美味しく食べてやるのが、食材にとっての供養となり、生産者への礼儀になると教えられてきた。
(なにも古い考えってこたあない)
そんな事を思い出しながらも、立つ位置を変えて、石を吟味しつつ、ぶつける面や角度を調整して、試行錯誤を繰り返し、少しづつ少しづつ理想の形に近づけていく。
一心に打製石器の制作に打ち込んでいる内に、それが出来上がる頃には、肩や腰が悲鳴を上げ掛けていた。
緊張に強張った筋肉をほぐすと、怪我が無かった事に安堵しながらも、出来上がった石片を拾い上げ繁々と眺める。
それなりに薄く鋭角に仕上がったそれは、切れ味が良さそうには到底見えなかったものの、苦労して作った物だと思えば感慨も
放置した魚に目を向ければ、さすがに息絶えた様子ですっかり動かなくなっていた。
それに手を合わせ。声に出し、「ありがたくいただきます」と独白すると、すぐに魚の腹に石片を押し当て、切り開こうと試みたけれど。しかし、表面で滑ってなかなか刃が入ろうとしない。
それでも何とか、肛門と思しき場所に無理矢理先端を押し込むと、強引に引き裂き内臓を露出させる。
腹に手を入れ、強引に内臓をブチブチと引き抜く。
包丁で切るのとは違い、酷く生々しい感触が手に伝わる一連の作業に、内心、うひー、となりながらも何とか自分を叱咤して完遂してみせる。
血塗れの内臓を片手に、生きることの意義や意味について思いを馳せそうにはなったけれども。料理の途中だと気持ちを切り替えると、取り敢えずそれを近くの石の上に置く。
置いた後は、湖の水で、自らの血塗れの手と魚の腹の中を念入りに洗う。そうして、落ちていた木の枝でそれにこれまた強引に串打ちすると、念の為もう一本捻じ込んで、焚き火に翳して焼いていく。
途中、持っている腕が疲れてきたので、大き目の石を二つ火の傍に並べ、そこに串打ちした魚を渡し、丸焼きの要領で回転させながら引き続き炙り。
じっくりと火を通す合間に、放置していた濡れた靴を逆さにして日当たりの良い場所に置き、同じく丸めて放置していた衣類も、その辺で拾っただけの比較的真っ直ぐな木の枝に通し、その辺の木の枝に引っ掛けて干したところで。
「んー、もうちょいかな・・・?」
よく分からなかったが、皮目には十分火が入っている様に感じられたので、遠火でじっくりと中心まで温める。
パチパチと皮が弾け、魚の焼ける香ばしい薫りが鼻腔を擽る。昨日の昼から何も入れてない腹が、小さくクーと鳴いたが、焼き上がりまでもう少し無視する。
洗い物も干し終わり、後は出来上がるのを、ぼーと待つこと以外やる事がない。と思いきや、そういえばと、放置していた内蔵に目がいく。
(食えるのかな?)
鮟鱇や鱈のような魚は内臓も食えるというものだが、果たしてこの魚はどっちだろう。
そう思い改めて見ても、腸以外の臓器はどれがどれだか判別がつかない。いやそもそも、この世界の生物の構造がそれと同じとは限らない。
根本的過ぎる知識の欠落に気付くと、途端にそれらが異質な物と映り、ちょっぴり食べる気を失いかけたが。一応、幾つかの臓器を石片で切り出すと、丁寧に水で洗い細い枝に刺して火に翳す。
ちょっとした好奇心だった。バーベキューでは何でも焼いてみたくなる。欠片ほどだろうと、美味く食える可能性があるならとりあえず焼いてみようと。
とはいえ、食中毒とかは色々と怖かったので、しっかりと火は通そうとだけ固く誓う。
細々と、そんなことをしている内に魚の皮目は焦げ始める。これ以上は真っ黒焦げになる手前に、丁度食べ頃だろうと判断して火から下ろす。
軽く手を濯いだ後は、行儀よく両手を合わせて、「いただきます」と口に出して言う。
こんがり焼けた魚の串を手に取ると、鱗の付いた皮を指でべりと剥がして、内側の白い身に口を付ける。
ほろほろと。身は骨から外れて柔らかく、その淡白で繊細な味は白身の魚。
「うん、焼き魚」
全く臭みを感じないのは水質が良いからか。岩魚か鮎か、上質で上等な白身だ、空腹を加味しても美味い。
美味いが。
(塩がほしいなあ・・・)
というのが正直な感想。
実に品のいいお味も、どこまでも味にインパクトと変化が無い。せめてもう少し脂が乗っていればとでも思うが、それはそれで、食べ過ぎれば胸焼けを起こしそうだとも思い、それでは食い切れない気しかしない。
腹を満たすために黙々と食べ進める。食べ進めながらも頭の中では、現実逃避気味に妄想が花開く。
(癖が無いなら焼くだけじゃなくて酒蒸しもいいなあ。ムニエルとかフライは鉄板なんだし、タルタルソースに、シンプルに大根おろしで和風ってのも捨てがたい)
口内に味の記憶が甦る。無味乾燥としかけた朝食にそれは僅かな潤いを
頭と骨と皮とを残して綺麗に平らげると。満たされた腹と満たされなかった心というチグハグさはさて置いて。気を取り直して、かなりしっかりと焦げ目の付いた内臓の串にも手を伸ばす。
焼いていた内臓の内、残念なことに一つは火に翳しておいたら溶け落ちてしまい、その内の一つは臭いを嗅いで敢え無く断念、残った一つこそ、見た目も臭いも問題なかったが少し口に含んだだけで強烈なえぐ味に襲われ急いで口を
結果は
少なくとも、次からは内臓を捨てることを惜しいとは思わずに済むに違いなかった、それだけだ。
満足度が高いのやら低いのやら、微妙な食事を終えたところで本格的に出来ることが無くなった。洗い物が乾くまでの時間は、焚き火に木の枝をくべるか横になったりするか、そんな風に潰していると、とうとうというかようやくというか生きる上で避け得ない生理現象が頭を擡げ。
「来たか・・・」
前日までの食事の回数が少なかった所為で、丸一日音沙汰無かった物の、緩やかだが確かな自己主張に、そのプレッシャーに自ずから緊張が高まる
勿論、野外で致す事に抵抗感を感じているのも、現代人だから有るっちゃ有るが。それ以上に頭を悩ませられるのは後の処理の方だ。
(これ、葉っぱ足りるかな?)
一応、予測し得た以上、備えは有る。洗濯物を干した時に大き目の葉を何種類か見繕って拾っておいたのが有る。が、しかしトイレットペーパーに頼り過ぎて
とはいえ、入れれば出るのは自然の摂理だ。我慢すれば済むというものでないのなら、出したい時に出せる今こそが考えうるかぎり最もベストなタイミングだと言えやしないものか。これが、催したのが昨夜であったなら、真っ暗な中で、拭く物の確保さえ覚束なかったはずなのだから。
いっそ言葉尻より、尻に力を入れながら、茂みへと足を向ける。
いっそのこと、どこにも遮る物の無い、湖を望みながら此処で致そうかと頭を過ぎったが、さすがにそれはワイルドが過ぎる。
今は精々、草葉の陰でこうして、背中を小さく小さく丸めて羞恥心に耐えながら致すのが今できるベターなのだと。
と、そんな事を考えつつ踏ん張るも。楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るものだ、呆気なく出る物はすっきりと出切り、最大の懸念であった清掃作業はといえばだ。
結論から言ってしまえば、トイレットペーパーは偉大だった。というより、紙と製紙の歴史が偉大だったと思い知らさる。
それらの使用感を挙げてみたところ。つるつるとした葉は水に強くて丈夫だったが、反面汚れが取れた気がしない上、ざらざらとした葉は汚れをしっかり取ることは出来たが、単純に痛い、気をつけなければ
今後の排便ライフを思えば、何らかの工夫をが必要だった、改善しない限りは、快適なものになることは全く無いのだろう。
そんな事を、ヒリヒリと痛む尻を持て余しながら考えさせられた、今も全裸で。物には土を被せて木の枝を目印として立て置く。
「・・・で、だ。どうすっかな」
仕上げに湖の水で手を洗う、靴と服の乾き具合をチェックした後は、焚き火の前に再び腰を落ち着ける。指先で、余った葉っぱをくるくると回しながらそう独り言ちた。
色々な意味で、今の状況はその言葉に尽きてしまう。乾くまでの時間をどう使ったら良かったか、身の回りで手に入る物で快適な拭き心地を実現するにはどうすべきか、そして、一体これから自分はなにをすればいいのか。
昨日までとの違いといえば、衣食住の目処は、大半が人任せではあったが立ったと言えなくもない。
このまま拠点を此処に定めつつ、救助を待ちつつ、自らも探索範囲を広げていくのが最善と思えたが。体力がある内に積極的に動くのも、これはこれで悪くない。
どちらにも一長一短があり、不確定な要件を想定しながら排除しながら想像を巡らせたところ、気持ちはやはり前者に傾く。
後者の場合、どこかの段階で拠点を捨てざるをえない上、補給が出来ずにジリ貧に陥る可能性は当然高い。無論のこと、本来であれば前者も似たような状況に変わりはなかろうが。
「なら、賭けるんなら、まあ、こっちかな」
さっきから本当に寝ているのか。こっちが何をしようと、どんな音を立てようと微動だにせず置物と化している、そのつるつるとした鱗の胴体を撫でる。
もし、だが、此処を離れる時にでも、付いて来てくれると言うのなら再考の余地はあったけど。なにせ発声器官も無ければ、聞きようもない。
こいつにどこまで頼っていいのか、いつまで頼っていいのか。その境界線は確認しようがない。例え前者を選び此処に残ったとしてもだ、そのうちに姿を現さなくなるなんて可能性は、これも当然ある。
悲しかろうが。仮にそうなろうとも感謝こそ有れ、恨み辛みこそお門違いだったが。
頼りにすべき事の線引きをどこまで引く。それが喫緊の課題か。
だだでさえ頼り切りの自覚が有るというのに、その上でこれ以上寄り掛かろうというのだから、これこそ依存なんじゃないかと。
意志よりも利害を尊重するようになってはだ。
そんなことすら他者に委ねる様になろうというなら、それこそヒモかペットか奴隷という。
既にペットだろうが。
鋭意、いつかは人間に戻れるよう精進せねばだ。
「これも、今できる限りのことを、だな」
決まってしまえば、やらなくてはならない事も自然と定まる。まずは掃除をしなければどうしようもない。あの建物を生活の拠点としようというなら、今のままでは不都合しかない。
窓を開放して光を取り入れることから始めよう、溜まりに溜まった長年の埃と汚れとを取り除いてやり、ついで壊れた箇所と壊れそうな箇所を出来る範囲で直してしまえば。
内部など、昨日の時点でほぼほぼ手付かずなまま、精査はまだまだこれからだった。なんにせよ、色々と役に立ちそうな物品や使えそうなお宝があるに違いない。
宝探しだ、というか家探しだったが。知らず期待感が膨らみ罪悪感がちょっと増し。さっと腰を浮かせると、洗濯物から比較的乾いていた肌着を身に付け早速建物へと向かう。
向かおうとし。森の手前で足を止め。
考えてみるまでもなく、このままで森の中を裸足で進むのはいかにも拙い。さっきまで何の気なしに森に踏み入っていたけれど、何かを踏んで足の裏に傷を負おうものなら、此処では致命傷となりかねず。
それで仕方なしに濡れた靴に足を突っ込んでみるも。が、まるで氷に足でも突っ込んだかのように冷たい、次いでじめっとした不快感に襲われ。
これを履き続けようものなら、たちまち両足が水虫になってしまいそうな。
怪我するよりかはマシ、とは言え、流石にこれでは気持ちが悪い。火に翳して追加で乾かそうと、生乾きの不快感はバッチリ残った、ほんとうに仕方なく嫌々ながら、も一度足を突っ込むと今度こそ建物へと向かう。
道中はつくづく。それにしてもだ、昨夜一晩お世話になったというのに、森の中の建物はどうしてこう明るい中で見ても鬱蒼としていて昼でも暗いのか。酷く陰気に映る。管理されていない建物に特有の雰囲気がありありと、廃墟というより寝静まった、誰かに起こされるのを待っていたかのような。
とにかく生気に乏しい。触れた木肌は死んではいないが湿り気を帯び、人が生活をする上で空気を入れ替えてやらねばこれから朽ちてく一方だろう。
玄関口から顔を突っ込んで中を確認してみたところ、暗い、相変わらず視認不可能なほど暗ければ。そこで早速、窓を塞ぐ木板を取り外しに掛かる。
建物の開口部は六つあり。玄関に面してリビングに大きいのが一つ、リビングにはもう一つ、玄関からはす向かいの壁にはそれより一回り小さな物があった。正面玄関のある壁にはもう一つ横長の大きな物と。玄関から見て左右の壁には、それぞれ、換気用と思われる小さな物が一つづつの。
玄関側の壁に二つ、リビングのある側の壁に二つ、ない側の壁に一つあり、薪を積み上げて保管している側の壁には構造上開口部は無かったため、玄関口と併せてこれで計六つ。
前の住人の置き土産に違いない、そのどれもがしっかりと木の板と金属製の釘で塞がれていた。見るかぎりは、そのどちらも腐食しボロボロになりながらも、役目を全うしてきた事だけは窺えた。
触れると、ぽろぽろと表面が剥がれ落ちるくらいに脆くなっている。外すのにそれほど労力は要らなそうだ、これなら容易に取り外せるはず。
物は試しと、板の端に指を掛け力を少し入れてみたところ、呆気なく力を入れた部分が剥がれる。
脆くなり過ぎてるようだった、こんな少しの力にも耐えられないほどに。こうなると、外すよりも壊す方が手っ取り早い。
が、道具も無しに素手でやる作業じゃ決してなかった。怪我する可能性しかない。腐食の程度によっては人力では太刀打ちできない可能性もあり、作業が停滞しかねない。
今まさに便利な道具があったなら。
先端の尖った細長い金属のような物が欲しい。それが在りさえすれば、隙間に捩じ込んで梃子の原理で外すことも可能、怪我のリスク無しに木の板を壊し剥がすことも可能なのだが。
何処かにそんな都合の良い物はないかな、と。
(・・・そういや、暖炉なんよな)
確信こそ持てなかったが、唯一の心当たりとなりそうな物がピンと来た。
そのまま玄関の所へ取って返し、暗い室内へと入り、火の消えた暖炉の周辺を手探りで入念に調べてみたところ。
「おっと、と・・・。ん、あった」
目当ての物に手が触れた。その、少しズシリとくる重量感のある金属を落とさないように両手で掴み取る。暗い中では何かまでは分かりはしない。外に出て翳したところ、改めて心当たりの品だと確信を持つ。
それは1メートル程の、木製の持ち手の付いた先端の曲がった細長い金属の棒、火掻き棒だった。
暖炉や薪ストーブといった暖房器具に必須、かどうかは知らないが。地域や世代的に縁遠かったので見るのも触るのも初めてだったが、薪の位置を調節する、灰を掻き出したりする為には必要不可欠な道具らしい。丈夫な作りの金属の尖端が、垂直方向に曲がっていたり広がっていたりするのが目立って特徴的な。
その姿は、思い描いた以上に理想に近い代物だった。この地に来てから初めて手にする文明の利器、生まれて初めて手にするその道具の感触に、まず好奇心が刺激される。
正面に、刀を構えるように掲げ持ちまじまじと観察してみたところ。それは、長年放置されてきたにも関わらず金属部分に腐食は無く、多少無茶な使い方をしたところで壊れなさそうだった、重量感のある、安物でないしっかりとした作り。
機械加工という事は有り得ないので職人の手仕事だ。
試しとゴルフスイングで下草を払ってみた。ぶちぶちと千切れた草が舞い上がる、不思議な全能感に支配される。
その勢いのまま、庭の掃除だと、ちょっとだけ振り回して藪や草を払い。アッパースイングで邪魔な枝を払い。さすがにこんな事をしている場合じゃないなと、本来の目的に頭を戻す。
速やかに作業へと移る。先端を引っ掛けて板を引っぺがし、錆びた釘の内、抜けなかった物は曲げるか折った。本来の使い方とは異なる用途においても十全に発揮される、その道具のポテンシャルの高さによって、作業自体はそれほど時間を掛けずにあっさりと終え。
これこそ、道具が有るのと無いのでは作業効率が段違いであり。これだけの作業を、落下物で怪我することなく、錆びた釘で手を切ることもなく、完遂出来たのだからまさに火掻き棒様様だ。
僥倖といえば、今更だったが、
こんな現代的なログハウスをこの世で見るとは。夢でもなければ、白昼夢を疑う非現実さだ、好奇心とともに一抹の不安が
「放棄されたとか・・・。死体とか無いだろうな」
思わず呟いていた自身の言葉に、背中の皮膚が粟立つのを感じる。
これまでは、良い物が眠っているに違いないと、それを盲目的に信じ込んでたような面は確かに有った。が悪い物が隠されていたとしてもなんら可怪しくはない。むしろ、辺鄙な場所にあるのだから、そちらの方が余程あり得そうな。
貴族が攫った娘をここで、と、昔見たホラー映画かサスペンスだかの恐ろしい光景が矢継ぎ早に頭に浮かび、ごくりと咽喉が鳴る。
宝探しから、ここで一転肝試しの様相に。ぐぐっと火掻き棒の柄を握り込んだ。一歩、また一歩と、解放した開口部の、そこに取り付けられた硝子窓に近付く。
あれこれと想像しようと、想像は想像に過ぎない、根拠のない不安に怯えていても仕方がなかった。真実は目の前に在り、それを見ないという選択肢なんてものはどこにも無かったのだから。
ここで怖じ気付こうが期待に胸膨らませようが、やる事に変わりがなければ迷った分だけ時間は無駄だ。
そうと言い聞かせながら、それに触れられる距離にまで近付いて、触れてみる。つるつると滑らかな感触が手に伝わる、紛れもなく既知の材質だった、よく馴染みのある。
(硝子だ)
室内へと光が差し込む。
淀んでいた闇は、それだけの事で呆気なく霧散する。明るいと言えるほどのものでなし、外から中は暗くも見える。そうして、遮る物が無くなった窓から、少し背伸びして中を覗き込んだところ。そこには凄惨な光景とは程遠い、素朴で温かみのある手作り感に溢れた台所の姿が、窓から差し込んだ光が無数の埃に反射して、きらきらと輝いている。
いったいどれだけの時間眠りに就いてきたのだろう、奥の壁には、カップや重ねたお皿がそのままに木製の食器棚に収められ、素焼きの小さな壷が幾つも置かれているのはおそらく木製の食品棚、どちらにも埃が堆積しているのが見える。手前には、陶製の乳白色の流し台に、そこに設えられた年季の入った木製の作業台にも埃は積もっているが。前の住人の性格が反映されてか、目立った傷も汚れも無くそれらは綺麗に整頓されており、その佇まいにはある種の美しささえあった。
果たして、童話の絵本の1ページか、一枚の水彩画か、と言いたくなった景色。
継ぎ目の無い大きな透明な板硝子一枚の向こう側。木枠に嵌められてそこに据え付けられた歪みのある硝子を透すと、景色もゆがんだ。
現代で云う大正硝子にも似た不均一な作りをしている。技術的に未成熟だったからと聞いたことはあるが、こうして見るとなんとも味のある。
こんな辺境のログハウスで、まさかお目に掛かれる代物でないはずの物。ましてや、廃墟同然の建物に放置されているとは考え辛い。
確かに、硝子自体はこの世界でも生産され流通はされている。けれども、実際には庶民がおいそれと手を出せる物ではなく、上流階級の嗜好品として取り引きされるのが主だった。
その多くが色付きの吹きガラス、化粧水を入れる瓶や酒瓶に食器類、木枠に複数の硝子を嵌めて採光用の扉や窓に用いる物や、金属で硝子を接いだステンドグラスのような物も在ったが、これほど大きく透明な一枚の板硝子は最初に訪れた宮殿でしか目にした事がない。
ちょっと裕福な庶民が、どうにか手に入れることのできる小さな硝子製品ですら、中々に高額らしいのだから、いったいこの硝子は幾らの値を付けた物なのだろうかと、まじまじと観る。
(金持ちつーか、富豪だね前の住人は)
この他、四箇所の窓すべてに硝子が在る。となると、所有者はかなりの資産家という事になる。
ガラス加工に限らず、技術の流出を防ぐために国は職人を集中的に管理して独占を図るものだ。つまるところ、遠地で製造されたオーダーメイドの板硝子を、態々こんな場所にまで悪路を馬で運ばせたとするなら。
(道楽者だ。それも、酔狂なだ)
その保養所の類として建てられたもの。そう考えると腑に落ちる。
華美ではないが金が掛かっている、風光明媚な環境を独占するための別荘という扱いだったのかも知れない、不必要だろうに、とても贅沢な、しかも廃棄するとは。
人が住まなくなってどれほど経つのだろう、少なく見積もっても十年以上は経過して見えた。
「家主の居ぬ間に不法侵入か。まあ、今更なんだが」
ついでに不法占拠もだ。緊急とはいえ勝手に上がり込み、これから家捜ししようというのだから、面の皮が厚いと
既に鍵を破壊して進入を果たしてしまった以上は、緊急避難だなどと言い訳はあろうが、器物破損で印象が悪いことに、撥ね付けられてまともに取り合ってはもらえないかも知れず。牢屋で臭い飯となり、その場合には堪能するに違いない。
この世界の法律については、そんなことまで学んじゃいない。
「救助がピンチ。司法取引・・・、が無いなら嘆願書になるのか。土下座だな」
本末転倒な筈だ、このまま此処に隠れ住めたなら、などと頭を過ろうと、後ろ向きすぎていかにも
ピンチはチャンスと言いもする、先を恐れて今を楽しめないなら、なんの人生なんなんだと。二日前の今頃はさんざん責め苛まれていたくせに、すっかんぴんになった今になって楽天に事を思う。
そうなったらそうなったで、出るとこに出りゃあいい。
「出たとこ勝負なんは変わんない。今も、これからもだ」
ある日、一匹と出逢って此処に居た。
あの瞬間までは、とても不運だった。不幸な筈なのに、此処に居てこんなことを考えていられるのは幸福なことで間違いなく、幸運だった。
今でこそ、そう思える。
異なもので、禍福を
(そいや。呼び名が無い、ってのは不便だな)
急にそんなことを思う。思い出されて、妙に気になる。
短い付き合いだというのに、これで、すっかりお世話になってしまったのになんて不義理なんだと。
いつまでも、おまえ、あなた、ではきまりが悪かろうし。これからも、その体のように長い付き合いになるかも知れないというのに、仮にでも、一つぐらい名前はあった方が都合が良さそうな。
(まあ、適当な名前を幾つか考えておきますかね)
これに関しては別に焦るような事じゃなかったので、作業しつつ考えれば良い。先々の、今ここで思い悩む必要は別にない事で考え込んでしまうよりかは、よっぽど有意義に脳が使える。
下手な考え休むに似たりだ。その時が来れば、こんな脳なんかよりよっぽどうんと優秀な脳が味方になって助けてくれるはずなのだから。
「うん、気楽に行こ、気楽に」
精々心掛けとして、感謝の心を忘れずに大切に使わせてもらうだけ。なるべくなら現状の維持に努めよう、いやそれ以上に、来た時よりも綺麗にしてやる心掛けで。
見方によってはこれも幸運な話だ、綺麗に整頓された室内は持ち主の性格を反映している、これで内装が奇天烈だったら不安過ぎた。変わり者かも知れないし、偏屈なのかも知れなかったが、人間としてはまともな感性を持ってるはずで。
交渉の余地はきっとある。
ちょっとぐらい家探しして、少しぐらい拝借して、備品を幾らか無断で頂戴したとしてもだ。
考え方が、窃盗犯のそれに近付いていってる気しかしないが。今からする事を思えば
「大切に使わせていただきます」
盗人猛々しいことに、これから家の隅々にまで手を入れ整えて、空気を入れ替えてあらためて火を入れて、思う存分ログハウスライフを堪能してやろうという、偽らざる気持ちだ。
目の前に広がる前の住人の残したそれらは、秘密基地を想わせるそれらに、刺激されて心惹かれただけなのも否定出来るもんじゃなかったが。
意外と住人のその趣味嗜好は、これと大差ないのかもしれなかった。
きっと、美しい湖を望む一人だけの秘密基地を造りたいと、こだわりを目一杯に詰め込んで実現させてみた、その結果なのだろう、これは。
それを証明するように。他の窓から覗き込んだ先、そこには、当然、狂気じみた儀式の跡や惨殺された令嬢の死体など在るはずもなく。ただ、小振りだが仕立ての良さそうなベッドが二つ並んだ寝室と、昨日過ごした部屋の中央に巨大な暖炉を配したリビングに台所の、計三室のみの。控えめだが快適さを感じさせる空間がそこには広がっていた。
おおよその間取りもそれで把握は出来た。リビングが敷地の総面積の半分近い、残りの半分を台所と寝室で分け合っている。リビングには玄関脇の大きな窓と中位の窓が別の壁に。台所には流しに面して横に長い窓があり、目の前が鬱蒼としていなければ湖までが見渡せた。寝室には換気用に小さな窓。もう一つあった換気用の窓は高い位置にあった所為で外からは覗けない、どの部屋に繋がっているかまでは分からない、場所的には暖炉の裏側にあたるのだが。勿論、どの窓にも硝子はぴったりと嵌め込まれている。
換気用の窓は開閉が出来たが、その他の窓は出来ないようになっている。
すべての窓を開放し終えてしまえば、見違えるように建物は息を吹き返して見えた。心
光が入った事で
壁の丸太に触れてみようと。まったく、脆く崩れ落ちる気配などなかった。しっかりとした硬質な感触を手の平に伝える。
死んではいない。此処に飽くまで眠っていただけで。その寿命が尽きるには、本来なら、これはまだまだきっと先の話なのだと。
時経て雨垂れに朽ちかけようとも、これはこれで侘び寂びであったが。やはりだ、住居としての役割を全うできないのは憐れに思える。
誰もかも、この地を去った後には、いったい誰に必要とされるのか。人知れず朽ちていく運命に抗えない様は、なんとも憐れだった。
「誰にも必要とされないってのは、キツイよなぁ・・・」
声に出すことで、身の上と重ねてしまいそうになり。すぐに詰まらない感傷だと切って捨てる。捨てたその後も、僅かに後ろ髪引かれ、建物の中へと今度は足を向け。
誰からも望まれなくなろうとも、命ある限りは生きていかなければいけない。なにも違いなど無い。
そのようにして、初めて足を踏み入れた明るい室内はといえば。堆積した埃の存在が有ろうとも、今も、ほんの少し前までそこに誰かが居たような。誰かが今でも暮らしているのかと想うほどありありと生活の臭いが残る。
「ぉ、お邪魔しまーす・・・」
まるで、
ふと、懐かしい小学校の校長室が頭を
厳かな空気の中を、落ち着かないままにきょろきょろしていると。玄関脇にある、引き戸のついた木製の棚が目に入る、中を覘いてみたところ、靴やスリッパ、スコップに鍬といった道具類がきちんと整理整頓されて収納されていた。
いきなりの大収穫だった、ものの、これこそ小心者ゆえか、表立ってそれを出すのを憚り、ニヤニヤしそうになるのを必死で堪え。
その内の一組のスリッパを取り出せば、外で埃を払い、湿ったままの靴を外に放置してはそれに履き替える。
さらさらと生地は肌触りが良かった、実に素足に心地良くフィットする。
濡れた靴のお陰でもってふやけて冷たくなってしまった足には、それが何よりの御褒美だった。が、それ以上に何よりもだ、土足で室内に上がり込まなくていいというのが有り難かった。この辺りでは土足の文化圏があったけれど、単なるこのスリッパは来客用だったかも知れないが。どうも、外の汚れを内に持ち込むというのは心情的に賛同しかねた。
昨夜の事につきましては、土足で上がり込んだ件については、緊急時だったというだけで本意では決してないのである。
その点においては、室内用の履物をこうして別に用意しようという、前の住人も同じ気持ちだったのかなあと、ふと思う。
これでなんの気兼ねも無くなり、リビングをぱたぱた音を立てて歩いていき。暖炉の脇の壁のフックに火掻き棒を戻すと。隣に同じように吊り下げられていた、箒にはたき、目に付いた柄の長い小型のスコップに金属性の長いトングと。その内の、箒とはたきを掃除に使うために手に取る、これも外で埃を払い、玄関脇の棚の上に一時置いた。
これはどうやら、使える物というか、使っていた物は丸々残して前の住人は此処を後にした様だ。もしかしたらだ、すぐにでも戻ってくる
出立間際まで掃除していたのかもしれなかった、リビングにある、木目の鮮やかな赤褐色の長方形のローテーブルの上には何も残されておらず。それに据え置かれた苔色の、それぞれ一人掛けと三人掛けのソファーの上にも何も残されてはいなかった。そこに在ったのは、刻まれた細かな傷に色褪せ、定位置だったのかクッションに残されている尻の跡の僅かなへこみと、そんなものに確かな生活の痕跡が見られただけ。
前の住人はそれほど几帳面だったと、それとも、それほどに大切に使っていただけか。余計な物は一切無い、それどころか、ソファーとローテーブルの下に敷かれた象牙色の絨毯以外、装飾の類が一つも無いその質実さはいったい
住環境の追求以外には興味が湧かなかったのだろうか。外から見た場合、無骨なログハウスにしか見えなかったその内装はといえば、室内に使われている丸太は壁から間仕切りまでがフラットに整えられており、丸太が剥き出しという事もなければ、一見して普通の部屋。部屋を仕切る背の低い壁に対して、天井は吹き抜け構造で高い、開放感を感じさせ、部屋が完全に独立していないがために暖炉の熱がどの部屋にも届く。のかも知れない。
といっても、一箇所だけはしっかりと区切られた空間も在り。それは暖炉の裏側に在り。あの、外からは覗く事が出来なかった換気用の小窓があった場所のことで、木の戸を引き開けてみれば、四畳ほどの空間があり。壁と床とに陶板が張られた狭い洗い場と、一段高くなった場所に設置されている、陶製のしゃがみこむタイプの和式に似た便器が在る。
水洗でないのは、覗き込んだ空洞の暗闇からでなくとも分かる。
(ボットン、だな?)
下で、容器で受けるのだろう。特有の臭いがしないのは不思議だったが、誰も、長いこと使用してこなかったのだから、こんなものかとも。
室内からでは、その下がどうなっているかまではよく分からなかった。
(ボットンであるなら、外から汲み取る?蛆は涌かんが。不衛生だがそんなもんか)
確認の為にも、濡れた靴に履き替えて外に周ったところ、確かに其処には木製の箱のような物が在った。ご丁寧にもその四角い箱の上部には、両サイドには持ち手があって、大きさは赤い郵便ポストぐらいの物で。
地面と便座との空間を、それが
「意外とちっちゃいな」
糞尿を溜めておくにしてはかなりコンパクトに見えた。
「なんなら、キャンピングカーのトイレっぽい?」
手動で外して捨てるのだろう。
仕組みは、けっこう原始的だ。
とはいえ、それでも画期的に思える。なぜなら、この国において、庶民の個人宅の室内には殆どトイレは無く。屋外か、共用のものを使うのがごく一般的であり。場所によっては酷い場合は垂れ流し、それよりマシだが、桶や樽に溜めて庭やごみ捨て場に撒くなんてのも珍しくない。しばしば悪臭や病気の問題を引き起こすのが現状だった。
中世どころか現代社会ですら度々ニュースとなる人口が密集する都市ならではの悩ましい下事情と言えなくもないが、対策を怠れば
折に触れ聞かされる、旅から戻ってきた仲間達からの、やれあの国は汚かっただの、臭かっただのという話は、都市計画の早い段階から共用の上下水道を整備した上で、それを公的機関が現在も維持管理してる国の王都に最初に流れ着くことができた幸運を一同に心から感謝させるものであり。
追記するのなら、幸運だったのはそれだけでなく、王都は貿易を行ない、人と物、文化の交わる国際都市の顔を持ち。他国の先進的な技術を取り入れながら、硝子製造、製紙、金属加工、造船、紡績等々の開発に売買、原料の栽培が盛んなお国柄なのであり。それら、最高品質の物には手が届かないとしても、値段を抑えた普及品ならば、古書や古着等のユーズド品の類も広く庶民に行き渡り、その生活水準については現代の感覚から言ってしまえば比較にもならない、とはいえ十分に及第点をあげたい。有り難いことに、毎日とはいわないまでも、液状の石鹸で体を洗うことも可能は可能で、贅沢だが古紙というかインクを落とした再生紙のようなもので尻を拭くことだってなんなら可能。
それだけ先進的な王都においてさえ、風呂やトイレは外で済ますという庶民の認識で間違いなく。このように室内に防水を意識した専用の洗い場やトイレを作るという発想は断然現代的と言えた。
霜が降りるほど寒くなる冬であろうが、暖炉の裏側なら寒いと感じ難いはず。洗濯だろうと、体を洗う事だろうが、トイレさえも此処で済ませられた。臭いや湿気の問題はといえば、これはどうだろう、こればかりは見当も付かない。
トイレの構造に思いを馳せれば、此処に出しっ放しで物を放置しようものなら、たちどころに悪臭と不衛生さに悩まされただろうに。なおかつ、頻繁に汚物の処理をする手間を考えれば、楽とは、これは口が裂けても。
物のみっちり詰まった箱を運搬中にすっ転べばこの世の地獄。
「人間だものね。入れりゃ出るんだし」
仕方がない。便利は、誰かが不便を肩代わりするもの。酸いも甘いも、好んで選べるお
怠けて溢れさせる糞もない、と思い、ガコッと外した箱の中身は果たして、中には埃と木くずと、それ以外にも、ざらざらと粗い粒子の混じったくすんだ土のような物が全面に敷き詰められていた。
一瞬、これは何だろう、と、手を伸ばし掛けて。触れる直前になって思い止まる、眺めるだけにしておく。
そうして観察してすぐに、それは見覚えがある。
「灰か?」
その正体に目星を付ける。
なぜ灰を、とは疑問に思い掛けたが。室内にあった、便器の前に色々置かれていた、汚れた紙を捨てるためのゴミ箱だと思っていた四角い素焼きの壺の中にも、蓋を開けると灰と思わしき同じ物があり。こっちには金属製のスコップが共に入っていたので、どうやら用を足し終わった後で上から灰を掛けるために用意された物のようだ。
(灰で隠せば臭くない、のか?)
なんとはなしに、その意図にも想像するだけの余地が生まれる。
暖炉に限らないが、煮炊きに火を使う以上、灰は幾らでも出たはず。なるほど、確かにこの資源をただ捨てるだけなのはいかにも勿体無いと思われ。
おそらくだったが、前の住人もこれに思い至りでもしたのか。どのタイミングで、トイレに使い始めたかは想像しようもなかったが、木灰の吸水性に頼り、物を受け止めるために箱の底に敷き詰めたのだろう。
砂場のカラカラに乾いた猫のウンチなら臭くない。とするなら消臭効果でも狙っていたのか、炭ではなくこれは灰だったが、冷蔵庫内の臭い取りには昔から重宝されてきたんだそうな、となると殺菌効果もあったりしてと、そこまで万能じゃない気も。
これなら用の美と言えなくもない。実際に試した訳でもなければ、効果の程に関しては想像しかなかったけど。これが想像の通りなら、物が直接容器に触れることもなく、これを灰ごと捨てたなら、箱の中が汚れる事も極力避けられて掃除が楽なのかもしれない。
灰が水分を奪い、その水分を臭いごと換気して外に追い出せたなら、物はカラカラに乾燥して臭くもないんじゃないのかと。腐敗を
「おー、それならなんとも合理的」
灰にしろ排泄物にしろ、これは大昔からの肥料だ。これを生ゴミと一緒に穴でも掘って混ぜて置いておけば、こんな事を前の住人がやってたかどうかは知らないが、作物を育てる堆肥にもなる。
「こりゃ、エコロジーだね」
知る限りの、先達の偉大さを噛み締めつつも。便座前、素焼きの四角い壺の横に置かれていた、四角い陶製の皿、これには古紙でも置いていたのだろう。持ち手の付いたまるで口を開けた
多すぎる水分を便器内に落とせば、すぐに灰の持つ吸水性を上回るのだろう、それと物とが混じれば下の箱を汚す。
その為にこそ尿瓶を宛がう。しゃがみ込んで用を足す際、尿だけは別にする、なるべく下に落とさないようにする。便座に金隠しが無いのもその為だろう。
多くの人間が使用した場合にはすぐに限界が来そうだったが、何人か程度なら十分に許容出来そう、と思う。清潔に使うには、各人の小まめな手入れが必要そうなトイレだった。見たところ、染みも汚れも無く、清潔さを保ちながら使っていたみたいなので、前の住人はよほど丁寧に使っていた事だけがそこから窺がえる。
あの、汚便所の、噎せ返る様な臭いと惨状を思い起こせば、この環境は上等だった。
あれですら、この世界基準ではまだマシな方だったと言うのだから、旅する仲間達など、今まさにいったいどれほど恐ろしい経験を積んでいるやらだ。
「愚痴の一つぐらいは聞いてやらんとなあ」
いつか、とだけ。それだけ心の中に留意しておく。
なにはともあれ、此処が上等な住環境であることは間違いなく。地獄で仏、捨てる神あれば拾う神あり、とでも言いたくなる偶然に感謝しながらも、と同じくらいに運を使い果たした感もあり。
(何の偶然にしろ、後が怖いことで・・・)
一生分の運を今ここで使ってる感もある。
オオカミ少年じゃあるまいて、獣に庇護されて生き長らえるなんざまるで童話の冒頭だった。お菓子の家ならぬ、閑静なログハウスに案内されてからの。
となるとあいつは悪い魔女か、魔法で姿を変えた。
「アホらし・・・」
なんともメルヘン過ぎて頭が冷めた。水回りを離れると、続けてすぐ近くの寝室に繋がる扉を開けた。外から見た時とさして変わりのない、ホッとするような柔らかな空気が身体に触れる。飾り気のない無骨な作りのリビングと違い、寝室には温もりのある曲線の造形物が目立つ。
入って正面の壁には、換気用の小さな窓がある。その左右の壁には二台のベッドとクローゼット、どちらも素朴な無垢材が使われており、角を削り落とすなど造形は丸みを帯びていた。絵も飾られている、農村の絵と、花の絵。
二台のベッドの枕元にはナイトテーブルが、その間に挿まれて一台。その上には、可愛いとも思い辛い、絵付けも造形もどこか野暮ったく丸っこい花瓶が置かれ、近付いて手に取って見てみれば、これが不細工でも愛嬌のある、蛙に似た生物を模した物だと分かり。
ピンクを基調にしたファンシーな姿形をしているが。背中に穴を開けられてしまった事が余程不満なのだろうか、不機嫌そうにこちらを睨む大きな眼が、何ともふてぶてしくて面白い。
花瓶としては背が低く、また重心も低いその形は、転倒する心配も少なく、寝室に適している形といえた。山野草の一つもこれに活けてやれば、さして華美にも寄らず、自然な温かみと華やかさをそこに添えてくれそうな。
相も変わらず此方を睨み続けているそれを、ゴトッとテーブルに戻すと。埃の溜まったベッドの方は後回しにすることにして、先にクローゼットの中身を確認することに。
シンプルな無垢材のその、両開きの扉の中には、防寒対策の施された厚手の上着が何着も木のハンガーに掛けられて残っており。その他には、下着類や、普段着となる簡素な衣類に帽子や靴下等の小物類などは、引き出しの棚の中に畳んで綺麗に収められて残され。
出掛けに持ち出した物もあれば、クローゼットにはまだ余裕があり、衣類はそれほど多くもなく。クローゼットの一番下の横幅一杯の大きさの引き出しの中には、シーツやマクラカバーの予備に、数枚の毛布が入っており。これも職人の手仕事の賜物か、それらには多少の経年劣化や付着した埃こそあったものの、優秀な保管環境のお陰で、使用する上でこれも支障はなさそうな。
(全部、使えるな・・・)
取り合えず、寝室の探索はそこまでで切り上げておく。最後の部屋である台所に場所を移す。
台所には扉が無かった、リビングとを繋ぐように、丸太の仕切りの壁が長方形に縦に切り抜かれているだけで、リビングからも台所からもお互いに丸見えな構造。オープンキッチンの亜種、みたいなやつだ。
熱源である暖炉の天板の上と、台所の流しと流し台との間を、いちいち行き来する度に扉を開け閉めするのが非効率的とでも感じたからだろう。
台所の中身を物色してみれば、外からも見えた流しに作業台、食器棚や食品棚の他には、水を溜めておける一抱えほどもある大きな陶製の水瓶が二つに、流しには金属製の
流しの下は床板を貫く陶管に繋がっている。そこから排水できる仕組みになっていた。
あの時は気付かなかったが、間違いなく、暖炉の裏の洗い場にも同じような排水のための陶管が床下と繋がっていたはずだ。
後で探さなくてはと思いつつ、水瓶の木の蓋を外して中を覗き込み、作業台の下の収納や食器棚の引き出し食品棚を漁っていると、鍋やフライパンに包丁、フォークやナイフに、埃塗れの正体不明の乾物などなど、これまた正体不明の謎の臭いを放つものが詰まった陶器の壷等々。どうやら、こちらは殆どが手付かずで残されていった様で。
(うーん・・・)
台所と言うよりかは、台所兼物置と言った方がしっくりとくる。食関連の物以外には、古紙の束や紙に包まれた石鹸、持ち運びできるオイルランタンに金属製のバケツと、布の端切れと糸針が一緒になった裁縫箱なんて物もあった。
何も無ければガッカリしたろうに、逆にこうも物に溢れていると、今度は酷く後ろめたい。いよいよ押し込み強盗にでもなった心地がしてくる。
なんとも贅沢なはずだ。首たる都でさえ見た事のないような様々の物品を、まさかこんな辺境でこれほど目にしようとはだ。
大袈裟でもなく。少なくともこれらは普及品や低級品の類などではなく、職人に依頼して個人的に作らせた物なのだと。
嗜好品こそ少なかったが、日用品や消耗品は過不足なく揃う。しかもこれが高品質なののから、まったく本来なら喜ぶべきところ、
(うーんん・・・)
けれど、どうにもそんな気にはなれない。
嗜好品には手を着けず。ひとまずは、それらの扱いは保留するものとして。ついでに見付けておいたバケツと雑巾だけを持ってリビングへと戻る。
予め見付けて確保しておいた箒とはたきで、これで掃除に必要な物は大体揃う。と、思いきや、塵取りが無い事に気付き、きょろきょろと辺りを探してみたところ、玄関脇の棚の道具類の中に立て掛けて置いてあるのを発見。
ひとまずバケツに水を汲んでこなくては、と湖畔に赴けば。既に焚き火に火の気は無く、燃え残った灰から弱々しく煙が棚引く様などは、どこか寂しく、もののあはれといった風情な。
傍らには、とぐろを巻いた巨体が置物のように在る。最後に目にした時と寸分
(ま、掃除の世話まで見ちゃくれんわな)
手伝われても心苦しいだけだったので、そうっと水を汲み次第、なるたけ静かにその場を後にする。
そのまま外に、玄関脇に水を汲んだバケツを置いておくと、中に入り、さてと掃除の手順に関して思いを馳せた。
掃除は高い所から、というのが基本なのだが、この建物の一番高い所といえば屋根ということになる。しかし、どうすれば上に上がれるのか、というか本当にそこまでやる必要があるのか、考えあぐねて、なんとなく視線を上げたところ。すると、ちょうどリビングと台所を仕切る壁の上に、その天井の所に天窓らしき物があるのに気付く。
らしき物、と思った理由は、こちらも同じく外から塞がれているようなので光が入ってこなかったため、其処に硝子が在るのか分からなかったためだ。
或いは、もしかすると、あれは単に屋根に上がるように設けられた出入り口なのかも知れないが、室内に梯子の類は無いようなのでそれも確認のしようがなく。
どうせ一度は、暖炉の煙突を点検しようと思っていたところだ、その際どうせ屋根には上がるのだから、これは良い機会なんじゃあないかと。一旦そこで外に出ることにする。梯子か脚立のような物はないか周辺を隈なく捜索してから、床下を覗き込んだところ、ちょうど建物の裏の、薪の積んである場所の下から4メートル程の木製の梯子を見付け出す。
その場所から他には、同じような長さの木の棒を二本見付け。熊手のような物と、半月に見える鍬のような物の、金属製のそれらをそれぞれの先端に
梯子とセットでこれも保管してあったのだから、おそらくこれは屋根の上で使う物なのだろうと当たりを付ける。長さから考えても、煙突掃除と屋根掃除にピッタリだ。て
長らく外で放置されてきたにも関わらず、硬い木に焦がしの入った木目の風合いは損なわれず。経年の使用感はそのままに、渋みを増した。
「これは使えそうだな」
薪の下で雨露を凌ぎながら、じっとその身が役立てられる時を待っていた。とそう言わんばかりに、屋根の縁に立て掛けられようとも、人ひとり分の重量を受け止めようとも
昇る途中で折れるどころか、
「んじゃやりますか、掃除」
勾配こそそれほどきつくないとはいえ、屋根には湿った落ち葉が薄く積もる、それに足を滑らせれば普通に地面とランデブーだ。ここぞで慎重な作業が求められる。
熊手の柄を短く持ち、まず足元の落ち葉から地面へ落とす。
ザザッと落ちていく落ち葉のその下からは、緩く曲線を描いた、赤茶けた屋根瓦が顔を覗かせた。
それが何製だったかまでは、こうして触れられるほどの距離から見て実際に触れてみたところで判りはしないけれど。一枚一枚の色味に
表面はざらざらとしていて、一見滑りにくそうに思えたが、気休めだろう。用心の為にも、半ば這うように四つん這いで移動すると、膝立ちのまま積もった落ち葉を掃除していく。
途中、一度だが濡れた落ち葉を踏ん付けて滑って危うかったが、咄嗟に
落ち葉を払い落としたことで、本来のといった姿を取り戻した屋根瓦には、ざっと見た限りでは破損も無ければ。出来るかは兎も角、補修の緊急性はまだ低い、のだと思う。
そもそもが、屋根に異常があったなら、室内があれほど平穏無事な訳がないのだから、そこは見たまんまだった、と。これは素直に喜ばしいこと。
さあお次は煙突だ、と、屋根の上、胸の高さに突き出したそれのもとに這ったまま向かい。それに掴まって立ち上がったところで、その先端に在る筈の穴は、ぴっちりと、持ち手の付いた四角い金属の蓋で塞がれて。
(ああ、だから煙い)
煙突が塞がれているのだから、煙が外に出て行く道理はない。
それで納得し。ひとまず、よっ、と力を籠めてその蓋を持ち上げてやる。見た目ほどには重くもなく、簡単に持ち上がったのでそのまま外してやり、煙突の足元に立て掛けて置いておく。
この金属の蓋の裏側には棒状の出っ張りが四隅に付いており、どうやらこれを煙突の穴にちょうどフィットさせる構造のようで、それで滑り落ちなかったようだ。
外したことで、露わになったその穴を覗き込んではみたけれど、当然底の方は暗くなっていてよく見えもせず。見えなくても掃除は別に出来たので、半月の鍬が先端に付いた方も屋根の上に引き上げると、穴に突っ込んで適当に壁面をガリガリと削っていく。
それほど、手応えという手応えは無かったが、バラバラと何かが落ちていく音はするので、壁が削れているという訳でもないかぎりは、一応付着した煤は落とせているような感じはする。
どの程度やればいいのか、が分からなかったものだから、取り敢えず気の済むまで作業し続けること。終わる頃には腕全体が真っ黒になる。
冬間近だというのに、こうして掃除に励んでいるうちにポカポカと暖かくもなる。汗ばむほどであり。本日は、まさに絶好の掃除日和であるといった。
煙突掃除の終わりに、腕と同じく真っ黒になった鍬を煙突から引き抜くと。金属の蓋は下に置いたまま、その場を後にしようとして、
(ん?なんかおかしくない?)
ふと、思い止まる。
こんな状態では、雨だろうと落ち葉だろうが煙突内に入り放題だ。流石に構造上、それは拙いんじゃなかろうかと。
そう思い、あらためて煙突をぐるっと、しがみ付きながら見て回ったところ、案の定、その側面にはもう一つ、取っ手の付いた金属の蓋が確と嵌り。
落ちないように煙突を両腿で挟み込んで、下半身を支えると、それを両手でもって引っ張って外してやる。すると側面にもう一つの四角い穴が生まれ。上と同じ構造の蓋の裏には四本の棒が突き出していて、これもちょうど穴にフィットさせる構造のようだ。
これはどうも、上の穴は掃除用、もしくは、必要なら修理の際に人が入る想定の物らしく。どうやら、横の穴を排煙の出口として使うのが正解らしい。
出掛けに、蓋をした際に軽く掃除でもしたのか、その穴に煤はなく。葉っぱなどの異物が入り込まない為の返しが奥に在るのが見える。
「よっと」
立て掛けておいた金属の蓋で再び煙突の真上の穴を塞ぐと、替わりに、横穴の蓋を煙突に立て掛けておいて。
(次は中だな)
煙突掃除のお陰ですっかり煤塗れだったので、どうせならこの機会にと、やろうと思っていた暖炉本体の掃除もこの日で済ませてしまおうと思い。
「と、その前に・・・」
先に、天窓らしき物を確かめておいた方が良さそうだとも思い。おおまかに積もった落ち葉は取り除けたとはいえ、此処での危険性を
手に持つ道具の先端を棟に引っ掛け、落ちないように両膝を突いてじりじり下がる、後ろ向きで尻から
慎重とも臆病とも言い兼ねる。一瞬の油断が最悪の事態を招くことを思えば、たとえ傍から見ればみっともない姿だったとしても少したりと躊躇わず。
(まあ、素っ裸で野糞しておきながら何を今更だ)
懸命だった、それしかない。目の前にあるものと対等に向き合わなくては一歩たりと進めない、只の人にはそれしか出来ない、身一つではそれしか出来なかったは
この地で他に、何が出来る
(や、あかん、あかん)
つい思考が、あらぬ方向へと脱線していってしまった。
その場で軽く頭を振って諸々の雑念を吹き飛ばすと、注意を目の前の板張りに向け。
板張りとは形容したものの、それは長年に亘る雨風と湿った落ち葉との影響で既に真っ黒く朽ちており。窓を塞いでいた板と比較するまでもないほどに見るからにボロボロで、正直なところ木というよりか腐葉土に近い。
触れるだけで崩れてゆくそれを、片手で少しだけ取り除いてやれば。その下からは硝子であろう、冷たい物に指が触れ。
これが天窓で間違いなかった。
そう思い、持ってきた道具の柄で、ほぼ無抵抗な木材の成れの果てを崩してやれば。やがて、丈夫な金属のフレームに嵌め込まれた、ほぼ透明な一枚の硝子板が姿を現す。
それほど大きな物じゃない、精々が半畳分程といった大きさだ。
開閉式の可能性はといえば、フレームと瓦とがピッチリと組み合わされた作りにどうやら無さそうだ。純粋に採光目的で設置された物のよう。
さすがに開閉の事まで考えた水漏れ対策は出来なかったのだろう。コーキング剤のような便利な物も無ければ、水切りの構造の工夫だけで天窓を実現させたようだ。
危険なのでここであえて身こそ乗り出しはしないが。おそらく軒側のフレームには、水を逃がすために溝に穴でも開けられているのだろう。たぶんだが、堆積した落ち葉がその穴を塞がないよう軒のギリギリにでも設けられているはず。
そのようにして、製作者あるいはデザイナーの思惑に思い巡らせつつ、硝子の上に残った砕けた木片を地面に落としてしまえば。そうして顕わになったそれには、経年の汚れや曇りが目立つものの、採光用と割り切ってしまえば問題無さそうに見えた。
「天窓とかセレブだよね」
なんにせよ、これを煤に塗れている手で汚してしまっては元も子もない。どうにも、この硝子を綺麗に磨こうとしたら手間だろうし、なにより危険しかなく。それよりどう考えても今は室内清掃の方が優先順位が高い、なんだかんだ時間が押して来てもいた。
綺麗になったので良し、として屋根の上の作業はこれで切り上げることにする。道具類を先に落とし、下ろして、次に自分の身体も慎重に梯子から下ろす。
地面に足が着くと、思わず、ほっと、安堵の息が漏れた。さしたる安全対策も取らずに高所での作業とくれば、膝が今になって震えてきそうになり。
慣れない高所作業に強張った身体を
何は無くとも暖炉は使える状態にしよう、と、そう思い。なるべく煤塗れの手で周囲の物に触れないようにしなければと一直線に暖炉へ向かう。今度は室内側から煤を取り除く為にそこにある物を一つ一つ点検していく。
本体の高さは、こちらの頭の位置と同じくらいだろう。横幅は、腕を広げた幅より少し長いくらいのもので。これについては知識不足なので煉瓦なのか天然石なのかは判然としないが、それを積み上げた大きな直方体に見える構造物だ。屋根の煙突はそれと繋がり、薪を燃やす炉の部分は本体から腰の高さに迫り出していて、その上には四角く分厚い金属の天板が取り付けられている。鍋やフライパンを置けば調理に、それ以外でも、水を張った盥か金属製の何かを上に置いておけば、いつでも温水が使えそうだ。
本体にはその他にも金属部品がごちゃごちゃと付いている。取っ手の付いた金属の蓋が正面にも横にも等間隔に幾つも。よっと、力を込めて外してみれば、そこには空洞、空洞どうしは内部で繋がっており、煙が通れる入り組んだ道がある。
この蓋は煙突の時と同じように、きっと掃除する際に外す用だ。どうやら、ここから手なり棒なりを突っ込んで煤を掻き出すのが正しい使用法なのだと思う。
掃除用と考えれば合点がいった。何故か、煙の道を塞ぐように二枚ほど金属の板が挿し込まれていたりもしたが、そちらに関してはまったく見当も付かなかったが。
(なぜ塞ぐ必要がある?)
取り敢えず、それが在ると煙道が塞がってしまい掃除ができなかったので、二枚とも外し。それら金属の板と蓋はそこら辺に一纏めにして置いておくと。そうして全てを開放すると、早速煤を掻き出しに掛かる。
「スコップ、スコップと」
中をザッと見た限りでは、それほど煤が溜まった様子はなく綺麗。だったので、手早く済ませてしまおうと考え、発見して取って置いた塵取りと、他には1メートル程の長い柄が特徴的なスコップを取りに暖炉の脇へ。
暖炉の脇には、吊り下げられている各種道具、積まれた薪以外に、灰を溜めておける金属製の四角い箱が在り。蓋を開けてみれば中にはまだ灰が。薪の束に立て掛けられた金属の蓋も在り、炉口を塞ぐ為のそれは一部がガラスになっている、塞いでも外から火勢が見えた。
(照明に、保温?)
これは、昨夜のように、単に薪を燃やしただけでは、この暖炉は性能の殆どを発揮できなかったに違いない。
言うまでもなく、暖炉になんてとんと縁が無い。貧乏でこそなかったものの、いや実際にはそうだったのかもしれないが、家族四人で肩を寄せ合って暮らしをしていたのだから、知識は多少あっても経験などあるはずもなく。これは一朝一夕とはいかないだろう。
(なんというか、せめて身を燻さないくらいには・・・)
習熟できると良いな、と、志の低いことを考えながらも、黙々と。手にしたスコップで暖炉内の煤を掻き出しては、それを塵取りで受け止め外に捨てに行くという作業を、目視できる部分が綺麗になるまで繰り返した。
想定通り煤は少ない。ガリガリと、では別の物も削ってしまいそうだったのでカリカリとだが、その分念入りに。それだけで、それほど苦もなく掃除は進捗していき。
「まっ、こんなもんだな」
掃除前よりかは、多少はすっきりして見える煙の通り道を、蓋して戻してやりつつ。使い方の定かでない二枚の金属プレートも同じところに挿し込んで、完全に挿し込んだら煙が通れないため半端に開けて。
「さてと・・・」
暖炉掃除を無事終えたが、その過程で零れた煤が床の上に目立つ。
続けて床掃除もしてやって綺麗にすべきなのだが。
「先に体を洗いますか」
見下ろせば、煤に塗れた体があった。出来れば一通り掃除を終えた後に洗浄したかったと、僅かに落胆し。
(先に中やってから、上の煙突だった)
計算違い、というか不手際で余計な一手間を増やしてしまった後悔。
まったくもって、こんな時にでも発揮される要領の悪さに辟易しつつも。それまで。煤で汚れた道具と、台所にあった大きな金属の盥を抱えるようにして持ち上げ、湖へと続くだいぶ通い慣れた道を往く。
開けた視界に映る湖は何時もの通りに美しい。キラキラと輝ける様は、煤に塗れて小汚くなったこの身とはどこまでも対照的だと想われた。
比べた事が分不相応。そんな気もしてくる。
なにぶん卑屈になるにはでか過ぎたので。抱えていた道具を焚き火跡近くに置く、そのまま盥いっぱいに水を汲み、おっとっと、となりながらも運び置き、腰を落ち着けた、その水面に軽く指を浸け。
「冷たっ!」
冷たさや。今朝方、強制的に水浴びさせられた記憶がまざまざと甦る。思わず背筋を震わせると、徐に、持ってきたスコップで焚き火跡を
疾うに火が消えて久しかったとはいえ、触れると灰はまだほの温かく、当然、その下の石は熱を溜め込んで、こうしてやれば直ぐに盥の水は人肌程に温んだ、腕を浸けてもポカポカと心地が良い。
そのままバシャバシャと腕を洗っていくが、思うように煤は落ちやしない。
水分を含んだからか、それとも弾いているのか、煤はぬるぬると腕に纏わり付いて。どれだけ擦り合わせても、一向に綺麗になる気配がなかった、正直、いつまで経とうが落ちる気配がなく。
(台所の石鹸持ってくればよかった)
脳裏に浮かんだのは油紙に包まれていた固形石鹸の事。後悔先に立たずとはよく言ったもので、汚れた手であちこち触りたくなかったのもその通りなのだが、なにより消耗品である新品の石鹸を、所有者の許諾なく勝手に使う事に憚りを感じた部分も大きい。
こんな状況で発揮される謙虚さなんて、美徳も糞もあったもんじゃなかろうに、こうして後悔する辺り損な性分であることは否定できずに。
「まあ、直りゃしないんだけどね」
何処に往こうが、何処に居ようが、人の性分などそうそう変わるものでもないらしい。
使えば減っていく物を惜しみ、後生大事に取っておく事も、使うにしてもちびちびと使う貧乏性なところも、多分一生付き合っていくに違いないのやも。
「まあ、そう悪くもない」
後悔してもしなくても、何だかんだそんな性分は嫌いじゃなかった。今更別のものに変えられても困ってしまう。
結局、只の無い物ねだり。此処に石鹸が無いように、有ったら有ったで、今度は汚れ落ちが悪いだの消費が早いだの、別の不満もきっと出てくるはずで。
物事の良し悪しは表裏一体とも言う、良い面だけを見て憧れるのも、悪い面だけを見て蔑んだのも、どちらも視野が狭く、本当の価値からは遠ざかるだけ。
どの道、何もかも完璧からは程遠いのであった。ならば、少し足りないぐらいをちょうど好いとする。工夫や知恵を働かせるだけの余地があり、思わぬ発見は日々の刺激にしてしまう。
どれだけ嘆いて見せても、惨めになるばかりで慰めにもならない、と。結局、心の有り様一つで、幸にも不幸にも容易く振れるなら、人は皆、幸福でも不幸でもあるらしい。
考えながら、焚き火の跡をスコップで掬う、そうして取り出した灰を攪拌しながら少し冷まし、たっぷりと腕に擦り付けてやる。
煤塗れの腕を灰で洗う。ぬるぬるしたところが粉っぽくなる。洗って駄目なら逆転の発想で吸着してしまえないか、そう考えたまでのことで、気が狂ったとかではない。
自信が無かろうが、駄目で元々。なんでも、これでもかと手近に在る物を片っ端から試していけば良いのである。
焚き火の灰はほの温かく、暫らく擦り続けていくごとに、温熱マッサージにでもなっているのか、遠赤外線的なものでもあるのか段々気持ちが良くなってくる。
ゆっくりと腕を温水に浸して、再度揉みこむ様に灰ごと煤を落としていくと、
「おお~」
灰で水が汚れるのにあわせて、煤の黒ずみも溶けていく。
流石に、一度では落ち切らなかったのでもう一度繰り返し。爪の隙間もしっかり擦ってやれば、驚きの白さ、とまではいかないが、肌の黒ずみは殆ど目立たなくなり僅かに皺や爪の隙間に残すのみ。これも、ブラシか何かでゴシゴシと擦ってしまえば十分に落とせそうだと。綺麗になった腕に触れ。
「おー、ぬるぬるしない」
キュキュッと、抵抗感を返してくる肌に油分は無く。むしろ、ちょっと肌荒れを心配したくなる程に。
思い付きだったはずが、まさか最初に正解を引けるとはこれこそ想定外だった。想定以上の成果が示されてしまった結果に驚くしかなく、一方では、これで新品の石鹸を使わずに済むんじゃあないのかと、現金な感想を抱きもする。
必要は発明の母だったような。それなら、発見は何の父になるのだろう。発展か、それとも探究か。
紛れもなくその一歩だった。この地から。まだ何も成し遂げていなければ、成果と呼べるのはこんなものなのに、それでも間違いなく一歩だった、確かに歩み始めた。
使い果たしたと思っていた運には続きがあった、運が開けたのかもしれない、いやきっとこれも過大な思い込みだ、思い込みでも良かった。
迷子が踏み出したんだ、喝采で以ってせめて自分くらいは祝福してやらなければ他の誰がしてくれる、こんな場所で、独りきり、動機なんてそれで充分だ。
湖を覗き込み、その水鏡に映った、顔の汚れに灰を塗り込み。持ってきた道具類にも擦り付けて水で流し。
「うし。もう一踏ん張り」
最後に盥の汚れた水を捨て、自身に気合を入れるように一声。
これからやる室内の掃除は、まず埃を掃き出してしまい、それが終わった後は拭き掃除をする、これも念入りに、高い所は梯子を使い、煤汚れには炭を使い、ベッドカバーやソファーカバー、カーペットの類は外にでも吊り下げて布団叩きの要領で埃を叩き出してやろう。
多分、今日はそれで精一杯。
夜が来る前に暖炉にもう一度火を入れて、魚が提供されるならそこで調理して食い、されないなら直ぐに寝て終い。
今宵の宿の快適さを決めるのは、
良い意味だけとは限らない、やる気が空回りしては、痛い目を見る事もきっと日常茶飯事に違いなく。その度に後悔やら悲哀やらを重ねていくに違いない。
良い事ばかりじゃない、けれどそれほど悪い事ばかりでもなかった。それが分かっただけでもきっと幸運だったのだ。失ってから分かることを、失わずに知れた。
まだ何も失っちゃいない、唯一の命だってまだ此処に在る。
生きているなら、生きられるだけ、これを生きぬくまで。
今はまだ、ハイハイしか出来ない赤子のように頼りないし物も知らない己に過ぎず。反面、これからの伸び代は凄いはずだと、そこんところはポジティブに。
何時まで此処に居るか、居られるかは分からなかったが、その時間をけっして無駄にはしない。
踏み出した足は確実に跡を刻む、昨日より今日、今日より明日と、やがてその足跡は道となる。
何時か振り返った時に、あの日があったから今日があるのだと、そう思える一日が、今この瞬間であったなら、と切に願う。
願うだけでは何も変わらない。それでも、心に燈った温かなそれが、迷いを蹴散らし窮地を救う、そこまでじゃなくとも、今日を生きる一助にはなってくれるはずだと信じたい。
「うっし!」
気力が身体の隅々まで行き渡り、沸々とやる気が満ちていく。
長らく噛み合っていなかった歯車が、ようやくピタッと嵌って動き出した、そんな気もする。
この衝動に身を任せるのは正しいし、きっと楽しい。
そんな思いに突き動かされ、鉄は熱いうちに打ってやれとばかり、諸々を抱えて猛然と。
埃塗れになる未来も、翌日の筋肉痛も、自分で選んだものだと思えば、なんだか愛おしい。
変わらないものも、変わっていくものも散々見てきたけれど、此処には、変えられるものしかない、楽しまないなんて嘘だ。
猛然、とは言ったものの道具類を抱えて大してスピードは上がらない。そんな、精々早歩きといった速度にすらもどかしさを覚えるほどに、昂ぶりに頬を赤らめ。
早く早くと急かす声が、何処からか聴こえた気がした。
その無邪気さは在りし日の面影に似て。歩みを止めぬ足取りは軽やかに伸びやかに。時折吹く風も熱を冷ますにはまだまだ足らず。寧ろ火照った身体に心地がいい。
惜しむのは時間か想いか。唯真っ直ぐに、振り返ることもしないその眼差しは、遥か彼方を見通すように、何処までも遠く、澄み渡っていた。
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