5章 水の章

 ガタガタと、静寂を壊す物音が耳に届く。

 何かと思い、手にした書類から意識を切り離し顔を上げた。


 途端、背中と首に軽い痛みが走り、思わず顔が歪む。

 またやってしまったなあ、とぼんやりとした意識に反省が浮かぶ。口を酸っぱくして、あれほど、同じ姿勢で長時間仕事するな、ちゃんと休憩を取れ、と言われたにも関わらず、実際にはまったくその忠告を活かすことが出来ていない。


 頭では分かっていても、一度集中しだすとめ時を見失う。毎度こうなのだから、そのうち呆れ果てて見放されるのだろう。いや、すでに半分以上そうなってる気もする。

 

(叱られるうちが華だな・・・)


 そう頭の中でひとりごち、固まっていた体を解すように伸びをしながらも、改めて周囲を見渡し音の原因を探ってみる。

 すると、蝶番ちょうつがいでも緩んでいるのか、窓に付けられた両開きの木製の扉が小さく前後しているのが目に留まる。


(あれが原因だろうなあ・・・)


 備品の申請の書類が一枚増える予感に、ちょっとだけげんなりする。

 本当に、何時まで経っても書類仕事には慣れない。流石に基本的な書式に戸惑うこと自体はほぼ無くなったが、量の多さと、変則的、例外的なものの扱いにはほとほと辟易とさせられる。


 誰かがやらなければならない役割、必要不可欠な仕事だと重々承知しているからこそ、こうして耐えられる訳なのだが。そうでなければ、とっくの昔に責任放棄して敗走している。責任感だけでこうして机に噛り付いて残業を一手に引き受けるなど、誰が正気の沙汰だと思う。

 まして最近は、会う奴会う奴から、「老けた?」、などと指摘される始末。目の下の隈や、痩せこけた頬が目立ち始め、しかもそれらが常態化している有様なのだから。

 

 ふうー、と溜め息を一つ零す。徐に眼を擦ると、眼鏡をずらして目頭を揉み解していく。

 どうせ、こんな夜更けまで貴重な燃料を使ってまでも仕事を続けたがる奴など、ここにいる自分ぐらいしかいないのだろう。周囲は既に寝静まり、辺りを包む静寂もその為だ。


 これが何時も通りなのだから、この状況にもすっかり慣れてしまったとすら言える。

 腕を伸ばし、テーブルの端にある、何時置かれたのか分からない、すっかり冷め切ったカップを手に取る。


 口を付けると、舌に強い苦味を感じた。樹木の皮を乾燥させて煮出したこのお茶は、淹れたてこそ香ばしく薫り立ち、強い苦味も良いアクセントと好意的な解釈も可能だが、こうして冷めると香りは飛んでしまい、より強く苦味を舌に感じた。

 顔をしかめようがこれを一気に飲み干せば、これが覿面てきめんに効いた。


 全身を苦味が駆け巡り、緩くたゆたっていた眠気を一気に吹っ飛ばす。

 ふうーと、先程とは違った意味の息を一つ吐く。そのまま、椅子の背凭れに全体重を預ける。


 かなり強烈な味だが、この行為も既に習慣と化して久しい、或る意味慣れた味だった。

 だったのだが。いつもなら、飲んだ直後には、ここからもう一踏ん張りと気合が入るのだったが、今日に限ってはそんな気さえ起きない。


 椅子の背に体重を預けたまま、ぼーと天井を見上げる。

 代わり映えのしない天井だ。何時からかこの部屋で過ごす事が増え、今となっては部屋の主のように篭りきりなのだから。それも、当然と言えば当然な話なのだが。


(あー、あたまが痛いよぉ・・・)


 焦っても仕方がないとは。それもまた、散々言われてきた言葉だ。

 そして、その言葉もまた守ることが出来ていない。


 そのままの状態で天井を眺め、染みや特定の図形の数を何となく数えていると。

 頭の片隅に、こんなことなら茶を飲まない方が良かったな、と、眠気を吹き飛ばしたくだんの行為を悔やむ思考が浮いてくる。

 

「さっさと寝れば良かった・・・」


 悔やんだ所でもう遅い。妙に冴えた脳内に、羊の姿は既に無い。

 仕方が無いので仕事を続けよう、と書類に目を落としたものの、一度散漫になった意識は、なかなか集中モードに入ってくれない。


 結果、効率が悪いと知りつつも、だらだらと仕事を続ける羽目になる。


(明日、もう一度チェックしないと駄目なやつだな、これ)


 その段階で、半ば仕事に集中することに、諦めが入り交じり始める。

 酒を飲んで無理矢理意識を飛ばすという荒業も、選択肢としては有りといえば有りなのだが。ほんの一年とちょっと前まで、モラトリアム期間を満喫していた身としては、飲酒には抵抗感を覚える。


(脳が破壊されそうだしなあ)


 そのように、飲酒のリスクに始まり、この世界の、健康を害しそうな枯れ葉をいぶす嗜好品、はたまた歯茎を傷つけそうな歯ブラシ代わりの木の枝など、取り留めの無い方向に思考は流され、いつしか、方々に散らばったクラスメート達の近況に思いを馳せて。ついつい書類を持つ手が止まる。


(あいつら、いったいどうしてるかなあ)


 頭に浮かぶ面々の姿が、未だに学生服のまま思い出され、その違和感たっぷりの光景に思わずぷっと噴き出す。

 みんなもうあの頃とは全然違うというのに。思い出すのがそれなのは、きっと、未練だろう。


 思い出は美化される物。そう頭では理解していても。現状を思えば、やはりあの日々はキラキラと眩しい、輝いていたものだったと言いたくなる。

 鏡を見るまでもなく、濃い隈の浮いているであろう、自身の顔に手を遣り、今度は自嘲気味に小さく笑う。


 返ってこない日々は、癒しにも棘のようにも感じられて、堪らなく情緒的な部分を刺激され。

 これも案外、今の仕事中毒な生活というそれは、そうしたものから目を逸らす為の方便に過ぎないのかもしれない。


(考えすぎかな?)


 つい感傷的な、ネガティブな方へと意識が引っ張られる。疲れてるのもあってか、考える事が卑屈になっていくのは自覚しているが悪い癖だ。

 間違いなく、今この時に自らが取り組んでいる事には意義が有り、ここで暮らしていく上で絶対に必要なものである。


 今自分が倒れることがあれば、困る人間が大勢いる。

 筈だ。


 必要経費だの、補助金だか助成金だかも、決算だって書類無くしては始まらない。ここが異世界だろうが何処だろうが、何らかの組織にくみする以上は書類から逃げられやしない。血反吐ちへど吐き、咽び泣くほどに世知辛い話だが、そういうものである。


 情報を求め国外に出ている級友達も、国に残り、生活や技術習得の為に街で暮らす級友達も、そのすべては、この一枚の書類に懸かっていると言っても過言じゃないのだ。

 まあ、その内の何人かはそんなこと全く意にも介してなさそうだが。

 

 世界を見たい、とだけ言い残し、たった一人火の玉みたいに飛び出して行った奴の顔が頭に浮かぶ。

 何処でどんな生活をしてるやら、厳命しておいた定時連絡だけは届くので、少なくとも死んではいないようだが。


 国外組はといえば、一人を除いて四人一組の編成で、それぞれ引率役の一人を加えて五人で行動させている。男のみが二組、女のみが一組と。男女混成にしなかったのは問題解決におけるプロセスが性差によって異なるという点を留意した上での結論であり。私情ではない。

 今のところ、彼ら彼女らの旅行きも順調なようで、誰一人欠ける事もなく無事に情報収集の任に当たっているそうだ。


 国内組に関しては、何かを求めるのはまだまだ時期尚早だろう。日々の暮らしと仕事に慣れるだけでも半年という期間は短すぎる。

 元々は、外遊向きとは、性格的にも能力的にも言えない級友達のために、偉い人の厚意で斡旋してもらった出向先だ、修行先とも言うが。金銭的な援助も含めて、こちらの方が書類仕事のメインと言えた。


 近縁三十二名、その全てを賄う為の費用は、それだけでもかなりの額に上る。

 当然、それだけのお金が空から降ってくる訳ではないので、こうしてちまちまと書類と睨めっこする役が要る。それが自身も含めた、居残り組だ。


 それぞれ、全員が全員、書類仕事をメインにしてる訳じゃなければ。やる事の比重はかなり異なっており、ここまで書類仕事をメインに据えているのは、唯一人だけだ。

 向いていると思われて押し付けられた、という正味な実態に。悲しい事に実際まったくその通りだったりしてしまう。

 

 真面目だけが取り柄の眼鏡を掛けた元学級委員長が、わざわざ異世界まで来てからに、真面目なだけが取り柄の金庫番にしかなれないのだから、どうにも夢の無い話だ。

 別に魔王がどうだの、お姫様がこうだのとは言わないが、せめてもう少し慈悲が欲しい。このまま仕事に忙殺されたまま、ファンタジーな世界観に一切触れられずに年老いていくのは、魔王なんぞよりもかよっぽど恐ろしい。

 

 ストレスで禿げ上がり、尚且つ、運動不足ででっぷりと太りきった中年男性の姿が脳裏に浮かび。同じく浮かんできた、この机で震える手で書類を捲りつづける老年男性の姿が。余りにもリアル過ぎるその自身の未来予想図に思わず顔を覆う。

 

(いやいや、そうは為らんよ。うちの家系は肥満と無縁な、なにより誰も禿げちゃない。第一、今からでも運動すればだ、ストレスも溜めないようにすれば・・・。そうだ、それぐらいなら、いつでも出来る)

 

 こびり付きそうになる、その姿を無理矢理引っぺがしゴミ箱に叩き込むと、即座に別の思考に意識を移す。

 途端、ある顔が頭に浮かぶ。


(ああぁ・・・!)


 思わず顔を覆ったまま机に突っ伏す。

 ごんと、机と額が接触し、脳に痛みが走るが、しかしそんな事よりよっぽど頭の痛い事実が思い出されて。心の中で悶絶する。


 その事を、あえて考えないようにしていたのは正直否定できない。だが、飽く迄、飽く迄もだ、その顔の持ち主のことを思えばこそ、最善と思える判断を下しただけなのだ。

 友の一人が、この世界に来てから苦しんでいた事も、塞ぎ込みがちになっていた事も、知っていたからこそ、良い気晴らしになればと思い、提案を呑んだのだ。


(いや、まさか、定時連絡が途絶えるとは・・・。でも、だ。いや、でもだって、これって俺の落ち度か?)


 ほんの数日ほどの距離に、それも比較的治安は良いはずの、国内での移動中に行方不明になるなんて考えもしなかった。ちょっとした小旅行だと思っていた。

 それでもこうして連絡が途絶えてしまい、人材不足で捜索班も出せていない状況なのでは、甘かったと言われても仕方が無いのかもしれない。きっと油断も有った。


(あぁ・・・、あいつ絶対怒るよな。怒る?駄目だ、どんな反応するか想像もつかん。最悪、最悪?殺され・・・)


 頭の中に、昔馴染みの少女の姿が一人浮かび、その優れた容姿とは裏腹の、癖の強い人格を思えば、楽観的な未来が訪れてくれる気が一切しなかった。

 だが、だからといって、まさか伝えないという訳にもいくまい。喩え何が待っていようともだ。友一人、まだ存命の可能性は十分に残っているのだから、この段階で諦める事だけは、友じゃなくとも有り得ない。


 可及的速かきゅうてきすみやかに彼女達を呼び戻し。居なくなった、その周辺の捜索の任に当たってもらう。その責任の所在に就いては。責任追及の場なら、その後、いくらでも時間は取る。

 取るのだが。


(おお、神よ!これはいったいなんの試練なのでしょうか!この身はこの通り日々を謹厳実直に励み清廉潔白に日々を暮らしております!まこと斯様かような試練など身に覚えのない酷な仕打ちにございましょう!しかるに、どうかどうか命だけは・・・)


 見えない神様に向かって、必死で手を合わせる。

 無駄と分かっていようが、神頼みに縋りたくなる。どうしてか、この世界に来てからは、色々と抱え込むようになってからは、特に信心深いという訳でもないのに、こうして神頼みばかりしている気がする。


 今までは、内心宗教に嵌る奴を憐れんで見ていたのに、いざ自分が不安定な立場に立たされると、その上で責任を負わされてしまえば、キリキリ痛む胃と共にそうなっても仕方ないなと、思えてくる。

 この、さして広くもない部屋の中で日々を浪費し、たまに届く連絡以外の、一切の変化に乏しい環境に居ると。時々、いま自分は何をやっているんだろうか、とか、これってほんとに今やらなきゃいけない事なのだろうか、といった疑念がぐるぐると頭の中を飛び回って、なかなか消えてくれないのだ。


 本当にこれで目的地に近づけているのか、と。それを、日々を雑多な処理に費やしている身には全く実感出来ないでいるのだ。

 たまに会う元クラスメート達の、こんな仕事が出来るようになった、あの国のあれは本当に凄かった、こっちは大丈夫だ心配するな、といった話を聞くたびに、取り残されていくような、寂しさや不安が心の奥底に積み重なっていくのを感じていた。


 本当に彼らは会うたびに変わっていく。確かな経験に裏打ちされていく自信に、自信に裏打ちされていく技能。そんな彼らの瞳には、一体こちらはどんな風に映っていたのだろう、それを考えると体から力が抜けた。

 漫然と停滞している。

 

 だからだ、同じような、いやもっとしんどい境遇にあった親友が、自ら行動を起こしたことには純粋に驚いたし、自分の事のように嬉しかった。

 その目からは、溢れんばかりのやる気こそ感じなかったものの、静かな決意だけははっきりとこちらにも伝わってきた。だからこそ信じて送り出したのだ。


 出発前日には、気を遣うな、と遠慮していたところを無理矢理飯を奢り。見送りはいい、と言うその気持ちを酌んで、「頑張れよ」、と一言、心から激励して送り出したのだ。

 最後までお互いに笑顔で。そして、その結末がといえば。


(あぁ、どうしてこんな事に、神様・・・)


 机の上で頭を抱えて、今日一番の溜め息を、はあーと盛大に吐き出す。

 起こった事は仕方がないというしゃく、これから何をするかが肝心だとはいえ気の重い。ポジティブも、頭の中に浮かんでくることは浮かんでくるのだが、それに素直に頷けるほど無責任には為れそうもなかった。なにより、そんなで片付けられるほど、友の命は軽くない。


 彼女達の到着を待つ事以外、此方から、出来る事は何も無かったが。無力感に苛まれつつも日々の業務をこなす事しか出来なかった。


(情けない・・・)


 この夜、何度目になるか分からない、自己嫌悪に懊悩おうのうしていると。ふと部屋が明るくなったように感じて周囲を見渡した。

 蝶番の緩んだ建て付けの悪い窓扉の隙間から、うっすらと光が差し込んできていた。


「もう朝か・・・」


 立ち上がると、ボキと鳴った体を伸ばして、窓の所までいく。両開きの木製の扉を開け放てば、白みはじめた空からはまだ弱々しい光と、そこに朝の冷涼な空気が部屋に流れ込む。

 また一日が始まる。結局、仕事は進まず連絡も来なかった。これで消息を絶ってから丸二日、待つのも限界だった。


 ふわあ、と欠伸が漏れる。どうやら何処かに行っていた眠気が帰ってきたようで、さっきから頭の中で羊がひしめき合っている。

 彼女達への緊急の帰還命令だけは、寝る前にしておかなければいけないなと、眠い頭で考えつつも、仮眠を取るために部屋を後にしようとしたところ。


 ほんとうに、こちらの都合になど一切お構いなく、時間は無常にも流れていってしまう。

 つい忘れがちになるそのことも、こうして事有る毎に、思い知らされる。


 流れていくだけましなのかもしれない。時間など、死んでしまえばそれすら無い。

 振り返り、近くの窓から外を見た。きっとこの同じ空の下、ここより遠くに居るであろう友の無事を、心から願わずにはいられない。


(なにより、生きてればこそだぞ)


 心より、祈念して。

 そうして、ふわあともう一度でかい欠伸を溢すと、いい加減、頭の中の羊達がけたたましくいななき始めてしまい。これには堪らんと急いで寝床に向かう。


 朝の空気を背後に残して。

 そうして空っぽになった部屋の中、書きかけの書類だけが、いつまでもひらひらと風に揺れていた。

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