4章 地の章

 さっきから背中に当たる石の一つが、妙に気になる。

 決して痛いわけじゃないのに、他の平らな石と違い、一つだけ飛び出たそれが絶妙に背中のつぼを刺激してきて、眠りを邪魔される。


 何度か寝返りしてみたものの、気付けばその石に、背中の同じ箇所を執拗に責め立てられる。

 何とか出来ないかと、目を瞑ったまま思考すること数分。


 慌ててガバリと身を起こす。

 そしてその勢いのまま首を振り周囲の状況に目を遣ると、既に明るかった筈の空は夜のとばりを下ろそうと光量を絞り始めていた。顔に当たる日差しはかなり弱弱しいものとなり。


 何時の間に居眠ったのか、どれだけの時間が経ったのかは分からないが、


「やっば・・・」


 血の気が引くくらいには拙い状況だ。

 なにせこちとら着の身着のまま明かりのたぐいは一切無し。このまま夜を迎えればまともに身動きが取れなくなるのは目に見えている。

 それに何より、貴重な時間を無駄にした感が半端じゃない。本当なら、周辺の探索や、使えそうな物、食べられそうな物等々とうとうの確保など、やれる事は山ほどあった筈なのにだ。


 後悔と自責の念に苛まれる、自己嫌悪の悪循環に陥りかけるが。ここで頭を抱えてうんうん唸っていたところで問題は解決しないし。なにより、これ以上時間を無駄にも出来なかった。

 まず、起床したのだから。気持ちの切り替えを図るためにも、取り敢えずは湖の水でばしゃばしゃと顔を洗う。


 濡れそぼった顔と手を拭く物が無い。顔を洗った後に、そんな当たり前の事に気が付いては。仕方なく服で拭っていると、宵闇に沈みゆく湖の姿が目に入る。

 あれほど美しかった湖も、この時間帯は物寂しく映る。やがて夜が来れば漆黒に塗り潰されて、その姿を拝む事も出来なくなるだろう。


 ひゅーと冷たい風が濡れた手と顔に当たり、思わずぶるりと背筋を震わせる。

 昼間と打って変わって風は冷たい、これから夜になればさらに寒さは厳しいものへと変わっていく。そうなる前に、どうにか夜を凌げる場所だけでも確保しなければならない。


 当座の目標はそんなところか。時間との勝負だった、そう思い、何の当ても無く動き出そうとしたところ。

 その刹那、頭を叩かれる。


 決して強くはなかったが、不意を衝かれた所為で、危うく湖にダイブしそうになる。


 何とか筋肉痛でよろけた足腰で踏ん張ると、抗議の意味を込めて後方を睨むも。

 そこには涼しげな顔が一つあり。睨まれた当人は、「何かありましたか?」、とでも言わんばかりにそ知らぬ風を装った。

 

 その姿に、いっそ抗議の声を上げようか。とも思いはすれど、結果的に無視し続けたのはこちらなのだ。

 ぐっとこらえる。

 

 本当に、何でだか知らないが、直ぐに頭から抜け落ちる。

 流石に、存在を忘れたとか視界に入っていないという訳じゃないが。何と言うか、余りに自然に過ぎた。この場に居ることが飽く迄自然で、傍に居ることが何処までも自然。空気のように水のように、ここに存在することに無理が一切無く。ともすれば全く気にならなくなる。


 両手を使って、その澄ました顔をちょっと乱暴に撫で回してみせる。

 すると再び頭を叩かれる、後頭部をさすりながら振り返ると、中空に浮かせた尻尾の先が目の前に在り、ゆらゆらと揺らす。


 こいつが犯人かと掴もうとするが、するすると手の平を掻い潜り触れる事すら出来ない。蔑んだ目で見られる。

 一度、二度と。そのうちに、さすがに不毛過ぎると思い諦めるも。そうこうしている内に周囲はかなり暗くなっており、活動可能な時間は殆ど残されていないといった。

 

 その事に焦る気持ちと裏腹に、もう一晩ぐらいならこいつに頼み込めばいけるんじゃね、という他人任せの温い考えも頭の片隅に浮かび掛けたが。その余りのダメ人間的な発想に自分で自分に辟易しつつ。

 しかしだからといって、その案が魅力的な事も否定し難い事実だった。その身体を抱き枕にすれば暖を取れて夜を越せるし、朝になればまた、魚を取ってきて焼いてもらえば飢える事もない。


(立派なヒモだねえ・・・)


 人間としての尊厳とはなにか、背に腹はかえられないだろ、という二つの思いが激しく脳内で交錯する中、くだんの頼りにしているオトモダチは、何故かするすると森の方に移動してゆく。

 その意図がなんなのか、考えるより先に、置いて行かれては堪らないとばかし、迷い無くその背中を追いかける。


 カルガモの雛みたいじゃね、と。酷く情けない気持ちが込み上げてくるが、どう繕ったところで自分が役立たずだという現実は変えようがない話

 自分の身も守れなきゃ、食料の確保も侭ならない、知識も無ければ、ネガティブなだけと。駄目な点を挙げていけば限がない。


 誰かに頼る事が、現状、生きる事なのだと思う。躊躇うべきじゃないとも思い。諸々の反省や後悔は、生き残ってからだとも思う。

 そんな事より今は、兎にとにかく足を動かすしかない。

 そんな事を考えながら着いて行くと、先を行くその立派で長々しい背中が、青く輝く道のようにも見えた。


 果たしてこの先には何が在るのだろうか、次はどんな景色に、何に出会えるのだろうか。心配や不安も当然有ったが、少しだけワクワクした気持ちもそこには有り。

 そう思ったのも束の間、その背中は、森を入って僅か10メートル程の所でピタリと止まり、動かなくなる。


 何かと思いその視線を辿れば、それは。

 薄暗く鬱蒼とした木々の中に、沈み込む様にひっそりと佇みそれは在った。

 森の中に分け入ることで初めて気付く事が出来る、登り坂の先には、一軒のログハウス調の建物が在った。


 一瞬、頭が真っ白になり。次の瞬間には「助かった・・・」という思考が頭の中を埋め尽くす。

 はあ~と、安堵感から膝に手を着き、一度大きく溜め息を吐き出した。少し急ぎ足で、止まったままのその背中を追い越して、助けを求める為にその家に近付こうとする。


 近付きながらも、頭の中では楽観的な想像が膨らんでいく。具体的に助けを求めるイメージから、窮極きゅうきょくには泣き落とし、まで始まりそうな勢いだったが。その建物との距離が縮まり全体像が見えてくるに従って、それらは急速に萎んでいった、目の前に達した時には、すぽんと耳の穴から抜け落ちた気がした。


 随分荒れ果てて見える。丈の長い下草や低木が無造作に生え、入り口までの道は見当たらないし、建物自体もどれだけ手入れされていないのか痛みが激しい、壊れた箇所もちらほら見受けられる。

 日中でも気付けなかった理由はこれかと。カモフラージュの役目を果たしているかのような屋根の上に積もった落ち葉が、年季の入った分厚い層を形成して見えた。


 悲しいことにこの段階で人が住んでる可能性はついえた。その上、窓にあたる部分には外側から板が打ち付けられ。入り口の木の扉には、大きな金属製の錠前が付けられている。これでは一夜の宿にもなりそうにない。


 はあ~と、失望感から大きな溜め息を吐き出していた。それでも、せめてどこか軒先でも借りられたなら、と。それなら、最低限風雨を凌ぐ事は出来そうだと思い直し、丁度いい寝床を求めて建物に向かう。

 どれだけ長時間放置されていたのだろう、何時から人の手が入っていないのか分からない庭をガサガサと下草と低木を掻き分けつつ進む。


 程なく、入り口の扉の前に着き、近くからその建物を事細かに観察してはみたものの。

 近くから見て改めて思うが、随分立派な建物だとは思う。初めて目にした時にも感じたが、こんな辺鄙な場所に在るにしては、思いの外しっかりとした作りをしている。


 加工した石の基礎に丸太を組む、王道の丸太組みで作られた壁は見た目通りに頑丈な様で。少しだけ高い場所にある、入り口の扉に上がる為に設置された簡易な木製の踏み台に比べると、痛みの程度は軽いようだ。

 というか、木製の踏み台に関しては既に朽ち果てていて、足を乗せた途端脆くも崩れ落ちてしまった。


 屋根も厳つい。軒が深くシンプルな構造の切妻屋根は、ここからでは暗くてよく分からないが重量のある、薄く加工された石材か、陶製の板が敷き詰められている様子で。ざっと見た感じ、経年による大きな破損の痕跡は見られないという丈夫な。


(まあ、中がどうなってるかまでは分からないけどね・・・)

 

 案外、水漏れが酷いという事もある、中は腐り放題カビ放題という事もあり得るが。それを見る機会は、扉に付けられた金属製の錠前が朽ち果てでもしない限りは訪れないだろう。

 早々に諦めざるを得ず、今度は建物の裏側に向かう。


 裏側も、表と同じ様に鬱蒼としているが、そこには朽ちかけた木造のテラスが在った。

 同じように風雨に晒されて、ボロボロになった椅子とテーブルが在るのが見える。その寂しげなこと、つい在りし日の情景が心に浮かび、思いを馳せ掛けたが、直ぐにそんな物よりまだ使える、役立ちそうな物が目に入り、そちらに関心が移る。


 視線の先に在った物は、ログハウスの壁際に大量に積まれた木材、薪だった。

 表側より、さらに深く作られた軒の下で雨露あめつゆを凌ぎ、それらは使われる日が来る事をずっと待ち続けていたのだろう。遠目に見た限りではあったが、よく乾燥していて燃料として申し分ない状態に見えた。

 

 心惹かれる。が、しかし、それらを確保する為にはテラスに上がらなければならない。その判断が良い選択でないのは、さっきの木製の踏み台の惨状を思えば明らかだった。明かりとしても熱源としても直ぐにでも使えそうなだけに、恨めしさが募る。

 その他には何も無かった。念入りに、さらに範囲を広げて周辺を探索してはみたものの、目ぼしい物も落ち着けそうな場所も発見できずに、肩を落とす。


 予想通りといえば予想通りなので、その事にそれほど失望は感じていないはずなのに。けれど、現在進行形で、刻一刻と暗さを増していくこの状況下に在っては、流石に焦りと不安が頭をもたげてきた。

 あと幾許いくばくもしない内に森は闇に沈み、自分の足元さえ覚束おぼつかなくなる。そうすればもう動く事すらままならない。


 これ以上此処にとどまっていてもしょうがなかった、無駄足だったがしょうがない。一旦表側に引き返そうと、きびすを返した直後、ヴィチィッッッ!!と、何かを強引に引き千切る様な音が周囲に響き渡る、何事かと急いで音のした方へ向かうと、扉の所に、すっかりお馴染みになった巨大な蛇のシルエットを見る。


 それを見れば、誰が、の部分はおおよそ見当が付いた、が、何をしたのかまではさっぱり見当が付かない。

 一見した限りではこれといった大きな変化は感じなかったけれど。扉付近に達したところでこつんと何かが爪先に当たり、ふと何気なく足元に視線を落とせば、そこには金属製の錠前の、下半分だけが転がって。


 よくよく見るまでもなく、扉に付いている金属製の錠前は上半分だけしか残っていなかった。

 それを視認して刹那に、誰が何をしたのか自然と腑に落ちる、さっきの音の原因はこれだったのかと、すんなり受け止められたのが、奇妙といえば奇妙も。


 今更だ。この目の前の存在はきっととんでもなく凄い力をなにかしら持っているのだろう。それに一々驚いてどうなるというのだ。どうせちょっと前に魚を燃やした時のように、錠前にも何かしらしたのだろうし。

 そう思い、ひょいと足元の錠前を拾い上げ、しげしげ眺め遣れば。


 一体どれほどの力が加わったのか、ひしゃげているというかは捻じ切れているような。とにかく尋常な壊れ方じゃない、こうして触っていても熱くもなければ、これを焼き切ったという訳でもなさそうだ。


(《神施》って確か一人ひとつじゃなかったっけか?)


 いつか、誰かからそんな事を聞いた覚えがあったが、その記憶自体があやふやなだけに今一つ確信が持てない。


(まあ、今はどうでもいいか)


 聞き間違いだったのかもしれない、何より、今は他に考えるべき事が山積みだった。

 優先順位の低い、その思考を打ち切ると、錠前の残骸をぺいっと脇に放る。


 横を見れば、相変わらずの無機質な目があったが、どことなく得意げに見えるのは気のせいだろうか。態々わざわざこちらに顔を向ける事もせずに、手が掛かるとでも言わんばかりな。

 しかし兎も角、これで建物に入る事ができた。上半分が残っていれば開かないという事態でもなければだが。

  

 そう思い、それならと試しにそれに触れてみたところ、拍子抜けするほど呆気なく崩れ落ち、足元でがしゃんと音を立てた。

 これで、進入を阻むものは何も無くなってしまう。どう考えても器物破損であり、不法侵入だよ、といった言葉が脳裏を駆け巡る中、ごくりと唾を飲み込み、意を決して。

 握ったドアハンドルを引き開けた。


 錆び付いてるという事はなく、拍子抜けするほど簡単に開く。が、中はといえば。

 けれども、当然と言えば当然、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、視界の中には闇しかなかった。

 正直外よりも暗い。漆黒と言っていい闇が、完全に室内を満たしている。

 

(そーいや、窓は塞がれてるんだっけ)


 窓に当たる部分に木の板が満遍なく打ち付けられていたのだから、そりゃそうだとしか。

 しかしだ、どの道このままでは、外が真っ暗になるのも時間の問題なのであり。しかしだ、どうしてもこの四角い闇の中に踏み込むのは、未知の動物の腹の中に入るようでまったく気が進まないという。


 入り口の付近でそうして二の足を踏むも。痺れを切らしたのか、するすると股の下を巨体がすり抜けて、そのまま闇の中に吸い込まれていった。

 それを追いかけようと一歩足を闇の中へ、踏み出したものの、入る勇気が湧くまで暫し、ようやくの二歩目はそれから暫らくして。


 思った通りに中は真っ暗だった。目の前に手の平をかざしてもまったく見えないほどの。

 慎重に手探りで歩を進めるものの、物にぶつからないよう半ば四つん這い、足元すら覚束ない状況に在っては、産まれたての小鹿の様に、よろよろと足を運ぶ他ない。


 この暗闘は数分に及んだ。すねをしこたま打ち付けるは、ひじの痺れる部分を打つはで。しゃがみ込んで痛みに耐えること数分、流石に萎えてきた。

 そのままその場で腰を降ろし、これで十分だと。諦めた。


 この場所で朝が来るのを待とう、という消極的な合意だった。

 少なくともここは建物の中なのである。寒風も冷たい雨も心配する必要がなければ。唯、こうして抱えた膝に額を着けて、目を瞑って朝が来るのを待てばいい。

 

 弱気の蟲が騒ぎ出す。気持ちがちょっと後ろ向きになる。

 暗闇の圧迫感と孤独に、それが全方位なのだから、どうにも堪える。折角のオトモダチの存在も、これではもう独りだ、このまま朝までずっとこうなのか。それなら、長い夜だ。


 ちょっと泣きが入る。そうして、前方でぼうっと明かりが灯る。

 視線がそれに吸い寄せられて。呆然と眺めている内に、ちっちゃなマッチの先ほどだったその明かりは瞬く間に広がって、いつしか燃え盛る炎となって、室内をぼんやりと照らす。


 空間の広さというやつは、暗闇の中ではまともに認識できないようだ。明かりに照らし出されたその室内は、思ったよりもコンパクトな造りをしている。

 丸太の壁に区切られて幾つか部屋がある。ここは一番大きく広い部屋のようだ、古ぼけた数人掛けのソファーがあり、その前の脛を強打するぐらいの低い位置に大きめのローテーブルがあり。そして、煌々こうこうと炎を湛えた暖炉の姿がそこに在る。炉口から、炎が揺らぎ、爆ぜて火の粉が飛んだのが瞳に映る。壁際にも何かありそうだったが、暖炉の明かりの光量では、詳しくは判別出来そうにない。


 ここはリビングとして使われていたのだろう。時が止まり、埃が積もったそれらは、前の住人が残していった物に違いないと想い。

 それにしても、十数畳ほどの広さの部屋で迷子になり掛けていたとは、傍から見ればさぞ滑稽な有り様に映ったことだろう。


 気のせいか、こちらを見る目に小馬鹿にしたような、呆れたあざけったような感情が見て取れる。

 あれは間違いなく夜目が利く。その宝石のような瞳で、醜態を余すところなくつぶさに観察していたに違いない。一部始終を見られていたのだから、その態度もまあ分からないでもないけれど。

 でも、

 

「仕方ないじゃないか。暗かったんだし・・・」


 名誉と尊厳の為に自己弁護を小声で図る。それにしても、思い返すまでもなくここまで、食料の件といい水の件といい、そのうえ、寝床にまで案内されて、さらに明かりまで用意してもらえる至れり尽くせり。


(な~んももしてないな、俺・・・)


 どんな目を向けられたとしても、それこそ、悲しいかな言い訳のしようもない。

 むしろ、恩しかない。それも大恩だ。もし一人なら、もし今でも一人で森の中を彷徨さまよっていたのだとしたら、今頃、水の確保も出来ずに、空腹のお腹を抱えたままで、真っ暗な藪の中を手探りで過ごしていたのだろう。

 その不安と恐怖は想像にかたくない。


 思わずぞくっと背筋に震えが走る、それを振り払うように暖炉の前に急ぐ。

 赤々と暖炉の中では炎が踊り、パチパチと薪が小さく爆ぜる音が耳に届く。その暖炉の前に、埃も気にせずどかと座り込むと両手を炎に翳して暖を取る。


 冷え切っていたと、その時になってようやく気付く。こうして全身に熱を浴びていると、強張っていた心と体が少しづつ緩んでいくのがよく分かる。

 そのまま炎を見つめていると、しゅるしゅると傍らから音がする。何だと見れば、そこには、長々しい胴体をとぐろ状に収めて鎮座しようとする姿が。こちらの膝に触れそうな距離だった。


 頭を膝の付近の自分の体の上に載せると、目を閉じて同じように炎の熱を浴びた。

 なんとはなしに、その頭の上に右手を置いて、撫でるように鱗を擦ってみたはいいものの、これといった反応は返ってこない。


 何か意図があった訳でもなければ、そのまま無意識に撫で続けながらも。頭の中では、どうしてこいつはここまでしてくれるのか、との疑問が次々に。なにが目的なのか、見返りなのか、との問いが次々に浮かびはしたものの、答えはおなじく闇の中。

 知ったところで恩は恩、なのだが。世話になりっぱなしで申し訳ないとは思いつつ、一方では妙に居心地が好いのだから、なんだか懐かしい。

  

 迷惑を掛けたり、さらに掛けたりした友人達との思い出が甦り、知らずふふっと笑いを漏らす。

 こうして焚き火を眺めながら考え事をしていると、間断なく何かしら浮かんでは消えていく、意味の有るもの無いものも、過去も未来も関係なしに広がっていき、いつしか無心で。それに近い心境となり、唯じっと時が経つのも忘れて、火の揺らぎを見つめることしか出来なくなる。


 ・・・果たしてどれだけ時間が経ったのだろうか、一際大きく、パチッと薪が爆ぜた音でハッと意識が戻る。

 気付けば、勢いよく燃えていたはずの炎は小さくなり、体に当たる熱量もだいぶ大人しいものへと変わっていた。


 周囲を見回し、壁際に積まれた薪の束を、重い腰を上げてそこから一束下ろし、その中の数本を暖炉にくべた。

 直ぐには炎は勢いを取り戻さない、燃え移り少しづつ、顔を赤く染める。それだけの事が不思議と嬉しい。


 闇に本能的な恐怖や不安を覚えるのと同様に、炎には、人の心に働きかけ安定をもたらす何かがあるのだろう。

 正直、室内は埃っぽい、扉を開けっ放しにしても換気は不十分でかなり煙たく。だというのに、この場から離れる気にはならない。それらのデメリットを補って余りある何かがここにはあった。


 再び意識の海に沈みかけた、視界の端のソファーの背に布のような物が掛けられているのを見付けてもだ。

 無意識に、再び重い腰を上げその布を手に取ると、それは起毛した厚手の毛布のような物だった。


 それを、その場で勢いよく広げる、すると埃が舞い上がり顔面を直撃する。その場で、盛大にせる羽目になったのは言うまでもない。

 このままでは使えやしない、とは涙目で思い。一旦外に出ては、念入りに埃を払う。完璧に、とはとても言えなかったが、大分マシか、ぐらいには言えるようになった毛布を腕に抱え、室内に戻ろうとしたところ。


「おお~っ」


 とうの昔に闇に沈み、静寂に満たされた外の世界のその夜の空、光のカーテンが乱舞しているのが目に映る。

 赤や緑や青や紫、白やピンクやと。絶えず色と形を変化させつつ、元の世界のオーロラに似た巨大な光の帯は、一面の夜空を華やかに彩っていた。


 太陽が無い所為か、この世界では夜になるとこうしてオーロラに似た万色の光の帯が現われる。

 それが、明るくなるまで空に留まり続ける。


 この世界に来て、初めて目の当たりにした時にはずいぶん感動させられたものだ。


「相変わらず凄えなあ。むしろいつもよりも凄い」


 最初こそ、この神秘的で美しい現象に、心を奪われて、興味を強く惹かれもしたが。しかしそれもこれも多忙な日常の中で次第に薄れていき。こうして夜空を眺める機会もめっきり減っていた。

 純粋に初めて見た時のように、今この時、凄いと感動することに。

 そんな自分に驚く。

 

 いつからか日常の中に埋没し、気にも留めなくなったそれを、非日常的な状況とはいえ、美しいと思うとは新鮮だった。

 じっくり見たいと思い、開けた湖畔へ足が向く。心のままに足が向くとは、不思議だった。


 此処の夜は明るい。澄んだ空気に、巨大な光の帯が夜を照らす。森の中ならいざ知らず、こんな夜道なら街灯が無くても、湖畔は明るい。

 視界が開け、その全景が拝めるようになれば、愈々いよいよ満天の極光。けれども、上空にばかり関心を向けていては眼下がおろそかだった、それに気付かない。

 最初、足元にも広がるもう一つの光景に気付けなかった。


「おおぉ~!」


 互いに競い合うように、手と手を取り合うように、踊っているのか、遊んでいるのか、光が渦巻くように天空と大地とで競演し、目に映る漆黒の世界を鮮やかに切り裂いていく。

 どうやら湖面が水鏡となり、上空の光の帯を大地にも投影しているようだ。なにも、少しも難しい原理じゃない、そんなことはこの場に立てば誰でも分かる。


 だが、そんな単純な原理さえこのとき頭には浮かばない。気付いたのは随分後になってからのことだ。

 その時はただ、目の前で繰り広げられる一大スペクタクルに、頭の中は、興奮と賞賛とで埋め尽くされていた。


 世界は美しいものに満たされている。いつか聞いたことのあるそんなフレーズが脳内に浮かび、「確かに」、と声に出さず心の中で賛同する。

 吐く息が白い。夜になり気温はぐっと下がり、冷たく澄んだ空気が肺に流れ込む。折角暖炉の炎で暖めた体から、少しづつ熱が逃げていくのが分かるが、どうにも目が離せない。

 

 その場に腰を降ろし、抱えた毛布を広げそれに包まる。気休めかもしれないが、それだけでも少しは違って感じた。

 せめて体が冷え切るまでは此処にいよう。それまで暖炉の火が持つかどうかだけ気懸かりだったが、消えていたら土下座でもして着火してくださいと頼み込もう。


 そんな事を上の空で考えていると、隣で動く気配を感じ、ちらと横目で見れば、既にお馴染みとなった姿がそこにある。相変わらずの神出鬼没ぶりだ。

 向こうもちらとこちらを見た後、夜を舞台にした、そこで繰り広げられる光の競演へと視線を移す。


 驚くでもなく、取り敢えず、包まっていた毛布の一端をその身体に掛けてやる。

 特に寒そうにしている様子は無いけれど。体のほとんどの部分がはみ出している訳なのだから意味が無い行為であることは明白なのだが。一人で毛布を独占しているのは酷く恩知らずな行為に思えた。こちらの体も殆んどはみ出し、防寒の役目を果たさなくなることも承知の上で、毛布を分け与える。

 多分に意地もあったんだと思う。


 こんな事で、受けた恩に報いたなどとは欠片も思わない。だけど、それ以上に対等な関係で在りたかった、一方的に恩を売られる、迷惑を掛けるだけの存在でありたくなかった。

 これはその意思表示だ。何も持たない人間に過ぎない。何も返せない自分が自分として、友として隣に立つための最低限の意地というやつだ。痩せ我慢と笑わば笑え。


 そんな決意を知ってか知らずか、隣の反応はいつもの通り。何を考えているのかはさっぱり分からなかったが、こうして隣に居てくれる、それこそが何よりも確かな証拠なのだと想いたい。

 物言わぬ友と、感動と興奮を静かに分かち合ってると、信じたかった。


 この土地に迷い込んでから、急転直下だ。なんとも、たった一日のことで、何度感情を揺さぶられたか分からない。

 きっと明日も明後日も明々後日もだ、喜んだり悲しんだり後悔したりと、数え切れないほどに、心を揺さぶられ翻弄されていくのだろう。


 先を思えば複雑な気持ちにもなるが、ちらと隣を見ればそこには頼りになる友がいる。

 一人で孤独にそれらと向き合う訳じゃない。そう考えれば、俄然楽しみにする気持ちも湧いてくる。


 拳を作り、その体に軽く押し当てる。


「よろしくな」


 視界の中ではクライマックスが近いのか、光はより一層激しく踊り狂い、その勢いを増していく。

 いつ終わるとも知れないそれをともに眺めていると。ふと、あいつらにこれを見せたらなんと言うだろう、と懐かしい面々の顔が次々に浮かび、いつか見せてやらなきゃな、と、小さな想いが胸に宿る。


 果たしてその時この、新しく出来た友人を紹介したならば、彼らは一体どんな顔をするだろう。

 そんな機会が訪れる日のことをあれこれ思い描いては、想像の翼を広げていくと、知らず口元には笑みが浮かぶ。


 想像の中の、いつか来るであろうその日、想像するまでもなく、きっととびっきりの笑顔を浮かべて、彼らのことを迎えているに違いなかった。


 極光は絶えずして。

 壮麗に舞う天空と大地のはざま。矮小な存在がちっぽけな思惑をめぐらせつつ、そのちっぽけなまま、夜はゆっくりと更けていく。

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