2章 地の章

 鼻先を何者かにくすぐられる。

 絶妙なタッチで執拗に繰り返されるそれに、最初こそは無視を決め込んで耐えていたが、ついには抗いきれずにへっくしゅと豪快なくしゃみをして起床。


 起こした上半身からバラバラと枯れ葉が落ちる。

 どうやら枯れ葉の山の中で寝こけていたらしい。違和感を感じて顔に手をやると、乾燥した鼻水にでも付いていたのだろう、一枚の枯れ葉がペリッと剥がれ落ちる。


「犯人はお前か・・・」


 拾い上げた枯れ葉を指先でくるくると回しながら、そう一人ごちる。

 なんだか懐かしい夢を見ていた気もするが、くしゃみを豪快にしたせいか綺麗さっぱり跡形もなく消し飛び、どんな夢を見ていたか思い出せそうにない。ただ、


(良い夢だった気がする)


 気分は悪くない。寝起きのコンディションとしては上々だ。

 よっと一声上げ勢いよく立ち上がると、思わぬ痛みによろけて膝に手を着く。


 足が筋肉痛だ。それだけじゃなく体の節々も地味に痛い。気分とは裏腹に、体のコンディションはとても良いとは言えそうにない。

 仕方なく再び枯れ葉の山の上にお尻を落とす。その体勢のまま、暫く両手を使って体の状態をチェックしていくと、幸い動けないほど大きな怪我はしていなかった、と思う。


(走ったもんなぁ、ほんと命懸けだった)


 死ぬ気で走った。死ぬ気で何かをやる、言葉としてはよく聞くそれを、自ら実践してみせたのは、間違いなく生まれて初めての経験だ。その甲斐もあってあの狼っぽい生き物に走り勝てたのだから、この筋肉痛も代償としては破格の安さであると言えるだろう。


 少なくとも今生きてる事は確認できた。次に軽く周囲を見渡す。


 ある意味で確認するまでもない、普通だ、あまりにも普通だ。正直、ここが異世界ではなく元いた世界だと言われても信じるくらいには、普通の森の中だ。目に映る草や木にも違和感は感じない、自分の中のつたない知識では違いさえ分からない。ただ、強いて言うとすれば、冬が近いせいか木の枝についた葉は疎らで、大半は下草を覆うほど落ちて積もっていた。

 そこから振り返ると崖があり、昨日落ちてきた崖だが中々の高さがある。目算だが10メートル以上は確実にあるだろう、堆積した落ち葉がクッションの役目を果たさなければ、死んでいてもおかしくない高さだ。


 頭の上にひらひらと、崖上から風に流された枯れ葉が舞い落ちてくる。暫くそれを、何をするでもなくぼーと事める。


「高っけ」


 口をついて出た呟きは、感嘆か呆れか自分でもよく分からなかった。

 他に、特に目ぼしい物は見当たらない。

 となると、次第に考えることは、観察から自身の今後の身の振り方へと変化していく。


 改めて崖に目を遣る。正直、素人が何も使わず登るのはかなり厳しそうだった。あの高さから落ちて次も無事でいられる保証はない。


(最終手段だな)


 とりあえずはその選択肢を候補から外す。しかし、正直な所他に良い案は思いつかなかった。


 崖の高さも登れるかどうかも、大きな問題であっても問題の根本ではなく。

 結局、今問題となっているのは、自分が何処にいるのか分からない事と、荷物も何も持っていないことだ。


 手ぶらで遭難中。分かりやすく簡単に今の状況を表せば、まあそんな所だろう。

 九死に一生を得たと思ったのも束の間、去ったと思った命の危機は変わらないどころか、今も着実にその存在感を増してきている。


 近付く死の気配を前にして、しかし不思議と恐怖の感情はあまり涌いて来なかった。寝起きであまり頭が回っていないのを差し引いても、随分能天気に過ぎる気もする。

 ふっと昨日の事が頭を過る。決して忘れていたわけじゃないけれど。しかし、あえて考えようとはしなかった事。


 あれからどうなったんだろう。当然、目の届く範囲にその姿は確認できなかった。深く眠りに落ちた自分に興味を失い、あれは立ち去ったのだろうか。それとも崖から落ちた時点で気を失い、単に夢を見ていたのだろうか。


 そんな風に考え込もうとした矢先。唐突に、背後からガサガサと枯れ葉の動く音が聞こえて。

 パッと振り返ると、目が合う。思ったよりも早い再会である。

 枯れ葉の山から1メートルほど首を出し、感情の読めない無機質な瞳でこちらを見つめてくれる。


「おはよう」


 とりあえず挨拶してみる。円満な人間関係を築くにはまずは挨拶からだ。

 反応は無い。


 暫し互いに無言で見つめ合う。相変わらずと言おうか、宵闇迫る薄暗い中で遭遇した昨日よりかは、朝日が差し込む明るい中で改めて見る今日の方が、何割か増しで綺麗に見える。


 キラキラと陽光を浴びて輝き、心なしか居住まいを正したくなるような、厳かで神聖な気配を感じる。

 神獣、聖獣といった言葉がふと頭に浮かぶ。


(ゲームなら味方なんだけどなあ)


 なにはともあれ、神獣であれ聖獣であれ魔獣であれ、呼び名は何であったとしても、目の前の存在に害意が有ればそれでこちらはお仕舞いだ。

 逃げ切れるとは欠片も思わない。戦って勝つというのはもはや空想でも困難。

 事ここに至っては選択肢すらない。

 

 ただまあ、昨日の時点でとっくに命脈が尽きていたと思えば腑には落ちる。なんとも、諦めとも覚悟がついたともいえない、宙ぶらりんな気持ちのまま相手の出方を待つしかなく。


 さやさやと風が耳元を撫でていく。頭上からは木漏れ日が降り注ぎ、冬が近いと言うのに暖かく心地良い。

 こんな状況で不適切な気もするが、この世界に来てから、多分だが、不思議な事にだが、今が一番穏やかで、それに安らいだ心地がする。僅かばかり残っていた緊張感もするすると解れていき、気を抜いたら、落ち葉のベットの上にゴロンと寝転んでしまいそうになる。俎板まないたの鯉に過ぎない身の上で、随分お気楽なことを考えているものだとは、自分でも思うが。


 人間、ここまで来れば、もう怖いものは無いらしい。

 笑いが自然とこぼれる。自暴自棄というよりかは、どこかが麻痺してるようにも、思う。


 しかし、それにしても動かない。相も変わらず彫像のように佇んで、どれだけ待っていてもこちらに視線を飛ばしてくるばかりだ。


 さていい加減どうしたものかと思案する。

 思案してはみたものの、何をどのようにして考えようか。そうして考え始めた矢先のこと、それは、一枚の枯れ葉が風に流されひらひらと落ちてくる。何の気なしにそれを目線で追いかけると、それは眼前の獣の頭の突起にかさっと引っかかる。よく見るとその無数に生えた突起には、他にも何枚かの枯れ葉が引っかかっていた。

 別に枯葉など大したことじゃない。けれど、大したことじゃない筈なのに妙に気になる。そして一度気になるとどうにも落ち着かない。腰を浮かしかけ、そして一瞬逡巡した後、ごくりと生唾を飲み込みゆっくりとその場から立ち上がる。


 正直な話、今からすることが正解だとは思えない、むしろ馬鹿げたことをしようとしているとは、自覚がある。

 さすがに緊張する。さっきまでのお気楽な気分はどこへ往ってしまったのだろう。


 一歩を踏み出す。手を伸ばせば触れられそうな距離だ。更にもう一歩踏み出す。近い、目と鼻の先だ。そうして歩みを止める。位置関係的にはこちらが見下ろす形だ。


 こちらの動きにそちらの反応は無い。なんだかこうまで無反応を貫かれると、実は目を開けたまま眠っているんじゃないかとか、単に怠け者で動くのが面倒くさいだけなんじゃないかとか、ついつい邪推してしまう。

 本当に不思議なことに、そんな妄想に花を咲かせられるくらい、恐怖心や重圧といったものを感じていない。むしろ近付く度に負の感情は薄れていき、どこか懐かしいような郷愁の想いが胸を満たしていく。こうして間近で正対していると、なにか昔遊んだ馴染みの友人にでも再会したような、そんな感傷が湧き上がってくる。


 ほぼ無意識に手を伸ばす。頭の突起に触れると滑らかで少しひんやりとしていた。不快な気配は伝わってこない。そのことを当然のように感じる。

 突起に引っかかった枯れ葉を、一枚また一枚と落としていく。全て落とし終えると、


「良し」


 テスト前日に部屋の掃除を完遂できた、テスト当日に回答欄を埋められた、というぐらいの満足感はある。


 そんな風に僅かな達成感を噛み締めていると、ザザッと音の立つ。枯れ葉の山に埋もれていた、長大な躰を引き抜いて全身を顕わにしたそれに今度は見下ろされる。

 今更恐がるのはとても不自然な気がした。物言わぬ、この世界においては自分なんかより遥かに格上のはずの存在を前にして。しかし、どうにも気持ちの置き場所に困る。


 その身体を、ベッドの代わりにこちらに提供してくれていたのだろう、という今更ながらの事実にも困惑する。


(道理で寒くないはずだ)


 思い返してみれば、いくら落ち葉の山に埋もれていたからといって、寒さを感じなかったというのは可怪しい。季節は冬間近、凍死こそしなさそうだが、普通に考えれば風邪ぐらいは引いていてもおかしくはない。

 さっきから感じていた暖かさも、純粋に日差しや気候のお陰という訳でなく、目の前の存在のお陰なのだろう。


「助けてくれたのか?」


 訊いてみる。返事は無い。元々期待していなかったとはいえ、随分とツレナイ態度だとも想う。

 そんな気持ちが通じた訳でもなかろうが、見下ろす位置にあった頭をちょうど目線が合う高さにまで、すっと降ろしてくる。


 その顔にそっと触れる。暖かい。見た目は蛇にそっくりだが、変温性ではないようだ。

 嫌がる素振りがないのをいいことに、遠慮なく撫で回してみる。動物の本能としての危機感のいちじるしく欠落した、頭のおかしな行為だと思うが気にしない。


 見た目通り、鱗の部分はつるつるすべすべだ。その滑らかで硬質な手触りは、過去触れたことのあるどんな物とも違う、上質。

 意外にも突起の部分は少し柔らかい。それに弾力もある。半透明で、鱗に比べ随分と大人しい輝きを宿している。穏やかとでも言うべきか。

 さすがに眼や口には触れない。馴れ馴れし過ぎるし、流石にそれは人間でも嫌だろう。


 一通り観察し終えたところで、満足する。

 色々疑問もあるが、考えなくちゃいけない事もある気がしたが、とりあえず味方が出来た事がありがたい、心強い、それになによりちょっとだけ前向きになれた。


 さすがに絶望に飽き飽きしてくる。この世界に来てからは上手くいかない事ばかりで、いつも背中を丸めて後ろばかり見ていた気がする。そのうちに、前を向けないでいるうちに、みんな自分の生き方を定めて歩き出してしまった。そうして取り残された。

 歩き出すのを、歩き始めるのを待っていてくれた人もいたのに。唯、それを見ない振りして、動かなかった。


 しゃんと背筋を伸ばしてそれと向き合う。この世界に来てから初めて出来た味方、仲間。もしかしたら違うのかもしれない。唯の気紛れで生かされているだけで、なにかの拍子に殺されるかもしれない。

 それならそれでよかった。昨日までの情けない自分のままで死にたくはなかった。


 生きる気力が湧いてくる、沸々と。此処に来る前、生来の自分はもっと生き汚かったはずだ。受験の時だって最後の最後まで諦めなかった。もっと仲間を頼りにして。いや、本当に頼りきりだったはず。あいつらは嫌な顔をしたか。いつも、しゃあねえな、と呆れた声で言って、結局最後の最後まで付き合ってくれる。

 遠い昔という訳でもないのに、今では、思い出すことすらなかった記憶が、後から後から溢れ出す。


 じっと耐える。耐えるしかなかった。正直泣きそうだったけれど、涙として溢すにはあまりに勿体無いもののように思えて、嫌だった。

 耐えていると、グーと腹の虫が騒いだ。どうやら心だけでなく、体も生きるために目覚めたようだ、全身に血液を巡らせ始める。


 既に、諦める気は無かった。憑き物が落ちたようにスッキリした頭と体が生き延びるために動き出す。

 そうして動き出そうとしたところ、眼前の、出来たばかりの友の姿が、すっと機先を制すように動き出し、こちらに背を向け去って行く。


(帰るのか?)


 当然と言えば当然だが、あれ程浮世離れした生き物にも、帰る場所、棲み処がある。


 ちょっとだけ、どんな所に住んでいるのか気にはなった、が、粗末な穴倉に所在なさげに佇んでいる姿が脳裏をよぎり、慌ててその失礼な妄想を頭を振って打ち消した。

 仕方がないこととはいえ、やはり突然の別れは寂しい。


 少しづつ離れていく姿に寂寥せきりょう感が募り。心なしか周囲の気温も下がったように感じられて、ひゅっと首筋を撫でた風の、その冷たさに思わず一度ぶるりと震えて、慌てて襟元を掻き合わせる。

 それだけの事なのに、せっかく燃え上がったはずの決意が、しゅるると危うく萎み掛けてしまうが、頬をぺしぺし叩いてなんとか耐える。


 これで正真正銘一人っきりだった。どんな選択をしても、これからする事はすべて自分の責任で、すべて自分に返って来る。

 その事に、別の意味で震えそうになった。


 去り行く友の後ろ姿は、立ち並ぶ木々の間をするするとすり抜け、何時の間にか視界から消えようとしていた。

 随分と世話になってしまった。束の間の邂逅に過ぎないはずなのに、妙に名残惜しく感じられては、せめて感謝の言葉を伝えようと口を開く。


 「ありがとう」、とまさに口にし掛けたところで、視界の端のその姿がくるりとこちらを向く。そしてそのまま固まる。

 じっと見つめられ。そしてこちらも、口を半開きにした間抜け面のまま見つめ返す。意思疎通出来ない不便さをひしひしと感じるが、同時にその意図にもなんとなく当たりがつく。


「ついて来いってか?」


 確信が持てないまま歩き出し、その姿を追いかける。

 彼我の距離が、半分ほどになったところで、こちらが付いて来るのを確認しては。またするすると木立の間を進んで行く。


 どうやら間違ってはいない様だ。進行速度はこちらに合わせてゆっくりしたものだし、距離が離れたと感じた時はその場で待っていてくれた。

 それでも付いていくのは中々骨が折れる。冬が近く枯れ気味とはいえ下草はまだまだ元気なもので、油断すると足をとられそうになる。倒木や、腰丈の藪といった障害物も厄介だった。


 ひいこらひいこら、ほうほうの体で何とか付いて行くしかない。

 いったい何処に連れて行かれるのだろう、そんなふうに苦労しながらも頭の中はといえば、ついつい余計な事を考えてしまう。


 最善は人里や街道だろうか。ただまあこれはかなり期待薄だろう。さすがにそこまで期待するのは落差がきつい。

 逆に最悪は、行った先が巣で、待ち構えた子ども達の新鮮な餌として提供されるといったところか。悩ましい事にこちらの方がよほど現実味がある話だ。一瞬足が止まりそうになる。


 結局その後も、あれやこれやと考えては勝手な想像を膨らませつつ、内心一喜一憂しつつも、最後まで足を止めることはなかった。

 唐突に視界が開ける。


「おお~!」

 

 そこには湖が広がっていた。端が見えないほど大きなものだ。

 遥か彼方にそびえる真っ白な山脈と、その裾野から広がる木々の緑を背景に、あおい、驚くほど碧く美しい湖が広がり、その湖面に日の光を受けてきらきらと輝かせる。


「すげえ・・・」


 思わず感嘆の声が洩れる。それほど衝撃的な光景だったのだ。色褪せた灰色の世界から、急に色鮮やかな世界に放り込まれたようで、軽く眩暈すら感じる。

 呆けた様に眺めることしか出来ない。自分の中に、目の前に広がったものを評する語彙すら無いことがもどかしい。

 それほどに心を揺さぶられていた。気を抜くとへたり込みそうなほど。


 ふらふらと、まるで夢遊病患者のように湖に近付く。少し勾配がついていた所為せいもあって、思わずよろけて両手を地面に着く。 

 顔を上げると、また違った湖の表情が眼に映り込む。遠目に見たときとの違いは、近くで見た湖のすがたは驚くほど碧く遠くまで澄み渡り、底の石も、沈んだ倒木も、泳ぐ魚さえも鮮明に映す。降り注ぐ日の光が湖底を照らしては、ゆらゆらと光の帯を幾条も底に描き出していく。


「すげえ・・・」


 壊れたロボットの様に同じ言葉を繰り返すしかない、そのまま釘付けになっていた。誇張抜きで時間を忘れていつまでも眺めていたくなる。

 と、そんな風に、動くこともも考えることも放棄したまま夢中になっていると、ぽすっと体に何かが当たる。


 視線を動かすと傍らに、30センチ程の魚がピチピチと跳ねていた。咄嗟にその魚を両手で掴む。掴みながら視線を上げる、そこには、湖の中程から首を出して、こちらをじっと見つめる眼があった。

 その眼にどことなく不満や憤りといった負の感情を感じて、思わず眼を逸らす。


 忘れていたわけじゃない。仮にも一度は友と呼んだ存在を、まさか忘れるはずがないではないか。と、そう、自分に言い聞かせつつ。

 視線を戻すといつの間に泳いできたのか、その姿は音もなく傍らに鎮座していた。ちょっと焦り。


「うん、まあ、お前の方が綺麗だよ。うん・・・」


 見え透いたお世辞を吐いてみたが。そのあまりの白々しさに二の句が継げない。


 そんなこちらを無視するかのように、追加で三匹の魚を、口からぼとぼとと地面に落とす。

 ピチピチと勢いよく跳ね回る魚を前に、両手が塞がっているこちらは手が出せない。そうしてあたふたしていると、急に目の前の三匹の魚が燃え上がる。いや、手の中の魚も燃え上がり、余りの事に「あつ!」と声を出し、それを落としてしまう。

 慌てて隣を見ると、今度は向こうが顔を逸らし。誰の仕業かなど訊くまでもない。恐らく忘れられた事への意趣返しの心算つもりだろう。


 魚はぶすぶすと焼け焦げた、炭化した物体へと姿を変える。その惨状に思わず「ああ・・」と、哀れっぽい声が口から漏れる。

 ぐーと無常に腹が鳴く。


 考えてみれば昨日から何も食べていない。

 そう思い出した途端、腹がより激しく自己主張を繰り返す。

 

 黒焦げの魚に目を遣る。次に、傍らに目を遣るが、相変わらず明後日の方を見ては目を合わせようとしない。どうやら追加の魚は期待出来そうにない。

 仕方なく黒焦げの魚を手に持つ。頭の中で、炭ははたして栄養になるのだろうか、とか、命を粗末にするのはもったいない、といった思考が渦を巻いたが、意を決して、ええいままよと齧り付く。


 濃厚な炭の風味が口内を満たす、当然のこと。中々強烈な苦味だこと。これはそう、昔バーベキューでじゃんけんに負けて食べさせられた真っ黒く焦げた玉葱の味。

 おもむろに記憶の扉が開いて、どうでもいい事を思い出す。あれは苦かった。


 いや、しかしそれだけじゃない。強烈な苦味のファーストインパクトを超えると、口の中に確かな魚の味を感じられる。炭の風味が強すぎたため、魚の味はよく分からない。だが、確かにこれは魚だ。

 噛んだ箇所をよく見てみれば、白い身がちゃんと残っている。もしやと思い、焦げの部分を指で抓むと、思った通りぺりぺりと剥がれ、そこから純白の身が姿を現す。消し炭のような見た目を裏切り、一皮剥けたそれはホクホクと湯気を立てては、食欲中枢を否応いやおうなく刺激して。


 一匹をぺろりと平らげる。続けて二匹、三匹、四匹と。あっという間に胃の中に放り込む。

 空腹は最高の調味料だ。塩気はないし、身は痩せてて脂は少ない。それでも旨い。


 最初に炭を口にした所為で、繊細な風味までは分からない。それでも、臭みのない食べ応えのあるしっかりとした身質に、調理法のお陰か薫り立つこうばしさが加わり、その野趣溢れる力強い味は、満足感を得るには十分な物。

 一通り平らげたところで一息つく。いや、つこうとして違う欲求に襲われる。喉が渇いた。


 それも当然、昨日から何も飲んでいない。そんな状態で一気に四匹も魚を貪り食ったものだから、渇いて当然というもの。それにしても、よくそんなでせなかったものだ。


(みずを・・・、水?)


 足元の湖を覗き込む。幸いここには水なら幾らでもある、水を求めて覗き込んだ先、そこには清浄に見える水が満ちている。


 両手でそれに触れる。とても冷たい。

 思わずごくりと唾を飲み込むと、両手を添えてそれをそっと掬い上げる。一瞬、生水のリスク、という言葉が頭を過ったが、構わず、南無三と、口を付け飲み干す。これより綺麗な水があったとしても、それは今この場には無いのだから、仕方がない。


 水が喉を滑り体の中へ落ちていき、少しだけ潤いが戻る。しかし、自覚した所為だろう、渇きはより激しく自己主張をし、結局満足するまで、何度も何度も両手を往復させる事となる。

 それからようやく、足を投げ出し楽な体勢をとると、ふーと一息ついた。

 満ち足りた気分だ。


 何気なく頭上を見上げれば、空は青く、日差しが燦々と降り注いでいる。雲が疎らにあるものの快晴と言っていい好天に。視線を傍らに移せば、身体をとぐろ状にして、日向ぼっこをしている姿がある。自分の体に頭を乗せて目を瞑っているので、寝ているのかと思いきや、身体を撫でてみたところその状態のまま目だけ開けたので、起こしてしまったのか初めから寝ていなかったのかどうか、少し迷う。

 急に魚が燃え上がった時の事が頭に浮かぶ。初めて間近で見たそれは、この国で《神施》と呼ばれるものだ。


(こいつも使えるのか・・・)


 少しだけ苦いものが込み上げ掛ける。が、普通に考えてみればこれだけ神秘的な生き物だ、むしろ《神施》を行使できない方が不自然だとも思う。元の世界で言うところの、魔法だの、異能だのといった超常的な力は、この世界にいては唯の才能に過ぎないとも聞く。使える者は使えるし、使えない者は使えない。


 使えない者も居る。そんな事を思い返していると、徐々に思考が散漫になってきたのを感じる。腹が満たされれば眠くなる、人として当然の生理現象ではあるものの、流石にまずくはないかと。

 そんな考えが頭の片隅に浮かびかけては、燦々と降り注ぐ日差しがぽかぽかと気持ち良く、隣では再び目を閉じて日向ぼっこする姿が窺える。くあーと欠伸が口から漏れる。


(なんか好いなあ・・・)


 長閑のどかで柔らかな空気に心も身体も緩んでいった。

 ごちゃごちゃ考えるのが煩わしい。


 結局の所は、今枕の代わりにしている奴が何をどんなふうに使えるかなんて事はどうでもいい話。

 いや、少なくとも、あの魚の焼き具合には価値があったから。どうでもよくなくもない。一見して、皮が黒焦げになる程の高火力でありながらも、内側の身は一切焦がさずに、ジューシーさを保ったまま薫製にも似た薫り高さを加えていたのだから。

 絶妙な火加減だった。

 

 いや、どうでもよくはない。


(次は皮も食べるんだ・・・)


 川魚、の中には皮が旨い種類もいると聞いたことがある。皮目の脂が絶品だそうだ。

 次の食事に想いを馳せて。それを楽しみに。心の中でその機会をとても楽しみにしている内に、何時の間にやら意識を手放し眠りへ落ちる。

 そうして寝息が小さく一つ。


 大きな体を枕にしての。

 安心しきったその寝顔は、見守る瞳とおなじく、とても穏やかなものだった。

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