1章 火の章
白い小さな気泡の塊が、水面に向かってゆらゆらと浮上していく。
黒い大きな魚影が、ぎょろっと飛び出た、これまた大きな目玉でこちらを睨みながら悠然と泳ぎ去る。
キラキラと輝くものに目を奪われると、ライトに照らされた小魚の群れが、うねり渦を巻き、絶えず形を変えてまるで一匹の巨大な生き物のように振舞っている。
岩陰に、
どこに目を向けても、そこには見たこともない世界が広がっており。生まれて初めてのその衝撃に、小さな頬を興奮に真っ赤に染めて、ひんやりとした硝子の感触も気にならないほどに、食い入るように夢中になって眺めているその背中。
(ああ・・・)
その小さな小さな子どもの姿には、見覚えがある。
(これは夢だな・・・)
父親から貰ったぶかぶかの野球帽を被り、自分の身長の、何倍も何十倍もありそうな巨大な水槽を目を皿にして眺めるその姿は、紛れもなく、かつての自分そのものだった。
年齢は五歳か六歳ぐらいだろうか。アルバムの写真やビデオカメラの映像の中でしか見たことのない過去の自分。それがこうして目の前に存在し、しかもそれを高校生になった自分が観察しているというのは、たとえ夢の中とはいえ不思議で奇妙な気分だ。
周囲に人影は少ないが、その中に父親の姿は見当たらない。
一人で遠出できる、そんな年齢にはまったく見えないから、誰か保護者が同行しているはずなのだが、その小さな背中に関心を払う大人は、何故か自分以外誰もいない。
カップルに見える男女も、女の子を連れた家族連れに、スーツを着た白髪混じりの男性、少し立ち止まってはその巨大な水槽を見上げて。暫くするとまた別の水槽へ移っていった。
その足元にいる小さな少年など、そもそも視界にすら入っていないのだろう。
そうして少年は、誰に邪魔されることもなく
(ああそうだ・・・)
少しだけ記憶が甦る。その朧気で儚い記憶の中の自分は、この、初めて訪れた水族館にて、言葉に出来ない不満を抱えていた。
普段は忙しくてなかなか遊んでくれない父親が、この休日に、家族サービスだと言って連れてきてくれた近場の水族館。生まれて初めて見るものばかりで、ただただ圧倒され興奮した。
別に、正直そこまでは良かった。上の兄貴二人が急用で来れなくなった事、それさえも父親を独占できる喜びに比べれば兄貴たちには悪いが些細なこと、だった筈が。
「ねえ。ねえってば!!」
突然耳元に大声を浴びせられる。
驚いて声のしたほうに顔を向ける。すると、そこには怒ったような、不機嫌そうな目つきをした少女が立っている。
年は自分と同じはずだが、背丈は頭一つ分ほども高い。勝気そうな黒い大きな瞳に、陰影のはっきりとしたスッと通った鼻筋に、その小さな唇は薄い桜色。それらを肉付きの薄いシャープな輪郭の顔の上ににバランスよく乗っけた。十人に聞けば十人が整っている、美人だと口を揃えて言うであろう優れた容姿。だが、なにより人目を引いたのは、肩口で切り揃えられた、少し癖のある燃えるように真っ赤な髪。
薄暗く、ブルーのライトに満たされた水族館の内部にあっても、彼女のその鮮やかな髪の色は際立っている。
そんな少女の、こちらの不満など意に介さないとばかりに向けられる非難めいた視線には、物理的な圧力でもあるのか、つい向けていた顔を水槽の方に戻してしまう。
悪い事をしている自覚はあった。父親の言いつけを守らずフードコートから抜け出し、こうして館内を勝手に探検しているのは自分の方なのだから。
ばつが悪くて、フッと、脳裏に父親の悲しそうな顔が浮かび、楽しかった気持ちもワクワクとした高揚感も泡のようにシュワシュワと萎んでいき、目に涙が滲みそうになる。
さすがにここでいきなり泣き出すのはカッコ悪すぎる、と思い、必死で我慢していると、返事の一つも返さないこちらにいよいよ業を煮やしたのか、後ろにいた少女が無言で横に並ぶ。
怒り出すんじゃないか、と、内心びくびくしながら彼女の様子を盗み見る。すると、
「ごめん」
短く一言謝られる。
思いも寄らない言葉に、呆気に取られて彼女を見た。なのに、こちらを見ようともせず水槽の方に視線を向けたままの彼女は、どこか陰のある神妙な面持ちをして、けれど、少なくともそこに怒りや苛立ちといった負の感情を見て取ることはできない。
なんで。意味が分からない、悪いのはこっちだ、彼女の方じゃない。謝られる理由なんてない。
思わずなにか口にしようとして口を開いたのに、混乱から思考が纏まらず言葉が出てこない。
そんな風にこちらがまごまごしている内に、彼女がこっちを向いた。
「邪魔だったよね。いきなり付いて来て」
ひどく大人びた口調でそう言うと、真面目ぶった堅い表情を崩し、少し、疲れたような困ったような曖昧な顔で力なく笑う。
「悪いのはわたしだから」
そう言うと、視線を再び水槽の方に向ける。そこには変わらず魚の世界が広がっていて、彼女はじっとそれを見つめる。
「留守番は嫌。あの部屋で弟と一緒に待ち続けるなんて。あ、勘違いしないでね弟が嫌いなわけじゃないから。大好きだから」
でも、と続ける。
「でもお母さんは分かんない。いっつもお仕事でいないし、忙しいから・・・」
初めて彼女が年相応に見えた。それとともに、言い知れない不思議な感情がこみ上げてきて胸が詰まる。
気づけば彼女が驚いた顔でこちらを見ていた。
何だと思い、ガラスに映った自分の顔を見てみると、いつのまに決壊したのか、両目から涙が溢れ顔面を濡らしていた。
慌てて彼女から隠すように両腕を使って必死に顔を拭ったのに、箍が外れたのか一向に収まる気配はなく、それどころかむしろ勢いは増して嗚咽が漏れる。
後から後から、知らない涙は溢れ出し、体は熱を帯び、どんどん全身を赤く染めていく。
恥ずかしくて、悲しくて、寂しくて。小さな体に収まりきらない、沢山の想いが、彼女の言葉をきっかけにして零れていってしまう。
楽しみだった、本当に楽しみだった。三日前からワクワクが止まらなくて中々寝付けなかったくらいには。
我が家が大変なのは子供心に分かっていた、だからなるべく我が侭も言わずにお手伝いもやってきた。きっと、これは良い子にしていた自分へのご褒美なのだと、無邪気に盲目的に信じ込んでいたのだ。
少なくとも、出かける直前に紹介された、隣の部屋に住む姉弟が一緒に行くと知るまでは。
そこからは散々だった。父親は彼女の、怖がりで泣き虫な小さな小さな弟の世話に忙殺されて、移動中も水族館に着いてからも、ずっとずっと掛かり切りだった。
そんな状況で我が儘なんて言える筈ない。だって、困った顔なんてさせたくなかったから。
笑っているから、笑っていてほしかったから。
涙は止まらない。きっと彼女は困っているだろう、言葉もなく立ち尽くしている。
「なんで泣いてるの?」と訊いてこないのはなぜだろう。何も言わず、ただ静かに待ち続ける彼女は、今一体どんな顔をしているのだろう。
取り留めのない思考が渦を巻き、涙と供に流れ落ちていく。
無心で泣き続ける少年と、それを見守る少女の姿が、青白く輝く世界の中で静かに時を重ねていく。
「帰ろ」
どれだけの時間が経ったのだろう、気づけばいつの間にか涙は止まっていた。
帽子のつばと腕の隙間から彼女の方をチラと覗き見ると、そんな言葉とともに小さな手のひらがちょこんと差し出される。
コクンと小さく頷きその手を取る。不思議とわだかまりも気恥ずかしさも感じなかった。
きっと泣いて泣いて泣きすぎて、色々なものと一緒に頭のネジも流れ落ちてしまったのだろう。唯、手を繋いだまま歩き始めた彼女の後ろを、覚束ない足取りでふわふわと、まるで風船のように引っ張られていく。
彼女の歩みはゆっくりしたもの、急かさないように、落ち着くように気を使ってくれているのが分かる。
ぼんやりとした頭でそんなことを思っていると、
「優しい子なの」
唐突にそんなことを言われる。
疑問符が頭の中を埋める前に彼女は続ける。
「弟のこと。あの子は泣き虫だし、甘えん坊だけど、でもあんまり我が侭も言わないし、わたしが泣いた時なんていつも慰めてくれるし、それに・・・」
そんな風に、いかに自分の弟が良い子かを歩きながら力説してくる。
そのうちに、いかに良い子であるか、からどれだけ可愛いかに話の軸がシフトして、気付けば口調もより砕けたものに、熱を帯びて弾んだ調子に変わっていき、心なしか歩くスピードも上がった気がする。
空気が変わる。ついさっきまで感じていた、重苦しく澱んだ、纏わりつくようなものが、彼女に引っ張られてスピードを上げていく体の表面からどんどんと剥がれ落ちていく。楽しそうに嬉しそうに弟の自慢話をしながらテンポを上げていく彼女の歩調はすでにスキップしていると言ってもいいもので、ふわふわと上下動する真っ赤な髪の毛が、キラキラと炎の様に輝いてそれらを燃やし尽くしていく。
繋いだ手の平が熱かった。彼女の熱が、感情が伝播し、からっぽの心と体を満たしていった。
「でね、でね」、と続く、もしかしたら永遠に続けられるんじゃないかと思うほどの、熱い彼女の喋りっぷりに、思わずぷっと吹き出してしまう。
立ち止まり
正直、分かり合えた、シンパシーを感じたなどと表現するには大仰に過ぎて違和感しかない。けれども、未だ離されることなく繋がれたままの互いの手と手、それくらいは、少しだけ、ちょっとだけお互いに近づけた気がした。
「ねえ」
「ともだちになろ」
それまでの笑顔をほんの少し悪戯っぽいものに変えて。断られる事なんて微塵も考えていないといった断定的な口振りで、こちらの目を真っ直ぐに見据えてそう宣言する。
多分、彼女と出会っていなければ、こうして手を繋いでいなければ、彼女のその精一杯の強がりには気付かなかったのだろう。言葉尻は震えていたし、なにより、さっきから繋いでいる手の平に感じる汗の量が尋常じゃない。
心なしか、その目が忙しなく泳いでいる気もするし、余裕たっぷりといった笑顔は、さっきから、ただ引き攣っているだけのようにも見える。
きっとこれが彼女の素顔なのだろう。
不器用で必死な、そんな願いに、今ここで断ったらどうなるんだろうか、と意地悪な考えが浮かびかけたが、それは、慌てて頭を振って端っこに追いやり、安心させるようにその手の平をぎゅっと一度握り締めると、
「うん」
優しく笑いかけながら、小さく頷く。
心配げに揺れる彼女の表情が、一転して、まるで大輪の花の蕾がぱっと開いた様に満開の笑顔に変わっていく。
その、華やかで
くるっと半回転し、さっきよりも上機嫌でステップを踏み始めた彼女の後ろを
いつか彼女が、今日あった出来事をいつか忘れてしまったとしても、自分だけは大切に大切に憶えていようと。そしていつの日か、お互いがお爺ちゃんお婆ちゃんと呼ばれるほどに遠い未来、必ずとは言わない出来れば、彼女と笑いながら話せるなら好い。
ふふっと、そんなことを
そうして、その勢いのまま話しかけてきた、明るく楽しげに、
ねえ、自己紹介まだだったよね?あなたの名前は?わたしはね、わたしの名前はね・・・。
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