亡世諸説あり、山河に雲は流れ

ターシャ・ケッチャム

序章 地の章

「はあ・・・」


 深いため息が零れる。


「もういい、もう疲れた・・・」


 四肢がだるい。指一本動かすのが億劫だ。

 あの高さから落ちて死ななかったのは奇跡だが、痛みと疲労で動けそうもない。そのうえ。


「なあ、お前は俺を喰うのか?」


 目の前の獣に問いかける。

 

 美しい獣だ。

 姿形は大型の蛇に似ている。体長は5メートルほどか、胴は太く、人間の腰ほどもあり、少し小ぶりな頭の根元には、角のような突起がいくつも生えていて、見方によっては王冠に見える。

 目は大ぶりなアーモンド形で、瞳は縦に長い。


 だが、やはりこの獣を美しいと、特異であると感じさせるのはその体色だろう。

 全身を覆う鱗と王冠に見える突起は、光の加減で白銀にも青銀にも見えキラキラと輝き、瞳はまるで大粒のサファイアのように深く澄んだ輝きを宿している。


(綺麗だな)


 恐怖よりも感動を想起させるその姿は、獣と仮称することが憚られるほど幻想的だった。


(まあいいか・・・)


 気だるい諦めが、全身を包み込む。


(少なくとも、さっきまで俺のことをいじるように追い掛け回してくれた・・・、あの灰色の狼もどきにむしゃむしゃ喰われるよりはましかな)


 痛みと疲労で思考がぼやける。

 ぼやけた頭で思い出す。これまでに起こった事、出逢った人々、そして、取り残された事。


「なんか、あんまいい思い出ないな。この世界に来てから・・・」


 自嘲気味の、乾いた笑いが漏れる。

 この世界に落とされて早一年、一介の高校生にしては頑張ってきたと思う。いや、頑張りぐらいは認めてほしい。


 突然の環境の急変への適応、難解な言語習得、この世界における歴史、法律、慣習を含む基礎学習。

 さらに、兵士に混じっての各種訓練、と。さらにさらに、特定職業において必須の高等教育の学習という無理難題。


 一年なんてあっと言う間だった。

 楽しいとも、やりがいが有るとも、おもしろいとも感じる余裕はなく、ただただ苦しいだけの時間が過ぎ。


 結局、最後に残ったのは何者にも成れなかった自分だけだった。


「なあ・・・」


 いよいよ意識が霞がかる。

 眼前の獣は、遭遇したときと寸分たがわず、僅かに変化する瞳がなければ、美しい彫像のようにしか見えない。


 青く澄んだ瞳は深い知性を湛え、まるで言葉のすべてを理解しているかのようだ。

 丁度いいとも思う。せめて相手の気が変わるか、こちらの意識が途切れるまでは、末期まつごのおしゃべりに付き合ってもらいたい。

 人生の最期に、モノ言わぬ獣を前に愚痴を吐くのも、なんとなく自分らしい気がする。


 いつかあの世で仲間と再会した際には、笑い話として聞かせてやろう。


「間抜けな話だよな・・・。勝手に劣等感募らせて逃げるように出てきちまった・・・」


「それに見通しも甘いよなあ・・・。いくら安全な国の安全な町や街道つったて、泥棒ぐらいどこにでもいるだろうによ・・・」


「なんで荷物も金も盗られた段階で、人を頼らなかったかなあ・・・。身なりちゃんとしてんだから頼めば乗合馬車の運賃ぐらい貸してくれたかもしれないのに・・・」


「一人でテンパって、自分の力だけで何とかしなきゃって思い込んで、あげく目的地までは目と鼻の先だから歩いていこうなんて考えて、あげく道に迷って、あげく獣に襲われて、あげく命からがら逃げて崖から落ちてこのざまだ・・・」


 意識は朦朧としていても、つっかえながらでも、言葉を舌に乗せていく。


 言いたい事を言えずに死にたくなかった。この世界に来てからは、言いたくても言えない言葉ばかりが積み重なっていく。

 みんな辛くて、みんな苦しくて、だから張り付いた笑顔で嘘を吐く。

 

 曰く、大丈夫だから。曰く、なんとかなる。曰く、きっと帰れるよ。


「大丈夫じゃねえよ・・・。なんともなんねえよ・・・。帰れねえよ・・・」


 視界が滲む。嗚咽が漏れる。

 感情のたがが外れ、荒れ狂う激情が溢れる。


「ああ嗚呼アアぁぁ・・・」


 涙が止め処なく溢れ、言葉にならない意味を成さない呻きが喉を鳴らす。

 苦しかった、悲しかった、悔しかった、寂しかった、憎かった。そしてなにより怖かった。

 死ぬのが怖かった。一人で死ぬのが怖かった。二度と家族に会えないのが怖かった、みんなに、仲間に忘れ去られるのが怖かった。


(死にたくない・・・、死にたく、ない・・・!)


 意識が闇に飲まれていく。

 子供のように泣きじゃくる、自分の声が遠ざかっていく。


 懐かしい風景が、顔が、思い出がスライドショーのように浮かんでは消えてゆき、やがてそれらも黒く塗り潰される。

 消えゆく意識の中、閉じゆく視界の中、最後に映ったものは。


 どこまでも、深く、清く澄んだ、美しい青だった。

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