第97話 いろんな要素が君の味方だよ!


※詩乃香視点



「……えっ、バイトを辞める!? どうして急に」




 そう告げた詩乃香に、休憩所の椅子に座っていた店長は驚いた。




「すみません、急にこんなこと言って」


「そうだよ、急にそんなこと言われたら困っちゃうなあ……。な、なにか、あったの?」




 スーパーの店長は、どこにでもいる50代の男性だ。


 詩乃香がここに働き始めて一年近く経つが、今までそんなに話をしたという記憶はなかった。

 それは他の年代のパートも同じ。

 というより午前中は副店長が店に立つことが多く、店長が来るのはバイトの女子高生や女子大生が来る午後の時間ばかりだ。


 そんな店長だったが、数日前からシフトを午後ではなく午前に入れるようになった。

 そして数日前から、詩乃香はこの店長に話しかけられるようになった。


 今までお店に来て挨拶しても「ん」しか返事しなかった店長だったが、顔を合わせるたびに明るく挨拶するようになり、世間話も、なんなら勤務時間外にメッセージを送ってくるようになった。

 メッセージのやり取りはスーパーでの話しから入って、シングルマザーである詩乃香の家庭のこと。


 どうして急に接し方を変えたのか。

 その理由は店長の視線ですぐにわかった。




「いきなり辞めるって言われても困るよ。新妻さん、ほら、仕事できるから」




 仕事ができるなんて褒められたことは一度もない。




「それに他のパートさんたちも困ると思うんだ。新妻さん、愛想良いから」




 他のパートさんと仲良く話した記憶もない。




「それに、ねえ。何かあったの? 相談聞くよ、あっ、なんだったら今日、仕事が終わったらどっかで──」




 その言葉を、店長は詩乃香の顔ではなく胸に語り掛けた。


 店長が心変わりしたのは、おそらく詩乃香のSNSを見つけたからだろう。

 こうして露骨に胸を見られることも、仕事中にお尻を舐め回すように見られるのもすぐに気付いた。  


 コスプレイヤーなんだからそういう目で見られても平気でしょ?

 そう思う人もいるかもしれないが、ネット上とリアルとでは全く違う。




「すみません」




 詩乃香は逃げるように伝えてお店を出る。


 ネットであれば害はないが、リアルでそういう視線を向けられると恐怖を感じる。


 詩乃香はその恐怖をこの店長から感じた。

 お店で話して、メッセージのやり取りをする。

 今はそこから段階が進んで、お店の外で会おうとしつこく誘われるようになった。


 これまでは地味な見た目のシングルマザーだと思っていたが、”ああいう写真”をSNSに投稿する──扱いやすい女だと認識を改めたのだろう。


 少しぐらいセクハラをしても大丈夫。

 少しぐらい体を触ったりしても大丈夫。

 普通の女性相手であればしないようなことでも、ああいう写真を撮る女だから大丈夫と、勝手にハードルを下げてくる。


 そして、不倫の相手にちょうどいい──この女なら、簡単に抱けると思われたのだろう。

 実際はそんなことはなく詩乃香の考えすぎかもしれないが、一度でもそう感じたら、店長をそういう目でしか見れなくなる。




「どうしよう」




 居酒屋のバイトは学生が多く、詩乃香のSNSを知っている者もいた。

 スーパーの店長のような反応をされるかとも思ったが、若い同性の子には「詩乃香さんって前から綺麗だなって思ってたんです!」と好意的な反応をされた。

 中には性的な目で見てくるようになった男子高校生もいるが、遠くから見られているだけで今のところ何かしてくる感じはない。




「やっぱり顔出ししたからかな」




 とはいえ悪いことだけじゃない。

 知り合いに4nоを知る者が現れるぐらい人気が出て、知名度が上がったともいえる。

 実際、顔出ししてからフォロワーは何十倍にも増えた。


 が、フォロワーの数が増えたからといって収入も比例して増えるわけではない。




「どうしたら……」




 そこで詩乃香は下を見たが、今日はマネージャーと会うことを思い出して顔を上げる。


 彼を信頼して付いて行けば、きっと良い方へ導いてくれる。











 ♦






 ココアのいたマンガ喫茶を出た俺は詩乃香さんの家に到着した。




「ど、どうぞ、お待ちしてました!」




 玄関の扉を開けた詩乃香さんは少し動揺しているように見えた。

 俺が彼女に対して怒っていると思っているのだろうか。




「どうぞ」




 ソファーに座らされる。

 詩乃香さんは飲み物をテーブルに置くときも、俺を見て、ふと目が合うと視線を背ける。




「ありがとうございます。それでその、先日はすみませんでした。いきなり音信不通になってしまって」


「い、いえ、大丈夫です」


「実は」




 俺は自分に置かれている状況を隠すことなく全て打ち明けた。

 フィクションの中でしか有り得ないような特殊な事情を聞きながら、詩乃香さんはずっと「はあ、はあ」と空気の抜ける風船みたいな声を漏らして聞いてくれた。




「というわけで、あの時の自分は自分じゃないと申しますか。実はこの三日間の記憶はないんです」




 笑いながら話すと、詩乃香さんは何てリアクションしていいかわからず「そうなんですか」と小さい相槌を打つ。




「すみません、迷惑かけて」


「いえ、私は……。その、そうなるのは、急になっちゃうんですか?」


「みたいです。自分もびっくりしました」


「は、はあ……。なんか、凄いですね」


「何がですか?」


「えっと、あの、それなのに明るく振る舞えて凄いなって。私なら、怖くて仕方ないかなって」


「まあ、空元気みたいな感じですね」




 どうやって彼女との関係を一歩踏み出すか考えてみた。


 さっきココアから貰った情報を元に彼女に迫り、言葉巧みにゴール地点まで誘導して、上下関係をはっきりさせる──メイにしたように従順な女にさせるのは可能だと思う。

 詩乃香さんはメイに通ずるものを持っているから。

 だけどなんていうか、それだと”本当の”攻略にはならない気がした。無理矢理に従わせているみたいな、

 それを喜ぶメイとは違って、詩乃香さんはこのゴールを喜んでくれない気がした。


 彼女には彼女のゴールがある。

 トゥルーエンドではなく、ハッピーエンドを目指したいと思った。


 まあ、詩乃香さんにとってはハッピーエンドではなくバッドエンドかもしれないけど。




「今回は目を覚ましたからいいけど、またいつ別の人格に代わるか……もしかしたら、そのまま俺の人格が消えちゃうんじゃないかって」


「あ……」


「だからこれは空元気で、実際は怖いんです」


「そう、ですよね。すみません、知った風な口を聞いて」


「いえ。それで朝から考えちゃって。いつ消えちゃうのかなって。まあ、今の俺が消えて困るのなんて、会社の人だけかもですけどね」


「そんなことないです!」




 詩乃香さんはそう言うと、今日初めて力強い眼差しで俺を見つめる。




「私は、悲しいです……。もう一つ人格があるとか、そっちの人格がどんな人かとか、話を聞いただけだとわからないですけど。私は、その……目の前にいるマネージャーさんが、私の知らないマネージャーさんになってしまったら、悲しいです」


「詩乃香さん」


「私にできることならなんでも言ってください。今度は、私がマネージャーさんの力になりますから!」




 なんて、私にできることなんてありませんよね。


 そう、笑いながら言う詩乃香さん。


 優しいな、詩乃香さん。

 でも優しくする相手は選ばないといけない。

 悪い奴に一度でも優しくすれば、その優しさを利用されちゃうから。




「じゃあ」


「え……あ」




 俺は詩乃香さんを抱きしめた。

 急な密着に詩乃香さんは驚き固まる。




「こうしてもいいですか。朝からずっと怖くて、誰かの側にいたくて」




 前に俺を拒絶して三日も音信不通になった。

 俺の特殊な状況を聞いて、怖い、苦しいと吐露された。

 そして、これまで面倒を見てくれて信頼している相手。


 年下で可哀想な根は優しいと思っている男性に求められて、二回も突き離すなんてできないですよね……?




「いい、ですよ……。私なんかでよければ、その……甘えても」




 ぎこちない手付きで抱きしめ返してくれた詩乃香さん。

 中学高校で卒業した抱き合ったときに聞こえてくる心臓の音が、詩乃香さんから聞こえる。

 ドキドキしているのだろう。

 それは今の若者のラブコメ展開にか。

 それとも、これから起きるかもしれない大人の情事を想像してか。




「詩乃香さん」




 こうなってしまったら沼に静めるのは簡単だ。




「えっ、と、そ、それは……あ」




 見つめ合うと潤んだ瞳を揺らした彼女にキスをする。

 彼女は少し経ち、受け入れますと告げるようゆっくりと目蓋を閉じた。

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