第86話 新しく始まるはずだった人生




「加賀、燈子さん……」




 手を取り立ち上がると、彼女は優しく微笑んでくれた。

 その名前に聞き覚えがあった。たしかあのメモ紙、メイの下に名前と電話番号が載っていた。


 じゃあ、彼女も僕の知り合い?


 そう疑問に思った瞬間、彼女の手を離そうとした。

 怖くなって。

 彼女もメイと同じで、僕の記憶がなくなる前に関係を持った女性で、もしも前の僕じゃない僕を求めていたら──。




「大丈夫」


「え……?」


「怖がらないで。私はあなたの味方だから」




 その声が、その表情が。

 僕の不安がった心を優しく抱きしめる。

 離そうとした手を、互いに強く握り直す。




「恵、その人から離れて!」




 彩奈の声が静かな空間に響いた。




「彼から離れるのは、あなたの方よ」




 加賀燈子さんは僕のことを守るように前に立つ。




「……加賀燈子さん。恵を返してください」


「返す? 彼を自分の所有物みたいに言うのは止めてくれない?」


「そんなつもりは……た、ただ、恵とちゃんと話しがしたいの。だから!」


「話し? それはまた、嘘を重ねた話をするのかしら?」


「──ッ!」




 燈子さんの顔は見えない。

 だけど声は怒っているような気がした。




「彩奈さん。彼の嘘を咎める前に、まずは自分の嘘を謝罪したらどう?」


「それは……」




 彩奈は何か言い返そうと口を開くが、すぐに閉じ、俯いてしまった。




「彼には私から本当のことを話すから、しばらくの間、彼と会うのは止めてもらえる?」


「そんな!」


「じゃあ、あなたと、彼のご両親も交えて本当の話をする……?」




 彩奈はそれ以上、何も言わなかった。

 加賀燈子さんは振り返り、僕に伝える。




「明日、会いに行くから。その時に本当のこと全て話すから」


「は、はい」


「大丈夫、怖がらないで。でも私も知らない恵くんの記憶があるから、もう一人……あの柄の悪い男も連れて来るわね」




 柄の悪い男、というのは僕の病室に来て二人の電話番号を教えてくれた人か。




「わかりました」


「じゃあ、また明日。おやすみなさい、恵くん」




 加賀燈子さんに背中を支えられるように押されて病院へ。


 すれ違った彩奈は俯いたまま何も言わなかった。

 だけど、




「恵!」




 振り返ると、悲し気な表情の彼女。




「ごめん、なさい……で、でも! 恵のことが好きなのは、本当だから。だから!」


「うん、ありがとう。外寒いから、風邪引かないでね」


「恵……」


「おやすみ、彩奈」


「あ……おやすみなさい、恵」




 今の僕にできる笑顔を浮かべて伝えた。

 彩奈にその笑顔がどう映ったかはわからない。ただ少しだけ、悲しそうな表情が和らいだ気がした。


 僕は彩奈のことを怒っても、嫌いになってもいない。

 確かに僕は彼女に嘘を付かれていたのかもしれない。だけど僕が目を覚まして、何も知らない僕を親身になって看病してくれたのは彼女だから。

 面会時間が始まってすぐに来て、面会時間が終わるぎりぎりまで側にいてくれた。

 そんな彼女には感謝しかない。嫌いになるわけがない。


 何より彩奈は、ちゃんと”僕”を見てくれていた。

 メイとは違って、ちゃんと僕を……。




「加賀燈子さんは、どっちなんだろうか」




 病室で一人。ベッドで横になり、天井を見つめながら考える。

 あの優しさは誰に向けてくれていたものなのだろうか。

 僕に? それとも僕じゃない僕に?

 もうわからない、ぐちゃぐちゃだ。




「僕は、何者なんだ?」




 全てを忘れるように目を閉じた。

 考えていても仕方ない。明日、加賀燈子さんから話を聞こう。

 今度はちゃんと頭の整理をして。

 疲れていたのか、すぐに僕の意識は薄れ、途切れた。






 ──次の日、目を覚ましたのは僕じゃなかった。












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