第85話 僕以外の僕は僕じゃない
──それから行われた情事の光景は鮮明に映った。
自分の目から見た光景なのだから当然だ。
なのに僕の手は、僕の顔は、僕の全ては、まるで別の誰かのように独立して動き続ける。
彼女は喜ぶ。
僕に求められ、心の底から嬉しそうに鳴いた。
自分なのに、これは自分じゃない。
自分でも何を言っているのかわからないけど、情事を見てる途中から、よりわからなくなった。
僕が誰なのか。
僕の体を使ってるのは誰なのか。
知らない人と知らない人が愛し合う光景。
それを特等席で見せられるのがこれほどまでに気持ち悪いものだとは思わなかった。
それはたぶん、彼女──メイに、少なからず好印象を持っていたからだと思う。
こういうのを寝取られって言うんだろう。
病室のベッドで見たどろどろした恋愛ドラマで言っていた。
ああ、気持ち悪い。
早く終わってくれ。
どうして目を閉じれないんだ。
どうして耳を塞げないんだ。
誰か。
誰か助けてくれ。
「……彩奈」
「先輩……?」
僕じゃない僕が言葉を発した。
だけどそれは、まぎれもなく僕の言葉だった。
その瞬間、さっきまで誰かに乗っ取られたように動かなかった体が急に動かせるようになった。
「先輩、どうしたんですか?」
ベッドから立ち上がった僕を──いや、さっきまで僕の体を使っていた橘恵を、彼女は見ていた。
その目が嫌だった。
だから逃げた。
服を掴んで裸のまま部屋を飛び出し、エレベーターに乗り込み、そこで服を着る。
ホテルを飛び出すと、急いでタクシーに乗り込む。
お金を持ってないのに気付いたのはその後だ。だけど早く、今すぐに、彼女に会いたかった。
「彩奈、彩奈……僕は」
僕を見てくれない
僕を見てくれる
病院に着くと、運転手さんに怒られた。
「え、お金がないのにタクシー使ったの?」
「す、すみません!」
「すみませんって。いやいや、お客さんさすがに困るよ。どうしよう、お客さんこの病院に用事あるんだよね? だったらここに知り合いいる?」
「ここに知り合いは──」
「──私が払います」
声がした。
振り返るとそこには彼女がいた。
「君、彼の知り合い?」
「はい。これで足りますか?」
「ん、まあ。じゃあいま、おつり用意しますんで。……でも」
運転手さんが車内でおつりを用意しながら言う。
「さすがにお金を持たずにタクシーは使わないでくださいね」
「すみません、私の方から彼に言っておきますので」
「ええ、お願いしますね。じゃあおつり、はい」
タクシーの運転手さんは去り際、僕を見て「彼女さんに感謝しなよ」と言った。
走り去るタクシーのエンジン音が遠く、そして消える。
静かな夜の病院の駐車場で、僕と彼女だけが残された。
「彩奈、その──」
「──ねえ。どこに行っていたの?」
初めて彼女の、こんな表情を見た。
「それは」
「面会時間が終わって、ナースに嘘を付いて」
「噓は……」
「今日、帰るときに言われたの。『面会時間後にこっそり会うなら待合所で待っていてもいいですよ?』って。知らなかった。何も、知らなかった。そしたらあのナースの人、気まずそうな顔をして……。まるで、他の女と会ってるのを言っちゃったみたいな、そんな顔」
彩奈は声を荒らげることも、怒った表情もしない。
ただ淡々と言葉を告げ、悲しそうな表情を浮かべるだけ。
「ねえ、どこに行っていたの?」
ジッと僕を見て言った。
「ごめん」
「ごめんじゃ、わからないよ。どこで、誰と……会っていたの?」
彼女は僕の手を握る。
「怒らないから、正直に話して。ね?」
僕は震えた口を開け、話そうとした。
だけど言えなかった。
彼女の僕を見る目が怖かったから。
瞳に輝きがなく、深く暗い、闇の中のような。
「ん、どうしたの? 大丈夫、怒らないから。ね? ……ねえって!」
頭が真っ白になった。
ぐちゃぐちゃになった。
本当のことを話そうとする僕と、言い訳を口にしようとする僕と、許しを請うように泣き出しそうとする僕。
いろんな人格が少しずつ顔を出し、ぐちゃぐちゃに混ざって、気付いたら何もかもが嫌になって逃げだしていた。
「恵!?」
彩奈の声に振り向きもせず。
だけど、
『また逃げるのか?』
心の中の誰かに笑われた。
その瞬間、僕は盛大に転んだ。
病院を出てすぐの人通りのある歩道。
通行人が驚いたような顔をして僕を見る。
中には、地べたに這いずる僕を口元を隠して笑ってる人もいた。
その光景を僕は覚えていた。
消しても消しても忘れられなかった、僕の中にある記憶。
立ち上がろうとしても、その記憶が僕の全身を震わせる。
──そんな時だった。
コツコツと足音が響く。
前方から優しい風が吹く。
肌を撫でる感触も、耳に残る風の音も、そんなわけあるはずないのに全てが心地良かった。
「ねえ、君。大丈夫……?」
目の前で止まり、しゃがんだ彼女。
彼女は真っ直ぐ僕に手を差し出した。
その姿、その表情は、まるでおとぎ話に出てくる聖女のようだった。
「は、はい。ありがとう、ございます……」
「ふふっ、どういたしまして。寒いでしょ、はい、立って」
差し伸べられた手を取り立ち上がる。
僕は彼女の笑顔を、彼女の優しさを、そしてあの時のトラウマの中に唯一あった温かい記憶を思い出す。
「燈子、さん……」
「はい、加賀燈子です。久しぶり、恵くん」
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