第69話 トラウマと





 近付けた唇。

 だけど彩奈は、触れ合う寸前で指で止める。




「……お父さんとお母さん、来るんだった」


「え……」


「いやでしょ? ご両親にえっちしてる姿を見られるの」


「それは、まあ」




 したくて仕方ないといった恵の悶々とした表情を見て、彩奈は満足そうに微笑む。




「二人が帰ってから、ね……? それに、ここを退院して山奥の田舎で一緒に暮らせば好きなだけできるから。あとちょっとの我慢」


「一緒に……。でも」


「大丈夫。田舎暮らしだって言っても何もないとこじゃないから。小さな村で、穏やかに過ごせる。それとも」




 彩奈は恵の手を握り、俯く。




「恵は、私のこと守ってくれないの?」


「え?」


「怖いの。また誰かに襲われるんじゃないかって。恵と離れるのが怖いの。だから、これからもずっと側にいてほしい……。だめ?」


「だめじゃ、ない。僕が守る」


「ほんと? 良かった」




 と、そこでスマホが鳴った。


 恵の両親が病院に到着したらしい。




「恵、ご両親来たって。迎えに行ってくるね」


「ああ、うん。いってらっしゃい」




 個室エリアに行くために必要なカードキーの貸出を許可されているのは彩奈だけだ。

 理由は一つ、恵の家族に邪魔者を連れて来させないため。

 そして家族には、ファンやストーカーが同行をお願いしてくるかもしれない、もしされたらすぐに誰かに助けを求めるよう言ってある。


 だから面倒でも、来るときと帰るときは、こうしてロビーまで足を運ばせないといけない。




「あとちょっと。あとちょっと」




 恵が退院する日まで、あとちょっと。


 まるでクリスマスを待つ子供のような気持ちだ。


 だが、




「あら、おはようございます」


「お、おはよう、ございます……」




 個室エリアのエレベーター前で他の患者さんたちとすれ違う。

 いきなり声をかけられ驚いた──というよりも、患者さんの奥さんらしき女性に声をかけられ驚いた。


 小走りでエレベーターに乗り込む。

 震えた手をギュッと握り、微かに荒くなった呼吸を整える。




「……大丈夫。あの人は逮捕されたんだから。大丈夫、大丈夫、大丈夫」




 ナイフとスタンガンで自分を襲おうとしたあの女は逮捕された。

 それはわかっている。だけど同じぐらいの年齢の女性から急に声をかけられると、あの時の恐怖が蘇って体が震える。


 さっき恵に言った「怖い」というのは決して嘘ではない。


 彩奈はあの事件の日から、待ち伏せされていたあの家には帰れていない。

 ずっと病院近くのホテルに泊まって、可能な限り人との関わりを断って生きてきた。


 本音を言えば、病院まで行くのだって嫌だ。

 道中で誰かが襲ってくるんじゃないかって物凄く怖い。


 だけど毎日、朝早くから夜遅くまで病院に足を運んでいる。




「早く恵の両親を連れて戻ろう。恵の側にいたい。早く恵と二人っきりになりたい」




 恵の側にいたら怖い思いなんてしない。

 今の彩奈にとって唯一安心できるのが、恵の側だけ。



 ──それから、両親を迎え四人で時間を過ごした。


 恵は両親のことを思い出せないことを申し訳なさそうにしていたが、両親は恵が無事だっただけでも良かったと言ってくれた。

 それと彩奈が無事であること。彩奈を息子が勇敢に守ったことを誇らしげにしていた。


 あっという間に時間が過ぎ、家族は夕方頃に帰っていった。

 車に乗って病院の駐車場を出て行くのを見送る彩奈。

 迎えも見送りも、誰からも声をかけることもなかった。それどころか、こちらを見る視線も感じなかった。


 ……諦めた?


 メイという子が諦めたならわかる。

 だが、恵の前の女はもう一人いたはず。

 彼女はまだ一度も彩奈に接触してきていない。




「諦めてくれたなら、それでいいんだけど……。どっちにしても、絶対に恵には近づかせないから」




 大丈夫という自信はあった。

 だけど一抹の不安は残ったままだ。











 ♦











 あれから一週間が経った。

 恵の怪我も少しずつ回復して、目に見える痛々しい傷も癒えた。

 あとは頭部の怪我と骨折が治れば退院できる。


 恵も、退院してから二人で暮らすことに前向きになってくれた。

 最近では畑で野菜を育てたいのか、彩奈が買ってきた農業入門編の本を読むようになった。


 そんな平和な日々。

 不意に病室に設置された電話機が音を鳴らす。




「はい」


『早瀬さんですか? 今ですね、受付のところに橘さんの会社の方……というのがお見舞いに来ているのですが』


「会社の? 名前はなんて言ってましたか?」


『えっと、相良様ですね』


「相良さん?」




 相良は確かに会社の人間で、恵の上司であり彩奈の元マネージャーでもある。

 会社関係者でお見舞いに来るなら最も無難な人間だが、この急な来訪はどう考えてもおかしかった。


 なにせ会社のお見舞いは事前に彩奈が全て断ってきたのだから。

 事件から一週間が経ち、十分に回復したと思いお見舞いに来たという可能性はあるが、それなら前もって彩奈に連絡を入れてくるはず。

 何より今になってお見舞いというのはおかしな話だ。

 あの会社は彩奈から見て正直、そこまで義理人情に厚い会社ではない。わざわざ彩奈の意向に逆らって、新入社員に挨拶しに来るわけがない。


 であれば、恵の会社復帰絡みで来た……というのが最もか。それでも腑に落ちないが。




「わかりました。今、行きますね」


『はい。ではこちらでお待ちいただくようお伝えしますね』




 恵が入院してから何度もマスコミ関係者らしき人がやってきたが、全て受付で追い返してもらってきた。

 だが今回は彩奈が会いに行くべきだろう。

 それに恵の退院後のことで、彩奈自身も会社の人間と話しておく必要があった。




「恵、ちょっとロビーに行ってくるね」


「うん、わかったよ」




 本を読む恵に伝え、彩奈は小走りでエレベーターへ向かう。

 エレベーターが開き乗り込もうとするが、車イスの男性が乗っていて、彩奈は慌てて道を譲る。




「す、すみません!」


「いえ」




 車イスを押す男性と軽く会釈する。

 相手が男性であっても、まだ不意に声をかけられたりすれ違ったりすると、あの日のことを思い出し動揺してしまう。

 顔を背けながらの挨拶に不審がられてないか不安だった。だが、




「兄さん、今日のメインレースいい穴馬がいるんだよ!」


「へえ」


「仕方ないからこっそり後で教えてあげる!」




 どうやら大丈夫だったようだと、彩奈はほっと溜息をつきエレベーターに乗る。


 受付で相良を探す彩奈。

 そして相良を見つけ近付くと、




「あなたは……」


「こんにちは、彩奈さん。やっと会えたわね」




 ここへ来たのは相良一人ではなかった。

 彼の側で、彼女は大人っぽい笑顔を浮かべて彩奈を見つめる。

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