第70話 先輩からのアドバイスだぞ!
落ち着いた大人の女性といった印象を受ける笑顔。
加賀燈子。
恵の手術後に彼女があの加賀燈子だということを彩奈は知った。
同じ会社に属していなくても配信者であれば名前ぐらいは知っている問題児。
「……相良さん。どういうことですか?」
燈子に向けていた視線を相良へ向ける。
彼は彩奈の表情から何かを察したのか、交互に二人へと視線を向ける。
「え、え……? お知り合いじゃ、なかったんですか?」
「……知り合いじゃないです」
「でも」
相良は視線を燈子に向ける。
まるで話が違うじゃないですか、と言いたげだ。
そんな彼に燈子はウインクをする。
「ごくろうさまです。相良さん、もう帰って大丈夫ですよ」
「え、でも」
「ごくろうさまでした」
「あ、はい……では」
逃げるように去っていく相良の背中に、彩奈はため息を送る。
「買収?」
「人聞きが悪いわね。ただ、私は「彼女と知り合いだから一緒に病院に行きましょ?」って誘っただけよ」
「……はあ」
要するに、彼は騙されたということか。
彩奈は病院のベンチに座る。どうせ、帰れと言っても素直に帰ってくれないのはわかっていたから。
「何か用でしょうか?」
「ええ。でも、あなたに用はないわ」
「……では、お引き取りを」
「そうもいかないのよ。ねえ、恵くんのことを独り占めできて幸せ?」
そう聞かれ、彩奈はすぐに「はい、もちろん」と答える。
「そう。彼は何か言ってなかった? 私や、あの女のこと」
「いいえ、何も」
「へえ。本当に?」
「本当です」
席一つ分離したベンチ。
お互いに顔を真っ直ぐ前に向け、相手のことを見もしない。
それでも言葉の雰囲気や声色から、なんとなく相手の感情は読み取れた。
加賀燈子の声に怒りや苛立ちはない。
メイとは正反対に、不気味なほど落ち着いていた。
「もしかして恵くん……」
初めて顔をこちらに向けた。
「記憶喪失なの?」
彩奈はすぐには返事をせず、少し間をあけてから「さあ」と曖昧に返す。
「そう、記憶喪失なのね、彼」
「どうしてそう思ったんですか?」
「だってもし記憶があったら、彼は何が何でも私たちに連絡をよこすはずだもの。あなたは知らないと思うけど、あの日ね、彼はあの女と待ち合わせしてたのよ」
「……奈子メイ?」
「そうよ。大事な、決断を伝える待ち合わせ……もしくは、曖昧な返事をするための待ち合わせ」
クスッと足下を見て笑う燈子。
その意味深なワードや反応から、彼女もその約束に関わっているのだと理解した。
「だからどっちかに連絡を取ると思ったんだけど、どっちにも連絡取ってないみたいだから。あなたに手足を縛られ監禁されてるのかなって思ったけど」
「そんなことするわけないでしょ」
「でしょうね。だったら、記憶喪失にでもなっちゃったのかなって」
「……」
「記憶の無い彼に嘘を吹き込んで、人の人生を勝手に改変して、それで幸せ……?」
「……あなたには、関係ないですよね」
「人の男が記憶喪失なのをいいことに、勝手に寝取っておいて関係ないは違うんじゃない?」
初めて彩奈の声に感情が宿った気がした。
はっきりと、怒りのこもった声だ。
「そうですね。でも、今の彼は私といるのが幸せって言ってくれましたよ?」
「今より幸せだった頃の記憶が無いんだもの。比べられないなら、今の生活が幸せだと思うしかないと思うけど?」
「もし記憶があれば、記憶を失う前の方が幸せだって恵が言うと思ってるみたいな言い方ですね」
「記憶喪失だって認めるのね」
「……」
「あなた、本当はいい子ちゃんなんでしょ? 似合わないわよ、悪者を演じるの」
「……関係ありません」
「きっといつか、自分のしていることに罪悪感を覚えて辛くなるだけよ?」
「あなたには、関係ありません。私は、私には、恵がいてくれればそれで……」
「……そう。あなたも同じなのね」
「え?」
彩奈は燈子に顔を向ける。
彼女は真っ直ぐ前を見ていたが、ふと目線だけを何処か──彩奈が来たエレベーターの方へと向けると、微笑みそのまま立ち上がる。
「何処へ?」
「何処って、帰るのだけど」
「恵に会いに来たんじゃ?」
「会わせてくれるの?」
「……」
「でしょうね。だから今日は帰るわ。だけどその前に、”先輩”から一つ忠告」
「忠告……?」
燈子は余裕な笑みを浮かべたまま、彩奈へと背を向ける。
「あなたの心が歪む前に、引き返せるなら引き返した方がいいわよ?」
「それ、どういう……」
「さあ、どういう意味かしらね。それじゃあ、また」
燈子は本当に、恵に会わせろと言わず帰っていった。
宣戦布告?
ただ彩奈と話したかっただけ?
会話から記憶喪失なのを知って満足した?
いいや、違う。
彼女はそんなことの為にわざわざ相良に協力を頼み、ここまで来たわけがない。
きっと何か目的が……。
「……恵」
燈子は小走りでエレベーターに乗り込み、恵の病室へと向かった。
よくわからない不安があったから。
「恵!」
病室を開けると、彼は開けられた窓の外を眺めていた。
手元にはさっきまで読んでいた本。
出掛けた時と変わらない、いつもの日常。
「どうかした?」
「え、あっ、ううん。なんでもないの」
安堵して彼のもとへ駆け寄る。
だけど少しだけ、違和感があった。
「……ねえ、恵。誰か部屋に来た?」
「……いいや、来てないよ」
「そう」
一瞬だけ感じた。
恵の持つ本から、するわけがないタバコの匂いが。
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