第60話 ずっと側にいるからね?





 どうして私は、落ちていく彼をただ眺めているのだろうか。

 助けよう。助けにいかなくちゃ。そう思っても体が固まって動かない。震えて動かない。




「お前、お前……ッ!」




 恵と一緒に来た男性が須藤さんに覆いかぶさる。

 今度は両手を後ろに持っていって、ベルトで縛り付ける。


 私は、私は……。




「おい、あいつは!?」


「え、あ……」




 声をかけられ、やっと体が言うことを聞いてくれた。

 一歩、また一歩、階段を駆け下り、一番下の段でうつぶせになって倒れる恵に駆け寄る。




「恵、恵……!?」




 揺すっても、声をかけても、恵は返事をしてくない。目も開けてくれない。

 後頭部に手を触れると手の平にべっとりと赤い血が。その手が震え、気付いたら私は叫んでいた。




「恵、目を覚まして!」




 それからすぐに警察がやって来た。

 さっきまでゆっくり歩いてこっちに向かっていたのに、恵が倒れてるのを見ると急に慌てて走り出す。

 応急処置を警察の人たちがやってくれたけど、恵が目を覚ます様子はなかった。

 それからすぐに救急車がやってきて、恵が運ばれる。




「私も、私も一緒に行きます!」




 慌てて救急車に乗り込み、恵の手を握る。


 恵と一緒に来た人は警察に事情を説明すると、どこかに電話をかけていた。相手はたぶん、彼と恵の共通の知り合いだと思う。電話が繋がってすぐ「あいつが」と言っていた。


 救急車は走り出す。

 運良く受け入れ態勢が整った搬送先の病院が見つかったらしく、すぐに病院へと恵が運ばれた。

 手術中のランプが点灯する。

 私は廊下のベンチに座りながら、願うように目を閉じた。


 それからすぐ、だっきの男性がやってきた。

 その隣には小さな女の子。真っ白な顔で、全身が震えてるのが見てわかった。




「先輩は!? ねえ、先輩は無事なの!?」




 私に向かって彼女は叫ぶように聞いてくる。

 隣の彼に落ち着けって言われても「うるさい!」って、物凄く動揺しているのが伝わった。


 だから私は二人に状況を説明した。

 階段を落ちたときに受け身を取れなかったことで体のあちこち傷だらけで、中でも頭を打ったことで意識を失っているということ。

 彼女は黙って聞いていたが、全て聞き終わるとはっきりと私を睨んだ。

 何も口にはしなかったけど、あんたのせいで恵がこんな状態になっているんだぞって言っているようだった。


 それに、彼女が恵のことを大切に想っていることも凄く伝わった。


 それからすぐにもう一人の女性がやって来た。

 彼女はさっきの子よりも冷静で、恵が連れて来た男性に状況を聞いていた。

 その間も冷静な様子だった。だけど手術中のランプを見て、悲し気な表情を浮かべながら「恵くん」と声を漏らす。

 彼女もまた、恵のことを大切にしているのが伝わった。


 ……この恵を想う二人の表情を見て、生まれてからずっと心の隅に隠れていた感情がざわつく感じがした。

 だけどその感情の正体を気にすることもなく、私はただ二人から視線を背けた。


 あれから何時間が経っただろう。

 四人いるのにずっと無言な廊下。

 すると手術中のランプが消え、扉が開かれた。




「手術は無事に成功しました。ですが、まだ意識は回復していません」




 それだけを伝えると、お医者さんはどこかへ行ってしまった。

 それからは流されるように、後から来た恵のご両親と再会して、一緒に病室に行かせてもらった。


 あの三人は時間も夜になり、男性が「家族に任せよう」と言った。

 背の小さな女性だけは「いやだ、先輩と一緒にいる」と言って離れたくなさそうにしていたが、背の大きな男性が「家族が来てんだ、気を使え」と諭した。


 去り際、やっぱり彼女は私を睨んだ。

 私は目を背けた。私だって、恵がこうなったのは自分のせいだって理解してる。心苦しかった。

 だけどそれ以上に別のことを彼女に思っていた。

 今まで思ったこともない、嫉妬と憎悪を混ぜ合わせた感情。


 それから恵のご家族と一緒に、時間が許すまで恵の側にいた。

 全身傷だらけで、頭には包帯が巻かれていた。

 ご両親は一度、着替えなんかを取りに車で帰るという。次に来るのは明日の朝、お父さんは仕事があるそうなのでお母さんだけ。

 ご両親を見送り、私は一人で病室に残った。

 まだ面会時間はある。恵の寝顔を眺めながら、ずっと手を握った。




「恵、ごめんなさい……。ごめんなさい」




 何度も謝った。

 私があの時、怖がらないで体を動かして逃げていたらこんなことにはならなかった。

 何度も何度も悔いて、何度も何度も謝った。




「私が一生、お世話するから」




 お医者さんは後遺症の説明をしていた。

 首から下は問題ないが、後頭部を打ったことで何らかの後遺症が出る可能性があると。

 どうなろうと絶対に私がお世話する。

 私を守ってくれた恵を今度は私が守るから。




「一生、私が恵の側にいるからね……」




 窓ガラスに映った自分が、無意識に喜んでいるように笑っているのが見えた。

 私は慌てて顔を拭い、自分の中で少しずつ大きくなっていく感情を必死に抑え込もうとした。




「ん……」




 そんな時だった。

 閉じていた目蓋がゆっくりと開き、恵の瞳が私に向いた。




「恵……? 恵、恵!?」


「あ、れ……」




 ゆっくりとした言葉。

 だけど恵ははっきりと目を覚ました。

 私は嬉しくて、握った手に力を込めた。


 だけど、




「ここは……?」


「病院よ。あれから運ばれて──」


「──あなた、だれ、ですか?」


「え……?」




 そう言われて頭の中が真っ白になった。


 記憶喪失。

 いや、そうと決まったわけじゃない。

 階段を落ちて頭を打った衝撃で、まだ意識がぼんやりしてるだけかもしれない。




「恵、私のこと……わからない?」


「すみま、せん……えっと、けい、というのは……”僕”のこと、ですか?」


「恵、そんな……」




 気付くと涙が溢れた。




「そう、あなたの名前。橘恵」


「たちばな、けい……わからない」


「いいの、ゆっくりで」


「はい、ありがとうございます」




 お礼を言われて、胸が痛くなった。

 お礼を言いたいのは私の方だから。




「あなたは……?」


「私? 私は……」




 私は、恵の何だろう?


 同級生。

 幼馴染。

 友達で元カノ。

 今は仕事上の関係。


 どう言えばいいのか。

 なんでどれが正しいのか疑問に思ったのだろう。

 たぶん、さっきのあの子の目が……恵を大切に想う二人の女性が影響してるのかもしれない。


 このままだと、大切な彼を奪われるんじゃないかと思った。




「私はね」




 怪我してしまったこと。

 記憶を失ってしまったこと。

 全て全て私の責任。

 だったら、そう……ちゃんと責任を取らないと。一生、彼の側で支えてあげないと。


 私は生まれて初めて、自分の中に醜い心があるのを知った。




「恵の、彼女だよ」


「え、僕の……? すみません、覚えてなくて」


「いいの、大丈夫。これからゆっくり、二人の時間を作って行けば……」




 私は身を乗り出し、恵にキスをする。

 初めてのキスは罪悪感で苦しかった。

 だけどすぐに罪悪感は薄れ、別の感情が心も体も支配する。




「えっ、ちょ……」


「これからはずっと、ずっとずっとずーっと、私が恵の側にいるから。もう離れたりしない。恵がいれば、他にはなんにもいらない……。だって恵は私のだもん。絶対、誰にも渡さないんだから」




 これで、恵を永遠に一人占めできる……。 








※これにて二章終わりです。

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