第59話 夕焼け空を眺めて
一切周りが見えず俺に向かって走ってくる須藤さんとの距離は少しずつ狭まる。
「お前さえ、いなければあ……ッ!」
真っ直ぐ伸ばした両腕。
すぐ目の前まで包丁が迫るが、俺は動かず、須藤さんの目をジッと見つめた。
そんな行動を挑発だと思ったのか、須藤さんは余計に苛立ち俺を睨み付けたまま、他には何も見えていないようだった。
「うああああああッ!」
須藤さんは俺の心臓目掛けて包丁を突き立てる。
だが、その刃は俺に刺さることなく彼女の動きは止まる。
「はいはい、一回落ち着こうな」
須藤さんの体を黒鉄は後ろから抑えて止める。
「ぐっ、離して、離しなさいよ……ッ!」
手足をバタバタさせ暴れるが、ただの主婦が大男の黒鉄に力で勝てるわけがない。
「あんたがその手に持ってる包丁を捨てたらな」
「くっ、うう……」
手に持っていた包丁が音を鳴らして落ちると、今度は泣き崩れた。
かなり情緒不安定な状態だったんだな、完全に暴走した感じだ。
黒鉄が包丁を遠くへ蹴り飛ばすと、須藤さんから手を離す。
「とりあえず、これでいいか?」
「ああ、ありがとう。彩奈も大丈夫か?」
「う、うん……」
恐怖から荒くなった呼吸を整える彩奈。
視線を須藤さんに向けると、大きくため息をつく。
「どうして、こんなことしたんですか……?」
「それは、それは……ッ!」
彩奈に問いかけられ、須藤さんは再び感情を露わにするように目を大きく開く。
だが彩奈が怖がっているのを見て、すぐに視線を反らした。
「私はただ、ただ……彩奈ちゃんが心配で。変な男に──こ、この男に騙されてるから!」
「恵にですか?」
「恵? 恵……? この男? 駄目、駄目よ、男のマネージャーを下の名前で呼んじゃ駄目! 彩奈ちゃんは私たち女性のカリスマ的存在なの! あなたは私たちの見本になる行いをしないと、みんなそう思ってるのよ!?」
気になる発現だったが口を挟まず、二人の会話を聞く。
「……私は別に、誰かの見本になりたいわけではありません」
「ねえ、お願い……お願いよ、彩奈ちゃん! 考え直して、ねっ、ねえ? こんな男の操り人形になんてならないで!?」
「操り人形? 何を言っているんですか……?」
「もう隠さなくていいの! 私にはわかってる、わかってるから!」
「おい、動くな!」
立ち上がろうとした須藤さんの肩に黒鉄が手を触れようとしたが、須藤さんは勢いよく振りほどき「いや、触らないで!」と叫ぶ。
それからも彩奈へと、年上からの助言という名の強制の言葉を投げかける。
「いい、男なんてろくな生き物じゃないのよ……? 付き合いたての頃や結婚した当初は優しくしても、すぐに女を性処理の道具として見たり家事とかしてくれる家政婦にしか見なくなるの」
「それは──」
「待って、聞いて! 彩奈ちゃんはまだ若いからわかんないと思う。だけどね、これから嫌ってほどわかるの。その時になって後悔しても、私の言うことを聞いておけば良かったって思っても遅いの! 男なんて家事も子育ても手伝わない、そのくせ外に他の女を作って、醜い生物なの! だから──」
「須藤さん、私は……」
彩奈は少し迷いながらも、はっきりと伝えた。
「私は、あなたのような人生は送りません。だから、ごめんなさい。余計なお世話です」
「え……え……え……?」
須藤冴子という主婦がどんな人物であり、これまでどんな人生を歩んできたのか、俺たちは知らない。
ただおそらく、彼女は”男”という存在相手にかなりの不満を募らせてきたのだろうというのはわかった。
それは結婚前の交際のときか、結婚してからなのか。
おそらくはどちらもだろう。だが大きいのは、自身の結婚生活での不満からそういう面倒な思考に至ったのだろう。
それを彩奈に押し付けた。
男は、男は、男は。
まるで自分の人生で感じたことがその他大勢も感じてきたものだと言いたげに。
「警察にはもう通報しました。だけど須藤さんに逮捕されてほしいわけじゃありません。私たちも怪我はしてないので、あなたが逮捕されないようにします。だからお願いします、もう関わらないでください。私が須藤さんに望むのは、それだけです……ごめんなさい」
「待って、待って! ど、どうして、ね、ねえ? 私は、私は彩奈ちゃんの、あなたの為を思って──」
「──須藤さん」
彩奈にとってはどんな存在でもファンだ。
困っているとき、悲しんでるとき、支えてくれたファンの一人だ。
そして何より優しい性格の彼女に、はっきりと拒絶の言葉を浴びさせることはできない。
そして須藤さんも「でも」「だから」と言葉の圧で従えようとする。
だったらと口を挟むと、須藤さんはまるで壊れた人形のようにギギギッと音を鳴らして顔を俺へと向ける。
「本気で彼女のことを思っている人は、包丁を持って脅して来たり、襲って来たりしません。あなたのしてることは、ただの──悪質なストーカーです」
「私が、ストーカー? 私は、私はただ彩奈ちゃんを応援してるだけで」
「彼女にこんな脅えた表情をさせているのが、ただの応援なんですか?」
「私は、ただ……」
異性だろうが同性だろうが相手を困らせてる時点でストーカーだ。何より、どうやってか住所を知って待ち伏せするなんて、ただのファンなわけがない。
「警察が来たな。どうする、ここまで呼んでくるか?」
「いや、このまま連れて行こう」
サイレンの音がここまで聞こえた。
公園奥のここまで警察が来てくれるかわからない、それに黒鉄が離れて何をしでかすかわからない。
確実なのは須藤さんを連れて行き警察に突き出すこと。
放心状態の彼女なら男二人が付き添えば問題ない。それに武器となる包丁は側にはない。衝動的に今回の事件を引き起こしたのなら、ただの主婦が他の武器を持っている可能性は低い。
須藤さんを起き上がらせ、黒鉄が肩を抑えながら来た道を戻る。
俺は後ろを歩く須藤さんを警戒しつつ、彩奈に前を歩かせる。
「離せ、離せ離せ離せ、離せえ……」
「おい、暴れるな、このババア!」
少し歩きだすと、すぐに絞り出すような小さな声の訴えが聞こえた。
後ろを振り返ると須藤さんが暴れて黒鉄を振り払おうとしていた。
だが体格差が違いすぎる。
俺は彩奈に「動かないで」と目配せして、包丁の位置を確認する。
黒鉄が蹴ってくれたお陰で包丁は近くにない。であれば大丈夫、そう
思ったのだが。
「ぐああああ……ッ!?」
突如として黒鉄が苦しみだし、よろめくように須藤さんから離れると、そのまま膝から倒れる。
その右手には黒い形状のモノ。そして気付いたのは、須藤さんが走り出した後だった。
「なんで、スタンガンなんて持ってんだよ」
ただの主婦だと思って油断していたか?
ああ、そうだ。だが今は後悔しても遅い。
またどうせ俺へと真っ直ぐ襲ってくるのだろう。
主婦だろうと、スタンガン相手に対抗できるわけがない。
だがやるしかない。
幸いなことに黒鉄もすぐ立ち上がってくれた。
痛みを伴うが俺が囮になってスタンガンを抑えれば、黒鉄がこの女を止めてくれる。
そうすれば彩奈は無事だ。
そう思った。
あいつの恨んでる相手は俺だから。
だが、
「うああああああッ!」
須藤さんが真っ先に向かったのは俺でも黒鉄でもなく、彩奈のもとだった。
「よくも、よくもよくもよくも、よくも私を騙したな、このクソ女があああ……ッ!」
俺は彩奈へと駆け出す。
「逃げろ、彩奈!」
「で、でも、でも!」
恐怖で足がすくんでいるのか、彩奈は階段の手すりを握ったまま震えていた。
頭は働かなかった。
気付いたら行動していた。
彩奈の目の前、発狂した須藤さんはスタンガンを振り上げる。
俺は二人の間に割って入り彩奈の壁になった。
背中に突き当てられたスタンガンが全身を襲う。自分の体なのに麻痺して動かない。
真っ直ぐ倒れ、彩奈に覆いかぶさる。
だけど彩奈が体の自由を失った俺を抑えることは不可能だ。
──二人一緒に階段を落ちる。
彩奈に怪我をさせるわけにはいかない。
動かない体のどこを動かしたのかはわからない。
ただ力を振り絞って、彩奈へと倒れかけた体を横にずらす。
鮮やかな夕焼け空を一望する景色。
目の前には何も無い。ただあるのは、上がってきたときに息切れした長い階段だけ。
俺の体は、一切の受け身も取れずそのまま転がり落ちていった……。
「うそ、恵……いや、いや──いやあああああッ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます