第54話 決断なんて
「やっぱり、秘密」
「え、どうしてですか?」
「言葉にして言うのは少し恥ずかしい。だから、一人の時に見て?」
確かに燈子さんの作品って、過激なタイトルが多いから口に出すのに恥ずかしいって感じるか。
ぬるぬるなんちゃらとか、ハメハメなんちゃらとか、今回もそういったタイトルなのだろう。
運転中だからスマホを見る余裕はないので、俺は「わかりました」と答えて運転に集中する。
燈子さんもそれ以上その話題はせず、今回の旅行での思い出を楽し気に語っていた。
♦
「送ってくれてありがとうね、恵くん」
昼ご飯を道中で食べてから、俺は燈子さんをマンションに送った。
来る前はストーカーうんぬんがあって俺の家で生活していたけど、もうその必要もない。
彼女も「帰って編集作業とかしないと」と、あっさり帰るみたいだった。
「恵くんはこれから会社?」
「一応。報告はしていこうかなって」
「そう、それじゃあ変な視線を受けるのね」
「まあ、かもしれませんね」
いくら燈子さんのお願いだからといっても、ほぼ会社を休むようにして二泊三日の旅行をしたからな。
口には出さなくとも、嫌な視線は受けるだろうな。
考えただけでも億劫だが、こればっかりは仕方ない。
「私も一緒に挨拶に行こうか?」
「いいえ、大丈夫です。というより、燈子さんが一緒だと余計に変な噂が流れそうです」
「それもそうね。じゃあ止めとこうかな。もし怒られて落ち込んだら、さっき渡した私の作品を聴いて慰めてね」
燈子さんは別れの挨拶にキスをすると、鼻先を付けながらくすっと微笑む。
「それ聴いてムラムラしたら、いつでも家に来ていいから、ね……?」
「ちょ、それ……」
「ふふっ、じゃあね、恵くん。また」
一瞬だけ名残惜しそうな表情を浮かべた燈子さんだが、顔を離すと笑顔を浮かべながらマンションへと入っていった。
それから俺は会社へ向かった。
案の定、会社にいた社員の俺を見る目はあまりいいものじゃなかった。
だから簡単な報告を済ませて、逃げるように会社を出た。
「しばらくは会社に行きたくないな」
毎日のように出勤しなくていい会社だから良かった。
それから俺は真っ直ぐ家に帰った。
久しぶりの我が家。
すっかり時刻も夜になり、真っ暗な部屋の明かりを付ける。
「燈子さん、忘れてる……いや、わざとか」
ベットに置かれた明らかに不自然な下着。
こんなもの忘れるわけがないので、おそらくはわざと置いていったのだろう。
大きくため息をつき、下着をベットの端に寄せる。
そして着替えもせずベットに横になった。
「メイに連絡しないとな」
ふと、そう思った。
──ちゃんと過去のことを知って、加賀燈子と向き合って、そこで決断してほしい。
黒鉄から、メイの言伝を聞いた。
あれ以降、メイから連絡は来ていない。
帰ってくるのを、俺から返事をしてくれるのを待っている、ということだろう。
であれば俺から連絡すべきだ。
……はっきりと決断できていないのに。
結局のところ俺はまだ選択できていない。
メイか燈子さんか、それとも二人ともから離れるか。
ずっと俺を好きでいてくれるメイの気持ちに応えたいと思いながらも、俺の知らない過去と秘密を聞いて燈子さんの側にいて支えてあげたいと思った。
そして二人ともから離れるという選択をする可能性は、この二つの選択に比べて限りなく低い。
それはたぶん、今の生活に慣れてしまったから。いや、今の男としての幸せを失うのが怖いのだろう。
一度、極限まで上げた生活水準を底辺まで下げるような選択だ。
優柔不断な俺に、そんな選択ができるわけがない。
「決断はできてない。だけど、話さないと」
答えが出ていなくても、メイと会って話がしたい。
俺はスマホを操作して、メイにメッセージを送った。
『明日、家に行ってもいいか?』
すると、すぐに返事がきた。
『はい、待ってます』
普段なら今すぐ会いたいと言うような彼女とは違うメッセージ。
たぶんメイは決断しない俺を嫌いになることも拒むこともない。優しく両手を広げ、抱きしめてくれる。
そんなメイの優しさに甘えてしまう……そんな未来が見えているのに、嫌なことを後回しにしようと、明日の俺にその役目をぶん投げるように、ゆっくり息を吐き目を閉じる。
「そうだ、燈子さんからのデータ見てみないと」
スマホを操作して、燈子さんから送られらたデータを確認した。
添付されたデータのタイトルを見て、意表を突かれて笑ってしまった。
「いや、もう……こんなタイトルで発売できるわけないじゃないですか」
送られたデータのタイトルは短かった。
『大好きな君への、忘れさせない夜』
ASMR作品のタイトルとして売り出すのとは違う、どこか小説のタイトルのようなもの。
彼女の他作品にこういった詩的なタイトルはない。
どんな内容なのか気になった。
イヤホンを付け、再生ボタンを押した。
そしてすぐに、俺は目を閉じて笑ってしまった。
「燈子さん、こんなの発売できませんよ……」
生々しい、決して演技っぽさのない声。
それはそうだ。なにせこれは、宿でお互いに求め合った情事──その時の燈子さんの声なのだから。
これは発売して大勢の人に聴かせるために作ったものじゃない。
これはたった一人、俺に向けて”この夜のことを忘れないで”と訴える、彼女の想いが込められたラブレターのような作品だった。
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