第50話 卑怯者



 俺は体を起こす。



「だからあの時、古い旅行雑誌を持っていたんですね」

「……ええ。恵くんが大学に入学してすぐ、私が入院したとき、もし退院できたら一緒に行きたいなって思っていたの」



 俺の上に跨る燈子さんは、少し恥ずかしそうに俯く。

 そんな反応を見て、俺はからかうように笑った。




「そうだったんですね。それにしても古い雑誌を持ってくるなんて、なんだか燈子さんらしくないですね」

「そ、そうね……。もしかしたら、まだお店とかメニューが残っているかなって思ったのだけど」

「残念でしたね。……それで、結局あのストーカーは誰だったんですか?」



 ここへ来た目的でもある、カフェで燈子さんのことを見ていた三人組の男性についてだ。

 気になって聞いてみると、燈子さんは申し訳なさそうに俯く。



「ごめんなさい、あれは父が雇った探偵なの」

「探偵?」

「ずっと前から、家に戻ってくるよう父に言われていたのだけど、それを断り続けていたから、父が心配して雇ったらしいのよ」

「えっ、じゃあ俺があの場に来たのって最悪なタイミングだったんじゃ……?」



 燈子さんが言うには、大学のときに俺のことについても調べたという。であれば再び俺といる姿を見たら激怒して乗り込んできてもおかしくないのではないか?

 そう思って聞くと、燈子さんはにっこりと微笑む。



「だからこうして、遠くまで逃げてきたの。……駆け落ちね」

「駆け落ちって……」

「ふふっ、冗談よ。心配しないで、あの後、私から連絡して恵くんのことはマネージャーだって話したから」

「それで納得してくれたんですか?」

「いいえ、納得してくれなかったわ。だから言ったの、納得してくれないならもう実家には帰らないって。珍しく私が父に反抗したから、びっくりしながら渋々だけど納得してくれたわ」

「そう、ですか……」

「じゃあ、もう帰っても問題ないんですか?」

「ん?」



 ここへ来た目的は、燈子さんがストーカー被害に遭ったと言うからだ。

 安全な場所で仕事ができるように、そして彼女を守る為に俺もここへ来た。

 だがその件が解消されたのであれば、戻っても問題ないだろう。そう思った。



「ダメよ……」



 小さく声を漏らすと、燈子さんに再び押し倒された。

 押される手に全く力が入っていないのに、俺の体はすんなりと倒れる。

 彼女の長い髪が俺の頬や首を撫でる。



「二泊三日、付き合ってくれるって約束したでしょ……?」

「そうですけど」

「約束、守ってちょうだい。やっと二人になれたんだもの、誰にも邪魔させない……」



 燈子さんは消えそうなほどか細い声を漏らすと、そのまま俺にキスをする。

 手を繋がれ、少しでも重ねた唇を離そうとすると、逃がさないと言わんばかりにさらに強く求めてくる。

 全身が蕩けそうになる感覚に襲われ、気付くと俺は、彼女の腰に手を回していた。



「……三日間だけ、この三日間だけでいいから、何も言わず付き合って。おねがい。前みたいに、私の側にいて……?」



 肌寒い部屋の温度で、燈子さんの吐息の温かさが心地良い。

 潤んだ瞳で見つめられ、俺は何の言葉も返さず、背中に回した手を這わせ下着のホックを外した。



「……ありがと」



 その行動を返事として受け取ったのか、燈子さんは嬉しそうに微笑んだ。


 肯定も否定も言葉にしない卑怯な俺を彼女は咎めない。

 ただ二人とも、何も言わず何も考えず、本能のまま、欲望のままにただ相手を求める。

 もう一人の大切な彼女の存在が頭の片隅に浮かんでも、それを快楽の波が飲み込み──消そうとする。


 まるで宿題をしない子供のようだ。

 後へ後へ。嫌なことを、辛いことを、逃げだしたいことを忘れようとする。

 はっきりと答えを出さないといけないのに。

 それが自分の為でも、彼女たちの為でもあるのに。

 それなのに欲望に飲まれ、選択を後回しにする。



「んっ、はあ……ッ! 恵、くん……気持ちいい?」



 俺に跨る彼女が、艶っぽい表情で問いかけてくる。



「ええ」

「良かった」



 俺は彼女と身体を重ねる。

 罪悪感や背徳感が媚薬となり、もうお互いに止まらない。  


 ──俺は善人じゃない。

 ──だけど振り切った悪人にもなれない。


 俺はただの、

 ──卑怯者だ。

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