第48話 託す


 部屋まで向かう足取りが重い。

 俺の気持ちが、そうさせているのだろう。

 けれで明けない夜がないように、足を前に出せばいつかは部屋に着く。




「……」




 部屋の前。

 俺は意を決して扉を開けた。




「……食事は終わったの?」




 まだ浴衣は着ておらず、私服のままの燈子さんが俺を見る。

 昼間、見るのを楽しみにしていた灯籠の明かりを眺める燈子さんは、どこか寂しそうな表情だった。




「ええ、まあ」




 テーブルを挟んで向かいに座る。

 テーブルの前には何もない。電気は付いているけど、まるで何もせず、ここで俺が戻ってくるのをずっと待っていたみたいだった。




「……彼から、話しは聞いたの?」

「いえ、なにも」

「そう……。自分で話せなんて、酷ね。友達はちゃんと選んだ方がいいわよ」




 俯いたまま、燈子さんは笑った。




「俺自身も、そうした方がいいと思ったので……。黒鉄から聞くよりも、こうして」




 燈子さんと目が合って、唾を飲む。




「ちゃんと聞かないと駄目だって。──燈子さん、どうしてあの日、俺の前からいなくなったんですか?」




 おそらく彼女も、話す覚悟を決めていたのだろう。小さく頷く。




「ずっと、避けていたの……。話したらきっと、恵くんいなくなると思ったから。だけど……そうね……」




 彼女は長くなる前置きを止め、話してくれた。

 俺の知らない彼女と、過去と、どうして目の前からいなくなったのかを。











 ♦













 ──ごめんね、母の子供に生まれて。


 私が生まれたその日、母は亡くなった。

 元から病弱で、子供を産めるような身体じゃなかったと父は言っていた。


 それでも夫婦だ。

 愛し合った結果、子供が欲しいと、家族としての未来を描きたかったのだろう。

 ほんの僅かな望みを持って。


 だけどその望みは叶わなかった。

 それから私は、幼い頃から父と二人で暮らしていた。

 父は私に二人分の愛情を注いでくれた。

 嬉しかった。母の分まで愛してくれているのだと思って。


 だけど。

 だけど。

 だけど。


 子供の頃に感じた嬉しかった愛情は、少しずつ歪な情に変化していった。



 ──どうしてパパに無断でお出掛けしたんだ?

 私を心配してくれる優しい父。


 ──小学校の先生から聞いたぞ。これからは男の子たちと一緒にドッチボールするのは辞めなさい。怪我でもしたらどうするんだ。

 私を心配してくれる優しい父。


 ──今日から送迎できる者を雇ったから、学校が終わったら真っ直ぐ帰ってきなさい。いいね?

 私を心配してくれる優しい父。



 何をするのも。

 何処へ行くのも。

 何を食べ、何を飲み、何時に寝るのかも。


 全て父は管理した。

 私を、私の人生を。


 これは単なる親バカなのだろうか?

 いやこれは、きっと娘への愛情ではなく、父はただ悔やんでいるだけなのだ。


 母を亡くならせてしまったことを。

 辛かったのだろう、だから私は従った。

 苦ではなかった、といえば嘘になる。だけど母のいなかった私にとっては、この行き過ぎた干渉も嬉しかった。

 普通の子供ではなかったけど、誰かに愛されるというのは幸せだった。


 だけど、その干渉はあるきっかけを機に悪化した。



 ──どうして、どうして……娘まで、私から奪うというのか。



 母と同じく、私も生まれつき身体が弱かったのだった。

 今まで多少なら許されていた小学校での運動は完全に禁止され、貧血で倒れたり、入退院を繰り返すことが多くなった。

 そんな私を見て、父は亡き母の姿と重なったのだろう。

 母も入退院を繰り返し、大量の薬を飲み、運動は一切してこなかった。


 だからだろう。

 父はより一層、私の人生を縛りつけた。


 父は会社を経営していたから裕福な家庭ではあった。

 学校の送迎から始まり、学校の授業や行事にまで干渉するようになった。


 最初に入院した日をきっかけに、体育の授業に出たことも運動をしたこともない。

 そうして人とは異なる人生を送っていくと、次第と友達は減っていき、一人でいることが多くなった。


 それに入退院を繰り返していたから、学校にだって長く通っていた記憶はない。

 病室で、父が雇った先生に勉強を教えてもらう。

 優しくて楽しい先生だった。けれど友達と”普通”に遊ぶのとどちらが楽しかったかと聞かれれば、答えは決まっていた。


 ただ病室のベッドで横になりながら窓の外を眺めていると、なんだか籠の中の鳥のような気分だった。



 だけどそんな私にも、数人の友達がいた。

 学校で配られたプリントを持って病室に遊びに来てくれた。

 楽しかった。同い年の子と遊ぶ幸せは、きっと普通の生き方をしていたら味わえなかったと思う。


 ──だけどこの幸せも、そう長くは続かなかった。


 中学生になると、病院に遊びに来てくれていた友達は来なくなった。

 地区が異なり、その友達とは別の中学になったからだ。

 要するに友達ではなくなった。だから病院へ、私に会いに来てくれる人は誰もいなくなった。


 いや、いたか。

 私の体調を心配──いや、母の亡霊に縛られた父と、その父が雇った大人たちが。


 お陰で勉強はたくさんした。

 中学だけでなく、その先のことまで。

 なにせ病室は暇だから。何もすることがないから、勉強した。


 そんな勉強漬けの私にも楽しみがあった。

 それは病院内にあるコンビニで売っている旅行雑誌を見ることだった。

 退院したら行きたい場所に丸を付けたり、そのページに折り目を付けたり。父はきっと反対すると思ったから、隠れて、大事にして、旅行雑誌を眺めた。


 いつか行きたいな……。

 

 だけど一人で行くよりも、誰か友達と行きたかった。

 そして遊びに来なくなってしまった友達のことを考えながら、私の中にある、父から受け継いだ醜い感情が少しずつ目を覚ましているのを自覚した。



 ──私の側から離れないようにするには、どうしたらいいのかな?

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