第44話 どうしてお前が…!?






 何日間も飲まず食わずいたところに、いきなり目の間にご馳走を差し出されたような感覚。

 唾を飲み、俺は見つめてくる燈子さんの背中に腕を回そうとした。


 だけど、




「──ママ、早く早く!」




 静かで落ち着いた雰囲気だったナイトプールに、突如として子供の声が響く。

 声がした方を向くと、プールサイドを小走りする小さな女の子と、それを追いかける両親の姿。




「残念、もう少しでできたのに……」




 小さく漏らした燈子さんの言葉は、どっちの意味だったのだろうか……。


 本当にしたかったのか、それとも、ただからかっていただけなのか。

 だがそれを聞けない。




「どう、少しはお腹空いた?」


「ええ、まあ」


「良かった。それじゃあ行きましょうか」




 燈子さんに手を引かれ歩く。


 こうして燈子さんにからかわれることはよくある。

 彼女がSっ気が強く、俺が困っているのを見るのが楽しいからだ。

 ずっと前から、よくそんなことをされているからわかる。


 ただ今回はどうだろう。

 少しだけ……ほんの少しだけ、いつもと違ったような気がした。

 気のせいかもしれないけど、なんとなく。




「じゃあ、着替えたら待っていてね」




 そう言って更衣室に向かう燈子さんの後ろ姿も、少しだけ変だったような気がした。















 ♦













「やっぱり、おかしい……」




 ロッカールームで着替えながら、俺はボソッと呟く。

 今日の──いや、さっきの燈子さんはおかしかった。

 何が? と聞かれれば答えられない。だけど何かが。




「──お客様、プール内での性行為は固くお断りさせていただいております」


「えっ!?」




 不意に声をかけられた。

 咄嗟に反応した俺。だが目の前に立つ男は、今まで何度も見たことのある男だった。




「黒鉄!? どうしてここに!?」


「よっ!」




 そこにいたのは黒鉄だった。

 大きな体格の黒鉄がベンチにドカッと座ると、微かにギシギシと音が鳴った気がした。




をこなす為に決まっているだろ?」

「……依頼を? だが俺が頼んだのは、燈子さんのストーカーを暴き出してくれってことだけど」

「そうそれ。まあここでお前たちを張っていた方が、その話に出て来た連中に出会えると思ってな。苦労したんだぜ、レンタカーでの長旅はよ。久しぶりの運転で全身バッキバキだ」




 疲れたアピールする黒鉄。

 俺は着替えながら問いかける。




「わざわざその為だけにここに来たのか? もう夜だ、日帰りじゃないだろ。それにこのナイトプールに入れるのは宿泊者だけだ」

「宿泊者だからここに入れたに決まってるだろ? ほら、405号室のカギ」

「……は? お前がここに?」




 俺は確かに黒鉄に依頼した。

 依頼料を払うといっても、わざわざこの宿に泊まろうと思うわけがない。黒鉄というのはそういう男だ。

 金を使うならギャンブルへ。

 そんな男が俺の依頼の為にわざわざレンタカーを借り、宿代を払い、時間と労力をかけるわけがない。




「いつからそんなに友達想いのキャラになったんだ?」

「酷い言われようだな」




 笑うだけで何も言わない。

 だが黒鉄の反応を見てはっきりとわかった。


 ──こいつは俺に何か隠している。




「それより燈子さんを待たせていいのか?」


「それは……」


「そうだ、お前の唯一の友人として挨拶させてもらおうか」


「は!?」


「わざわざここまで来たのに挨拶無しってのもな。そうだ、一緒に夕飯でもどうだ? 一人で食べるのも寂しくてなあ」




 何を考えているのかわからない。




「悪いが」




 ここは断るべきだろう。

 だが、




「──彼女がどうして、大学進学と同時にお前の前から消えたのか……知りたくねえか?」


「……それって」




 長い沈黙が生まれる。

 断るべきだと頭の中ではわかっている。

 今の黒鉄は変だ。どうして燈子さんに接触しようとしているのか、その理由もわからない。

 わかっている。わかっているんだ。

 だが目の前にぶら下げられた情報は、俺が最も知りたかったことだ。


 それはストーカーの件よりも、俺にとっては重要なことだ。

 どうしてあの日、燈子さんは俺の前からいなくなってしまったのか。それを今もなお、知りたい。




「……燈子さんに、変な話をしないって約束できるか?」


「ああ、もちろん。おいおい、友達を疑うなんてよしてくれよ?」


「友達だから、お前が変なことしようとしてるってわかるんだよ」


「悲しいねえ。……だが、俺は何もしない。安心してくれ」




 ──俺は、か。




「最後に一つ聞かせてくれ」


「なんだ?」


「レンタカー代に宿代、今日の費用は全てか?」




 そう問いかけると、黒鉄はニヤリと笑った。




「いいや」




 あっさりと答えた黒鉄は立ち上がる。




「全て終わったらわかるから、まあ、もう少し待てって。なあ?」


「話せないか。わかった、燈子さんに紹介するからいい感じのキャラでいてくれよ?」


「真面目風でいいか? それとも根暗なオタク風か?」


「どっちもその風貌には無理だ。普通でいてくれ、普通で」


「いつも普通なんだが、まっ、善処するぜ。相棒」


「都合のいいときだけそうやって……」




 ケラケラ笑う黒鉄と共に更衣室を出る。


 不安しかないが、今は流れに身を任せるしかない。

 俺は黒鉄と共に燈子さんの下へ向かった。







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