第39話 彼女を助手席に乗せて



 大学生のとき、たくさんバイトをして、免許を取って車を買おうかな、なんて思っていたときがあった。

 友達が大学でできた彼女と旅行するって自慢してくるのが羨ましくて、俺も行きたいなって。

 小さな軽自動車でもいいから、助手席に彼女を乗せて……なんて。




「……なんだか、恵くんらしいわね」




 助手席に座る燈子さんは、クスッと笑った。

 視線の先にある初心者マーク。それは俺が、免許を取って一年以内だということを意味している。




「大学に入ってすぐに免許を取ろうかなって思っていたんですけど、なかなかバイトをする時間が取れなくて……結局、卒業前になっちゃいました」


「卒業前に取ったのは、就職のため?」


「ええ、求人票を見たら、普通自動車のマニュアル免許が必須なところばかりだったので。GG株式会社も必須ですね」


「へえ、そうなの。この会社、別に車が運転できたからっていいことないのに」




 それは入社してすぐに思った。

 現に俺は免許を持っているが、通勤はバスだし、燈子さんやメイや彩奈の家には電車だったりバスだったり、なんならタクシーで行くから車が運転できてもあまりいいことはない。


 仕事で私有車を使う人もいれば、一部の人は社用車を使ってる人もいる。

 新人が社用車を使いたい、なんて言えないから、結局のところ今日の今日まで免許があって良かったことは一度もない。年齢確認のときに役に立ったぐらいか。




「まあ、免許はあっても腐らないものなんで……ただ今日は、電車で行けば良かったなって思います」


「どうして?」


「いや、その……運転に慣れてなさすぎて、なんだか周りの車に迷惑がられてないかなって」




 高速道路にはまだ乗っていない。

 ハンドルを握る両手に力が入り、法定速度はきっちり守っている。それなのに後ろの車からは「もっとスピード出せよ」みたいな空気を感じ、隣の車線からはビュンビュン抜かれていく。




「周りが急ぎすぎなだけの気がするけど」


「そうでしょうか」


「うん。ほら、隣の車」




 燈子さんは隣の車を指差す。

 信号待ちになったタイミングで隣を見る。




「隣の車の人、きっとサラリーマンなのね。車が止まった瞬間、ネクタイを締めてパンをかじって飲み物を飲んで……忙しそう。寝坊したのかしら」


「いや、普段から車の通勤はあんな感じかもしれないですよ」


「大変ね……あっ、目が合っちゃった」




 バッと顔を背ける燈子さん。

 だが俺は反応しきれず、サラリーマンの男性と目が合ってしまった。

 お互いに見つめ合う形になり、数秒、信号が青になって俺は慌ててアクセルを踏んだ。




「ビックリした。あの人、恵くんのこと睨んでたよ?」


「睨まれてはないですけど、めちゃくちゃ気まずかったです」


「ふふっ、きっとあの人「このカップル、平日だっていうのに朝からデートかよ、ムカつく!」って思ってるんでしょうね」


「もし俺が向こうの立場だったら発狂してますね」


「平日に出掛けて、仕事してる人を見て悦に浸れる……平日に休める仕事で良かった」


「……燈子さん、めちゃくちゃ性格悪いこと言ってますよ」


「あら、つい本音が」




 くすくすと笑い出す燈子さん。




「あっ、今日はお昼からお酒を呑んじゃおうかしら」


「いいんじゃないですか、たまには」


「恵くんも一緒にどう?」


「俺は運転があるので」


「お昼までに目的地に着けば大丈夫じゃない? だって午後は旅館の周りの観光地を見る予定だもの。そのときは、別に車とか乗らないでしょ?」


「まあ、それなら……」




 じゃあ決まりね、と燈子さんは嬉しそうに手を叩く。




「恵くんってお酒、強い方?」


「人並に、ですが……」


「本当に? 酔って私に「チューしたいチューしたい」って甘えてきたりしない?」


「ちょ、そんなこと言いませんから!」


「あっ、恵くん恵くん、ちゃんと前見て運転して!」




 動揺してか、つい運転中に横を向いてしまった。

 ハンドルを握り直し、ほっと息を吐く。そんな姿を見て、燈子さんは嬉しそうに笑う。




「ふふっ、やっと緊張がほぐれてくれた」


「え……?」




 燈子さんはそう言うと、少しだけ体を俺の方へ寄せた。




「だって恵くん、運転してからずっと固いんだもの。話しかけても返しが定型文みたいだし」


「それは、まあ……教習所以来の久しぶりの運転なんで。事故ったりしたら大変じゃないですか」


「そうかもしれないけど、そんな感じで何時間も運転してたら肩凝っちゃうわよ? あっ、そうだ、夜マッサージしてあげよっか?」


「いや、いいです!」


「遠慮しないでいいのよ?」




 燈子さんにマッサージをされて、ちゃんとした理性を保てる自信がない。




「まあ、夜になったら拒んでもするけど」


「……」


「そうそう、高速道路に入ったらパーキングエリアに寄ってもいい?」


「はい、いいですけど。トイレですか?」




 運転しながら問いかけると、なかなか返事がこない。




「燈子さん?」


「……女性にトイレかどうか聞くのは、ちょっとデリカシーないんじゃない?」


「あっ、つい……」


「まったく。トイレもあるかもだけど、そこのパーキングエリアにあるお店のソフトクリームが有名なのよ。ほら、ここ」




 信号待ちになると、燈子さんが旅行雑誌を見せてくれた。

 開かれたページには折り目が付けられていて、燈子さんが行きたいといったソフトクリームの特集ページだった。




「テレビでもやっていたのよ、ここ。一度でいいから行ってみたかったのよね」


「そうなんですか。気になってたのに、今まで行かなかったんですか?」


「一人で高速道路内にあるパーキングエリアのお店で、ソフトクリームを食べるってのはちょっと……こうして誰かと行く機会がないと来れないもの」




 そう言いながら、燈子さんは雑誌に付けられた他の折り目のページを見る。

 折り目の付いたページは他にもいくつかある。それは今回の目的地の方向にあるお店や観光名所ではなく、全く別方向のもあった。


 きっと、いつかは行きたい場所なんだろう。




「燈子さんって、そういう雑誌見るの好きでしたよね?」




 付き合っていたときから、燈子さんは”旅行”が好きだった。

 学生生活の中でどんなに忙しくても、事あるごとに「今度の週末、ここ行かない?」と聞かれ、行けないときはよく旅行や観光地、それにオススメのお店の雑誌なんかを見ていた。


 だから何の考えもなく聞いた。




「……まあ、ね」




 声色が少しだけ暗かった気がした。




「燈子さ──」


「──こういう雑誌を見ていると、旅行に行った気分にならない? だから好きなのよ、こういう雑誌」





 そう言って笑った燈子さんに、俺はこれ以上は聞かない方がいいのかなと思って「そうですね」と頷き返した。











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