二章 ~誘惑する彼女は天使か悪魔か

第30話 聖女に手を差し伸べられて


 あの時のことは今でも鮮明に覚えてる。


 少し肌寒くなった季節。

 時間は昼過ぎで、昼食を終えた大学生が大勢いた。

 そんな大学からすぐ出た場所で、神宮寺と神崎がいて、周りにも大勢の大学生がいた。


 大して年齢が大きく違うわけでもないのに、どこか子供と大人のような違いがあった。

 派手な明るい髪色に、オシャレだろう服を着ている。

 そんな連中が俺を睨み、嘲笑い、指を差す。


 さっきまで怒りが込み上げていたのに、今ではこの場から早く逃げたいと思っている。




「おい、このストーカー野郎! 人の女に付きまとったこと土下座して謝罪しろよッ!」




 神宮寺が吠えると、取り巻きたちも「そうだそうだ」と呼応する。

 神崎は神宮寺の陰に隠れたまま、微かに口角を吊り上げ笑っていた。


 関係のない女大学生も俺を笑い、通りすがりのサラリーマンは俺を一瞥して去っていき、買い物帰りの主婦が口元を隠して何かを言っている。

 まるでここにいる全員から「お前が悪い」と言われているような気がした。




「俺は、ただ……俺は」


「おい、ぶつぶつ言ってないでとっとと謝罪しろよ!」




 俺が悪いのか?

 俺が謝らなければいけないのか?


 そう思って、震えた両足がゆっくりと折れる。

 片膝が地面に突き、周囲の奴らが一斉にスマホを俺に向ける。




「す──」


「──ねえ、どうして彼が謝らなくちゃいけないの?」




 ふと、声がした。

 その声は神宮寺と神崎の後ろから、間を割って俺の耳にも、周囲の人たちにもはっきりと届いた。

 全員が声がした方を向く。

 男性でも女性でも見惚れるほど美しい女性が、頬に手を当て首を傾げていた。




「……おい、燈子。それはどういう意味だ?」


「どういう意味も何も、彼が悪いっていう証拠があるの?」


「証拠も何も、被害者のまどかがそう言ってるんだぞ? これ以上の証拠はないだろ」


「ごめんなさい、被害者がそうだと言ったら、それだけで彼がストーカーしたことになるの? だったら私が今から、あなたにレイプされたって警察に言ったら、あなたが逮捕されちゃうのかしらね?」


「そんな屁理屈を」


「だってそういうことじゃない。ねえ、みんなもそう思うでしょ?」




 燈子さんは神宮寺ではなく取り巻きたちを見つめながら問いかける。


 そんな彼女に見つめられ、さっきまで神宮寺に従って俺を詰めていた男たちは頬を赤く染め「え、えっと……」と言葉を詰めらせる。




「証拠もないのにご主人様と一緒に吠えて……ねえ、自分たちが気持ち悪い人間だっていう自覚はないの?」




 燈子さんは声色も表情も一切変えず、神宮寺の取り巻きに吐き捨てる。

 男連中はその言葉を受けて黙り、何も彼女に言い返さなかった。


 そして燈子さんは、近くで見ていた外野の女大学生に視線を向ける。




「あなたたちも、どうして彼にカメラを向けているの?」


「だって、この子がストーカーだって……」


「彼がストーカーだって証拠もなく、無断で動画を撮ってるの?」


「……」


「そんな子だって、大学で言いふらしちゃおっかな……? きっと私の言葉なら、みんな信じてくれるんじゃないかな?」


「そ、それだけは……あっ、次の講義があるんで、それじゃあ!」




 逃げるように去っていく女大学生。

 気づくとこの場にいった大勢の人たちが姿を消し、ここには神宮寺たちしかいない。




「さて」




 一人、また一人と周囲を黙らせた燈子さん。その表情はどこか満足したような感じがあった。

 そんな彼女は俺へと近づいてくる。


 前を塞ぐ男連中が彼女の道を開ける。だが、神宮寺が彼女の歩みを止めるように立ち塞がる。




「おい、どこに行くつもりだ?」


「どこって、彼に手を貸すつもりだけど? 外は寒いから、一緒にコーヒーでも飲んでこようかしら」


「……まさかお前が、あんなガキみたいなのがタイプだったとはな。通りで俺の誘いに──」


「彼がタイプかどうかはわからないけど……ふふっ、ごめんなさい。あなたを男性だと思ったことは一度もないわね」


「──ッ!」




 燈子さんはそう言って、俺の目の前でしゃがむ。




「ねえ、君。大丈夫……?」




 手を差し出された。

 その姿は、まるでおとぎ話に出てくる聖女のようだった。




「は、はい。ありがとう、ございます……」


「ふふっ、どういたしまして。寒いでしょ、はい、立って」




 手を握り返して立ち上がる。

 絶望していた心が一瞬で晴れたかのような感覚。




「いきましょうか。ああ、私は加賀燈子。燈子でいいからね」


「えっと、自分は橘恵です」


「よろしくね、恵くん」




 にこりと笑顔を浮かべる彼女に俺は見惚れていた。


 この時の俺は、彼女に救われたと思っていた。

 これから自分が、彼女に狂わされるとも知らずに──。








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