第9話 善人が堕ちた日
高校生のとき──。
神崎まどかは俺の一個上の先輩だった。
彩奈みたいに明るくて綺麗な人──ではなく、彼女のことを一個上の先輩に聞いても、十人中九人は「え、誰それ?」と答えるような陰の薄い地味な人だった。
そんな彼女と出会ったのは学校の図書館。
「この席、空いてますか?」
「あ、は、はい、どうぞ……」
空いている席が他になかったから、彼女に聞いて隣に座った。
出会って間もないときの神崎は、絶対に目を合わせてくれなかった。
異性と……というよりも、友達と話したことが今まであまりなかったらしい。
それから彼女とは図書室で会うことが増え、何回も俺から話しかけると、次第に彼女は笑うようになってくれた。
その変化が、当時の俺は嬉しかった。
話せば話すほど最初の暗い印象は薄れていき、俺にだけ明るくなっていった。それから少しずつ距離が縮んでいった。
そして俺が高校二年生で、神崎が三年生のときに付き合うことになった。
俺の人生で二人目の彼女。
ただ友達には不思議に思われた。
──どうして神崎まどかと付き合ったんだ?
そう、何度も聞かれた。
明るく話をしてくれる彼女を俺は知っている。
だけど接点のない人からしたら、目も合わせてくれない、話をかけても声が小さくて何を言っているかわからない、かわいくない、と評判は最悪だった。
はっきりと言わないけど、周囲には疑問を持たれた。
ただそんなこと、俺はどうでもよかった。
地味な子でも。
かわいくなくても。
一緒にいて楽しかったから、別に良かった。
どんな彼女でも好きだった、いつまでも変わらずにいてほしかった。
──だが、彼女は大学へ進学すると別人へと変わってしまった。
進学当初は連絡もたくさんしていた。
それが一か月、二か月と月日が経つにつれ頻度が減っていった。
これだけなら、大学生活が忙しくなったのかなと思えた。
彼女の容姿は少しずつ変わっていった。
高校生のときは眼鏡で、目が隠れるほど伸びた前髪。
それをばっさり切り、髪色も黒から明るい派手な茶髪に変えた。
これも大学生になって新たな友達からおしゃれを教わった──そう考えられた。
……いや、そうだと自分に言い聞かせ、頭をよぎった不安を言葉にしたくなかった。
「──それ、大丈夫なのか? 俺が昨日見たAVの『大学に進学した彼女は、俺が知らないあいだにヤリサーの先輩に寝取られていた』みたいだけど」
彼女の変化について知った友達は、心配そうにしながら言う。
俺も口には出さなかったけど、彼女の変化は異常だ。
ただ俺は、そんなことないと信じようとしていた。
俺と出会うまで恋愛のれの字も知らないような神崎まどかが浮気なんて……って。
けれど時間が経てば経つほど、不安や疑念は大きくなっていった。
彼女が浮気なんてするわけない。
そう思いながらも、信じることができなかった。
「まどかさん、どういうことですか……?」
「……えっ!?」
神崎から俺は、大学には近づかないでとほしいと頼まれていた。
理由は、みんなに見られるのが恥ずかしいから、だそうだ。
その約束を破って会いに行った俺が目にしたのは、神宮寺徹という俺の二個上の男と浮気している神崎の姿だった。
俺を見た彼女は慌てて顔を逸らす。
だけどすぐに俺──ではなく、腕を組む神宮寺に助けを求めた。
「徹くん、こ、こいつ! こいつが前に話してた気持ち悪いストーカー男!」
神崎の吐き出した言葉の意味が理解できなかった。
「ん? ああ、そういえばそんな話してたか」
その場には、神崎と神宮寺、それと二人の友人が何人かいた。
周囲には同じ大学に通う学生たちもいる。
神崎の言葉を聞いて、周囲の視線が一気に集まる。
未だに神崎の言葉が理解できていなかった俺の耳に、周囲の人たちの声が聞こえてくる。
「え、あの子、ストーカーなんだって」
「うそ、こわっ……」
違う!
そう言い返そうとして声がした方を向くと、周りの人たちは「うわ、こっち睨んだ」と脅えて逃げていく。
だけど周囲の見物人が減ることはない。
去っていった人の代わりに新しい人が来て、周囲の会話を聞いて俺を見ながら小さく笑う。
違う違う違う、と心の中で叫んでも声が出ない。
そんな俺の困惑する表情を見て、神宮寺が鼻で笑いながら俺を見る。
「おい、ストーカー野郎!」
周囲の人たちに聞こえるような大きな声を発して、俺への視線は更に悪化する。
「一応聞くが、彼女とはどういう関係なんだ?」
「そ、それは、彼女の恋人で……」
反論する声が小さくなる。
周囲の視線が気になって、それに、彼女に「ストーカー」呼ばわりされて自分の言葉に自信が持てなくなったからだ。
そんな俺の自信のない返事を聞いて、神宮寺は再び周囲に聞こえるよう大きな声を発した。
「恋人? それにしては随分と自身がなさそうだな? 本当はストーカーくんの妄想なんじゃないのか?」
「違う! 俺は……俺は……」
否定しようとした瞬間、俺は神崎まどかと目が合った。
申し訳なさそうにしているのか。神宮寺に俺の存在がばれて動揺しているのか。それはわからない。
だがふと、我に帰った。
──あれ、なんで俺って神崎のこと好きなんだっけ? と。
♦
何年も経った今でも、忘れられずに覚えてることがある。
神宮寺の俺を見下し馬鹿にしたあの顔も。
俺をストーカー呼ばわりして気持ち悪がった神崎の顔も。
ただの暇潰しやストレス発散に喚き散らすあいつらの友人の顔も。
何の関係もない、ただその場で俺を見て笑った周囲の人たちの顔も。
終わったこと、過去のこと、そう自分に言い聞かせても無理だった。
どんなに些細なことでも、ふとした瞬間に思い出す。一度負った傷口は、些細な出来事をきっかけに抉られ、絶えず血を流し続ける。
「──すっきりできましたか、先輩?」
だけど、メイを抱いている間だけは苦しくなかった。
それどころか、どんなに思い出してもむしろ気分がいいほどだった。
「……くすくす、久しぶりのえっち、すっごく気持ちよかったです。ね、先輩♡」
気づけば時間は昼から夜へと変わり、部屋の中は暗くなっていた。
電気を付ける元気はなく、汗だくの身体を拭うこともなく、そのまま俺はベッドで横になっていた。
隣で横になるメイも、俺から離れようとはせず、裸のまま「やっぱり先輩は凄いですね」と楽し気に笑う。
「……メイ」
「はい、どうかしましたか?」
「神宮寺に脅されているって、さっき言っていたよな?」
「はい、言いました」
そうか、と俺は小さく頷く。
「メイは、あいつに脅されて従うのか?」
「先輩以外の男に従う気はありません。あの人、まだメイのこと諦めていないみたいですけど、メイのご主人様は先輩だけなので」
「そうか。俺は今日からメイのマネージャーだ。メイが何の問題もなく配信活動ができるようにサポートしろって会社に言われている」
「はい」
「脅されているって、それはメイの活動を邪魔しようとしてるって解釈でいいんだよな?」
そう問いかけると、メイは俺をジッと見つめながら頷いた。
「はい」
「だったら、どんな手段を使ってでも排除しないといけないよな?」
「はい、その通りです♡」
嬉しそうに微笑むメイを抱き寄せる。
熱を帯びた温もりが再び密着すると、彼女は耳元で囁く。
「メイは先輩だけのものですから、だからもう……逃げちゃダメですよ、先輩♡」
アイドル時代、大勢の男たちを虜にしてきた。
今はVTuberとしてネット上で全世界にファンを持つ。
そして何より──あの神宮寺が必死に口説いても落とせなかったメイは、俺に依存している。
誰もが羨む彼女を何度も抱く。
そんな極上の果実を味わった者が、簡単に手放せるわけなかった。
一度でも堕ちた人間は簡単には戻れない。
俺のような、どん底まで堕ちきった者ならなおさら。
──だって俺は、大勢の男たちが抱きたいと思う人気者の女を、独占し依存させて興奮する、正真正銘のクズ野郎なんだから……。
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