第8話 忘れさせてあげますね
「ちょっと待ってくれ、メイ!」
ネクタイを外され、上着を脱がされて、ようやく俺は彼女の手を止めた。
「あのとき言ったはずだ。もうお互いに関わるのは止めようって」
そう伝えると、メイの手はピタリと止まった。
150ほどと小柄な彼女。
丸顔の輪郭に沿わせた髪で、髪色は染めたであろうピンク色。
顔付きは19才という年齢よりも幼く見えるが、大きすぎる胸に引き締まったお腹、触り心地のいいお尻は、顔には似合わず暴力的だ。
そんな彼女──
「はい、聞きました。でも、メイは頷いてないですよ……?」
「……俺が悪いのは理解している。申し訳ないと思っている。だけどまだやり直せ──」
「もう、先輩ったら。謝ったらダメですよ」
俺の口を塞ぐように突き出した人差し指。
「先輩と付き合ってるとき、すっごく楽しくて、幸せで、気持ちよくて……。メイ、あの日に戻りたいんです」
「俺と付き合っていたら、絶対に駄目になる……。メイもわかっていたはずだ」
「はい、わかってます。先輩と付き合っているとき、先輩以外のことはなんにも考えられなかったですもん」
「だったら──」
「──それの、何が悪いんですか?」
メイはさも当然かのように俺に問いかける。
「起きたらまず先輩のことを考えて、化粧をするときに「先輩このメイク、気に入ってくれるかな?」って考えたり、ご飯を作ってるときに「先輩に作った手料理、喜んでくれるかな?」って考えたり……ベッドでえっちなことしてるときも「ああ、先輩、気持ちよさそうな顔してくれてる」って、嬉しくて、幸せで……くすくす、メイ、あのときが幸せだったんです」
おそらく俺と付き合って、同棲していたときのことを言っているのだろう。
それに関しては俺も同じだ。なにせ彼女は、本当によくできた彼女だったんだ。
彼女といるのが楽で、満たされて──他の全てを捨てていいとまで思って。実際にメイは、大切だったものを捨てた。
「俺が、メイの人生を狂わせた。人気絶頂中のアイドルだったメイを、俺の、俺の──醜い欲望と復讐に巻き込んで、引退させた」
「アイドルを引退したのはメイの意志ですよ? もっと先輩との時間を作りたかったんですもん」
「そう思わせたのが駄目だったんだ。だから」
「もちろん、先輩がこれ以上自分と一緒にいたらメイがダメになるって。メイを思って離れたことも知っています」
「だったら」
「──だけど、ダメです♡」
メイの舌が、首筋をツーッと這い上がっていく。
全身がゾクッと震える。彼女はそのまま俺の耳元で伝えた。
「もう、後戻りできない身体になっちゃったんですから。先輩がいなくなった間、苦しくて苦しくて……ずっとここ、疼きっぱなしだったんですよ?」
腰を前後に動かしながら、敏感な部位を刺激してメイは俺を誘う。
俺がどうしたら興奮するか、どう誘えば欲情するか、完全に熟知している彼女。
「あぁ、んっ……先輩だって、ほら、もうこんなにおっきくなってる」
「メイ、もう……」
「もう、仕方ないですね。真面目で意固地な先輩に一つご報告があります」
メイはそう言うと、俺をジッと見つめる。
「実は少し前から──
「じん、ぐうじ……?」
不意を突かれたように出てきた名前に、俺の頭の中が真っ白に染まる。
「はい、あの神宮寺先輩です。「もしも俺の女にならなかったら、お前と橘恵の過去をネットにばらすぞ」って……」
「どう、して……」
「メイが、弧夏カナコとして活動しているのを勘付いて、脅してきたんです」
「神宮寺……神宮寺……神宮寺ッ!」
壊れた人形のように、その憎い名前を何度も口にする。
少しずつ鼻息が荒くなり、全身が怒りによって震えているのがわかる。
すると、メイは優しく俺の身体を抱きしめた。
「先輩、このままだとまた……メイ、悪い男に弄ばれちゃうよ」
「神宮寺……」
「それと、今も神宮寺先輩は神崎まどかとも関係を持っているそうですよ」
「神崎、まどか……」
神宮寺、神崎。
その名前を聞いただけで、吐き気がするほど気分が悪くなってくる。
俺の人生を狂わせた二人。
俺の人間性を狂わせた二人。
俺が殺したいほど憎んでいた、あの二人。
「先輩が、あの神宮寺先輩の魔の手から救ってくれたのに、怖いよ……」
助けてほしい、じゃなく、あの頃に戻って。
メイの表情には脅えや不安は一切なく、付き合っているとき俺にめちゃくちゃにしてほしいときにする顔だった。
「大丈夫ですか、先輩……? とっても苦しそうです。汗も、こんなに……」
息が荒くなっているのが自分でもわかる。それに全身から流れ出る汗も止まらない。
そしてメイは、俺のYシャツを脱がすと立ち上がった。
「苦しそうな先輩。かわいそうな先輩。嫌な記憶を思い出させちゃった悪い子のメイが、一生懸命に癒してあげますからね……はい、立ってください」
手を引かれながら、俺は別の部屋へと向かった。
そこは寝室であり、パソコンなどの配信機材が置かれた部屋。
力無くベッドに倒れると、メイは俺の足下で膝を突く。
「先輩はなんにも考えないで、ただ目を閉じていてください。メイが嫌なこと、全部忘れられさせてあげますから……ねっ、先輩♡」
彼女は俺のズボンに手をかけると、にこりと笑顔を浮かべた。
俺は何も考えられず目を閉じた。
そして思い出されたのは、あの──最悪な日のことだった。
♦
真面目で、優しくて、一途で──。
中学生のとき、彩奈が友達に聞かれて恥ずかしそうにしながら、俺の好きなところとして上げた言葉。
男であれば最高の誉め言葉だ。
それから俺は、真面目で、優しくて、一途であり続けようと誓った。
だが、彩奈は知らない。
そんな橘恵が、高校生のある日──醜い感情に支配されて、壊されたことを。
「──はいはい、橘恵くん、土下座土下座」
「おら、さっさと神宮寺先輩と神崎さんに土下座しろよ!」
「もう、徹くんもみんなも怖いって。彼、泣いちゃうんじゃない?」
「ああ? まどかお前、もしかしてこいつに気があんのか?」
「はあ? んなわけないじゃん、こんな気持ち悪いストーカー男」
「ぷっ、あははっ! ストーカー男だってさ、かわいそうな恵くん!」
「ほらほら、ストーカーくん。ごめんなさいは? ストーカーだからごめんなさいもできないの? 先輩の彼女を苦しめたこと、悪いと思ってないのかなあ!?」
彩奈と別れてから異性と付き合っていなかった俺にできた二人目の彼女──神崎まどかを、大学生の先輩であった神宮寺徹に奪われた。
神崎まどかが柄の悪い男と一緒に歩いていたと、友人から知らされたのがきっかけだった。
俺はありえないと。友人の言葉を信じられなかった。
あの大人しかったまどかが、そんなことするわけない……。
もしかしたら大学生の先輩に騙されているんではないか、もしそうだったら助けないと。そう考えていた。
そして神崎まどかと神宮寺徹が二人でいるところを見つけた俺は「まどかから離れろ!」と神宮寺に詰め寄った。
ヒロインを救い出すヒーローのように。
──だが。
彼女は慌てながら、俺とは付き合っていなかったと、俺をストーカーだと、神宮寺に説明した。
それを知ってか知らずか。
いいや、全て知っていた神宮寺は、大学の友人と共に──俺を笑い者にしようと土下座を強要した。
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