第6話 自分だけのものに……。
「どうして、燈子さんが……」
いや、確かにインターホンから聞こえてきた声に聞き覚えはあった。
だけどまさか、これから担当するASMR配信者──
「あれから、大学を辞めてね……。配信者としての活動を始めたのよ」
俺の二個上の先輩で、今年24歳になる
色白の艶やかな肌、豊満な胸元まで伸ばした茶色の巻き髪。あの頃のような見つめられたら逸らせないほどの細い吊り目。
そして、ぽってりとした厚い唇と、その左下にある黒子。
男性を性的な意味で誘惑する要素を多く持つ彼女だが、脳にすんなり届くこの声も、あの頃と変わらない……。
「そう、だったんですね」
「ごめんなさい。せっかく同じ大学を選んでくれたのに」
燈子さんは申し訳なさそうに謝ると、俺をソファーに座るように促す。
「コーヒーでいいかしら?」
「あ、ありがとうございます」
激しく鳴り続ける鼓動を抑え、無意識に溢れ出てくる汗を拭い、俺はソファーに座ったままキッチンに立つ燈子さんに視線を向ける。
彼女は俺の視線に一瞬だけ気付いた素振りを見せたが、すぐに視線を下げ、コーヒーの用意を続けた。
「相良さんも、加藤さんも、教えてくれていたら……」
もしも、夜草燈火さんが加賀燈子さんだと事前に知っていたら、俺はここに来なかった。
来るはずがない。
彼女の顔を見ただけでも、声を聞いただけでも、あの日のことを思い出すんだから。
「私が、恵くんには内緒にするよう言ったのよ」
「えっ?」
コーヒーカップを二つ持ってきた燈子さんは隣──だけど人一人分のスペースを空けて座った。
「はい、コーヒー」
「ありがとうございます。それで、内緒にするよう言ったって」
「私の新しい担当になる方の名前が橘恵だって、前もって加藤さんから聞いていたの。それで、もしかしたらあなたじゃないかしらって。だから私の個人情報は伏せてもらったの」
「どうして!?」
身を乗り出す勢いで反応すると、燈子さんは目を伏せた。
「私だとわかれば、あなたは来てくれないんじゃないかと思ったの」
「それは……ええ、たぶん担当になることを拒んでいたかもしれないです」
「だから内緒にしてもらったの。こうして、また二人で会うためにね」
燈子さんはコーヒーカップをテーブルに置くと、俺をジッと見つめる。
「私のこと、憎んでる……?」
その問いに、俺は少し間を空けてから答えた。
「俺の前から消えたときは、憎みました……。だけど今は、燈子さんがどうしてあんなことをしたのか理解できてるので、憎んでません」
その言葉に嘘偽りはない。
「私のこと、嫌い……?」
「いえ」
「そう……。じゃあ、私から提案があるの」
いつもは鋭い視線の燈子さんの目が、困ったように見えた。
だけどすぐに気合を入れたかのように、強く俺を見つめる。
「お互いに色々とあったけど、これからは恵くんと一緒に頑張っていきたいと思っているの。二人三脚で、一緒に……」
表情には出さないけど、声が少しずつ弱々しくなっているのがわかった。
きっと、申し訳なさがあるのだろう。
だけど彼女は俺と一緒に頑張りたいと言ってくれた。
俺は笑顔を作り、頷く。
「もちろんです。あのときの俺は、燈子さんに救われました。だから今度は俺が、燈子さんの力になりたいんです。まあ、こんな俺に何ができるんだって感じですけど」
笑いながら伝えると、燈子さんの表情が一瞬にして晴れたように見えた。
「ありがとう、恵くん。これからは一緒に頑張りましょう」
「はい、よろしくお願いします。それじゃあ──」
それから俺と燈子さんは、彼女の配信内容や配信時間、それからプライベートのことなども相談を受けた。
これから一緒に頑張ろう。
俺はそう心に決めた──のだが。
♦
家に帰ってくるなり、俺は両耳にイヤホンを付け、スマホで夜草燈火のチャンネルを確認した。
彩奈の”彩奈ちゃんねる”のチャンネル登録者数は80万人だ。
80万人もの人がチャンネルを登録する。これほどの人を集めている配信者は一握りしかいないだろう。
これはもの凄い記録だ。
が、燈子さんの運営する”夜草燈火”というチャンネルの登録者数は250万人を越えていた。
しかもそれは、四度のアカウントBANされての数字だ。
アカウントをBANされた、というのは、要するに集めたリスナーが四度も0人になりながらも、こうして250万人にチャンネル登録してもらっているということになる。
誰もが認める、大人気配信者だろう……。
「……」
俺は彼女のチャンネルにある数多くの配信の中から、一つの動画を選択した。
それは、失恋した”後輩”を慰める”先輩”というシチュエーションだった。
そのタイトルを見た瞬間、俺は再生ボタンを押していた。
画面は無に等しい。
学校のイメージ画像のような静止画に、様々な音声がイヤホンを通って流れてくる。
いいマイクを使っているのか、通勤用で使うだけの1980円のイヤホンでも綺麗に音が流れてくる。
外したネクタイを投げ捨て、目を閉じる。
『……そんなに辛そうな顔して、どうかしたの?』
普通に会話するよりもはっきりと聞こえる吐息と、あのお姉さんボイスの燈子さんの声。
『失恋、か……。辛いよね』
演技だとわかっていても、声を聞くだけでまるで燈子さんが俺に投げかけてくれているような気がした。
それに場面も、目を閉じていても容易に想像できる。
次第に場面は進む。
失恋した後輩を先輩が慰める。
その手段として、自分に堕ちるよう誘惑する。
まだ他の女性を好きな後輩は抵抗するが、それを先輩が言葉巧みに誘う。
シチュエーションとしては無理があるかもしれないが、それでも、男ならこういう妄想をした者もいるだろう。
それにだ。
体験した者が聞けば純粋に慰めてくれるASMR配信となり。
体験していない者からすれば、痴女めいた先輩に誘惑されるASMR配信となる。
どちらにしろ、そういった疑似体験を得られる。
そして何より、言葉の選択や間の取り方、決して淫語を使っているわけではないのに男を興奮させるのが上手だ。
人気が出るのも頷ける。
「燈子さんって知らなければ、きっと俺も純粋なファンになっていただろうな……」
これからは仕事仲間として、二人三脚で頑張っていくと約束した。
だが燈子さんの家にいたときも、このASMR配信を聞いているときも、ずっと俺の中に潜む醜い自分が囁いていた。
囁いて、背中を押して。
気付くと俺は、囁かれた言葉を口に出していた。
「燈子さんを、自分だけの女にしたいな……」
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