第5話 エロい声のお姉さん
「橘くん、こっちこっち!」
時刻は19時を少し過ぎたころ。
相良さんから連絡を貰ってからすぐに合流した。
車に乗ると、目的地に向けて走り出す。
昼間にも見た車内にある何かのアニメのキャラクターに目が止まる。
見た目は人間のロリっ娘だけど、大きな耳と尻尾があってキツネかな? と思う。
「悪いね、こんな遅い時間に」
「いえ、大丈夫です。ただ相手の方は良かったのでしょうか?」
今回は単なる顔合わせではなく引継ぎという業務だ。
玄関先で「どうも、これから担当する橘恵です。それじゃ」みたいに、一分や二分で終わるわけはないだろう。
俺は別にいいけど、向こうの……それも相手は女性と言っていたから、嫌がられていないか不安だ。
顔合わせ前に嫌われるのはごめんだ。
「二人のうち一人は明日の午前ってことになったんだけど、もう一人の方はどうしても今日がいいって言うんだ」
相良さんはため息をつく。
「引継ぎ業務はめんどくさいので早く終わらせたい、っていう理由みたいだそうだ」
予定なんかはさっさと済ませたいタイプの人なのかな。
まあ、俺も引継ぎ業務をどちらも後日にするよりも、今日中に終わらせた方が楽だからいいか。
「自分が担当するお二人って、元は相良さんが担当して方々なんですか?」
「いや、二人は僕の担当じゃないんだ。お昼に事務所で揉めていた彼女、加藤さんっていうんだけどわかるかい?」
「担当している男性配信者が未成年のファンの子としちゃった、っていうあの」
「そうそう。実はこれから会う二人の担当は加藤さんだったんだ。だけど今回の件で研修を受けることになって、少し担当を外れることになったんだよ……」
要するに、問題を起こした配信者の担当だったから、コンプライアンス等の研修をしないといけないということだろう。
そしてその間、マネージャー業務ができない──もしくは、担当する資格がないから代えられるということだろうか。
「なるほど」
まあ、あまり触れない方がいいのかな。明日は我が身、じゃないけど。
「それで、これから担当するお二人ってどういう方なのでしょうか?」
「ああ、そうだったね。明日、会う予定の方は明日の午前中に説明するよ。実は僕もまだ、加藤さんから詳しい説明を受けてなくって。それで今から会う方については口答での説明で申し訳ないんだけど、”ASMR配信”をしている女性タレントさんなんだ」
「ASMR、ですか?」
「そう、配信サイトとかにあるんだけど、聞いたことはある?」
「一応ですけど、あります。砂を包丁でざくざく切るやつですよね?」
ASMR配信は、主に聞いていて心地よく感じられる癒やしの音声を提供する配信だ。
音フェチ、に向けた配信で、俺も疲れたときに聞いていた時期があった。
だけど、女性ってことは……?
俺は相良さんの表情を見ると、少し難しい顔をしていた。
「まあ、想像通りで……ヒーリングミュージックみたいに小鳥のさえずりや小川のせせらぎの音を流すわけでも、心地のよい砂を切ったりといった配信でもない。女性の声がメインなんだ……」
「なるほど」
ASMRには自然な音や、作り出された音ではなく、人の声のものもある。
「橘くんは、女性のASMR配信とか聞いたことあるかい?」
「すみません、あまりなくて」
「そうか。彼女は”完全男性向け”のASMR配信者なんだ」
「完全、というのは……?」
よく女性のASMR配信で聞くのは「今日もお仕事頑張って偉いね!」とか「生きてて偉いね!」とか、褒めてくれたりする配信だ。
それは別に男性向けではあるが、完全に、というほどでもなく同性だって聞くこともある。
だから疑問に思って聞いた。
すると相良さんは何か言おうとして止め、また口を開いてという動作を繰り返す。
「男性を……その、性的興奮状態にする感じなんだ」
「性的、って、えっ!?」
ASMRの一部には、そういったR18のものもあるって聞くけど。
「でもそれって、配信サイトの規約的に大丈夫なんですか?」
R18のものはいわゆる作品として、そういったアダルトコンテンツとして有料で売られる場合が多い。
だから世界中に、ましてや全年齢が視聴できる配信サイトで流していいのか疑問だった。
「もちろん、言ってはいけない言葉……淫語だったりは口にはしていないんだ、彼女の配信。それでも、その……」
ハンドルを持つ相良さんが、急にもぞもぞしだした。
「相良さんも、もしかして……」
「……リスナー、なんだよね。だ、だだだ、だって彼女は、他のASMR配信者とは段違いの実力なんだ! 決してエロいわけでもないのにエロく聞こえる言葉! 緩急をつけた僕を誘惑する吐息! そして、そして……多種多様なシチュエーション! 橘くんも一回でも聞いてみなよ、イクよッ!?」
こんな相良さん、見たくなかった。
「は、はあ……とりあえず、完全男性向けというのは理解しました。配信サイト的には問題ないのでしょうか?」
「えっと、実は彼女……四度ほどBANされた経験があってね」
「それ、大丈夫なんですか?」
BAN、ということは、アカウントを消去されたということだろう。しかも四度って、それはもうアウトなんじゃ?
「それに関しては問題ないよ。彼女、元々は個人でやっていたんだけど、これ以上はBANされたくなくてうちと契約したんだ。うちが間に入って上手くやっているから。最近の作品だと──」
相良さんは少し……いや、かなり熱の入った作品紹介を始めた。
ただしてくれるのはリスナー目線の紹介ばかりで、正直なところ、俺が欲しかったその人の性格や俺たちに何を求めているかといった仕事関係の話は聞けなかった。
まあ、明日会う女性タレントさんも、そのASMR配信をする女性タレントも、相良さんの担当じゃないから、どんな性格なのかとかは加藤さんしか詳しくわからないのだとか……。
ただ一つだけ。
バタバタした今日一日の中で、加藤さんから俺に伝言があった。
『配信中、テンションが上がるとエロくなるのでそれを止めてください。私みたいに研修地獄になりたくなかったら』
と、皮肉混じりに。
「よし、着いたよ」
不安を抱えたまま、高層マンションに到着する。
そして、車は駐車場に停めるとかではなく、マンションの前に停まった。
「実は、これから橘くんが担当する彼女からのお願いで、一人で来てほしいそうなんだ」
「えっ、自分だけですか?」
「彼女、担当者以外には素顔も個人情報も知られたくないみたいで、家にも入れたくないみたいなんだよ。だから……そういうことで!」
相良さんはそう言うと、車を走らせた。
「この会社、本当に大丈夫なのか……?」
理由は理解できたけど、不安になってしまうほど適当だ。
というよりも、相良さんが適当なんじゃ。もしかして使えない先輩だったり……。
「いや、入社初日で無粋な考えは止めておこう。きっと疲れてるんだ」
俺はそう思いマンションへと向かった。
配信者、というか有名人では当たり前となっている一階にあるインターホン。
「夜分遅くに申し訳ありません。GG株式会社から来ました、橘恵です」
誰が聞いているかわからないため、相良さんから教えてもらった彼女の活動者名義もチャンネル名も口にせず挨拶をする。
すると、インターホンの先からの返答はなかったけど、オートロックの扉が開く。
「入れ、ということだよな……」
返事すらもらえないとは思ってもみなかった。
かなり性格に難があるのでは、と思ってしまう。
そんなことを考えながら、相良さんから聞かされていた部屋の前に到着する。
ピンポーン。
インターホンを鳴らすと、ガチャ、というカギを開ける音が聞こえた。
「どうぞ」
扉の奥から女性の声がした。
たった三文字の言葉なのに、相良さんの話を聞いたからか、大人のお姉さんといった印象を受ける声のように聞こえた。
でも、あれ……。
この声、どこかで聞いたことが。
「失礼します」
扉を開けると、声の主は既に玄関にいなかった。
靴を脱ぎ、彼女が待つであろうリビングへと向かう。
「夜分遅くに申し訳ありません。本日より担当させていただく、橘恵と──」
リビングに座った彼女に下げた頭を、ゆっくりと上げる。
すると目が合った彼女は、俺に笑顔を浮かべて手を振っていた。
「やっぱり、橘恵って……恵くんのことだったのね」
「どうして、
そこに座っていたのは、俺が高校生のときに付き合っていた大学生の先輩であり──”三人目”にできた彼女の加賀燈子さんだった。
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