第3話 彼女に笑顔を




『──ごめん、恵。私たち、別れよう』




 放課後。中学校の教室。

 夕焼け空が窓から差し込み、外からは、野球部の怒号に近い掛け声が聞こえてくる。




『東京に行くこと、決めたのか……?』




 少し前から彼女からそう言われる予感はしていた。

 ただ実際に言われると、全身から嫌なほど変な汗が溢れ出てくる。




『ごめん、なさい……。やっぱり、モデルになりたいって夢を諦められない』

『そっか』

『本当に、本当に……ごめんなさい』




 涙を流しながら、彼女は何度も頭を下げた。


 彼女との関係は、家が隣同士で家族ぐるみの付き合いという、よくある幼馴染だった。

 最初は友達で。それから異性としてお互いを意識し始めたのは中学生のこと。

 俺から告白して、彼女も同じ気持ちだと言ってくれて、俺たちは付き合うことになった。

 期間は一年とちょっと。

 付き合う前から一緒にいることが多かったけど、恋人になってからは、違った形で毎日が楽しかった。




『別に謝ることなんかないって。モデルになりたい。彩奈の小さいころからの夢だって、ずっと言っていたじゃないか』




 俺たちが住む街から東京へは、飛行機を乗らないといけないほど遠く離れていた。

 遠距離恋愛、という選択肢が頭に浮かんでも、それにお互いが堪えられる自信はなく、俺という存在が彼女の夢の邪魔をする気がして、その選択肢を言い出せなかった。




『だけど! ……だけど』

『俺はお前の夢を応援してるから。だから、泣かないで……』




 彼女の泣き顔を見ていると、俺の頬をスーッと涙が垂れる。

 それを拭って笑おうとすると、余計に涙が溢れてくる。




『と、とにかく、俺は応援してるから! だから行ってこい。なっ、彩奈』

『恵……。ありがとう。私、頑張るから。絶対に有名なモデルになるから』




 彼女は涙でぐしゃぐしゃになったまま、無理に笑ってみせた。


 幼馴染であり、中学生のときに初めてできた彼女──早瀬彩奈≪はやせあやな≫。

 そして数日後、彼女は小さいころからの夢だったモデルになるため、東京へと引越した。

















 ♦















 中学生のときから腰辺りまで伸ばしていた黒髪は、肩ぐらいまでに切り揃えられていた。

 目鼻立ちが良く、切れ長な目は、可愛いというよりも綺麗な大人びた印象を受ける。

 背丈は165ほどと高く、すらっとした体型。


 久しぶりに再会した彼女──早瀬彩奈は、本当に綺麗な女性に変わっていた。




「えっと……」

「……」




 お互いに目を合わせたまま固まった。




「あれ、もしかして知り合いでしたか?」




 相良さんはオドオドとしたまま、俺と彩奈を見る。




「もし知り合いであれば、このまま自分が担当を──」

「──いえ、知り合いじゃないので大丈夫です」




 彩奈は、はっきりとそう言った。


 当然ではあるけれど、透き通った今の声は、中学生のときの幼い声から変わっていた。




「そうでしたか。彼は今日から彩奈さんの担当になる橘恵くんです」

「そう、ですか……」




 視線を下げ、自分の腕を掴む手にギュッと力を込める彩奈。


 そして彼女は俺を見ると、頭を下げた。




「彩奈と申します。今日から、よろしくお願いします」




 他人行儀の挨拶。

 どこか余所余所しい言葉。




「彼女は女性向けの配信をメインにしていて──」

「相良さん、後は自分で説明しますので」

「え、でも……」

「担当していただく方には、自分で説明したいんです」




 彩奈の言葉を聞いて、何も知らない相良さんは「そうですね」と手を叩く。




「わかりました、では後のことはお任せしますね」




 相良さんは来て早々に部屋を出て行った。

 リビングに俺と彩奈の二人っきりになると、彼女はソファーに腰掛ける。




「……久しぶり、恵」

「俺のこと、覚えていたのか」

「当たり前よ。忘れるわけないじゃない」




 彼女に促されて、俺は近くにあった椅子に座った。




「……まさか、新しい担当さんが恵だなんて思ってもみなかった。恵も私のこと、何も聞かされてなかったんでしょ?」

「まあな。出発前に色々とあって、相良さん忙しそうだったから。忘れていたんだと思う」

「そういうの、大事なことなのにね」




 苦笑いを浮かべる彩奈だったが、俺も彼女も、本当にしたい話題は違うのだとわかっている。

 ただその話をしていいのかわからず聞けなかった。


 お互いに沈黙が続く。


 だが、聞かないと始まらないと気付く。




「……モデルになるって夢、どうだったんだ?」 

「……」




 彩奈は何も言葉を返さなかった。

 きっと聞かれたくないことなのだろう。そんな話をせず、仕事だけの関係になればいいんだと思うけど、それでも、彼女の口から聞きたかった。




「……諦めちゃった」




 配信者として活動しているのだから、そうなのだろうとは思っていた。




「夢を見て東京に来たのに、一度もモデルとして仕事することなく夢を諦めちゃった。恵に応援してるって、背中を押してもらったのに」




 彩奈は流した涙を隠すように、抱えた膝に顔を埋めながら言った。




「私、ダメダメだった。世の中には私よりも凄い人がたくさんいて、どんなに努力をしても駄目だった。何度もオーディションを受けても落ちて、養成所に通うお金が必要だから何時間もバイトして、頑張ってたけど……心が先に、折れちゃった」




 小さい頃から、彩奈はモデルになりたいと口にしていた。

 そして努力家だということも、幼馴染である俺は知っている。

 そんな彼女が途中で心が折れてしまったというのなら、相当な辛い経験をしたのだろう。




「相談してくれてもよかったじゃないか」

「そんなの──」




 顔を上げた彩奈は目元を涙で濡らしていた。




「そんなの、できないよ……。恵と付き合って、私の我が儘で別れたのに、辛いからやっぱりモデルになる夢を諦めるなんて言えるわけない。あなたのことを苦しめたのに、相談なんて……」

「俺は付き合ったことも、別れる選択を受け入れたことも、後悔なんてしていない。俺は彩奈と付き合えた一年とちょっと楽しかった。その考えは今も変わってないよ」

「恵……」

「だからさ、彩奈のファン一号である俺に相談してくれても良かったんじゃないのか? まあ、相談してもらって何かできるわけじゃないけどさ」




 俺は笑いながらそう伝えた。


 正直いえば、モデルになれなかったことは知っていた。

 彼女が東京へ旅立ってから、俺はずっと早瀬彩奈というモデルの名前をネットで検索し続けた。

 だけど引っかかることはなかった。

 それに彩奈の両親からも上手くいっていないことは聞いていた。俺から連絡を取ろうかとも思ったけど、連絡して、なんて声をかけていいかわからなくてできなかった。




「ありがとう、恵……」

「気にすんなって。それに今は、別のことで頑張ってるんだろ?」




 新しく自分のやりたいことを始め、その努力が実を結んだ。




「その手伝いを今度は隣でできる。次は彩奈を一人にさせないから、何かあったらなんでも相談してくれよ?」




 そう問いかけると、彩奈は涙を拭いて笑顔を浮かべた。




「うん!」





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