第二章

第32話 気付かぬ予兆

 汗まみれの身体を、井戸から汲んだばかりの冷たい水で流していく。

 まだ冬ではないとは言え、その足音はもう聞こえていた。水の冷たさに身体が跳ねそうになるのを抑える。それでも、何度も浴びるうちに、少しずつ水の冷たさにも慣れてくる。身体の芯から熱が出てくるのだ。本当に熱くなっているのかはわからない。それでも、凍える水の冷たさに抗うように、熱くなっていく気がした。


 朝の空気が濡れた髪と身体を冷やしていく。


 上半身裸で何度も井戸水を被っているルークスのことを、同じ長屋の住人はどう思うのだろうか。幸いにも井戸水を汲みにくる住人はいなかった。いや、ルークスのこの姿を目にして、水を汲みに来ることができなかったのかもしれない。

 井戸の周りを水をぶちまけるような状態にしてしまったルークスは、少しだけばつが悪くなりつつも自宅に戻った。濡れていない場所から水を汲んでくれるのを祈るばかりだった。


 竈に火を入れ、湯を沸かす。とりあえず小ぶりの鍋に湯を沸かして、タライと大鍋に分け、どちらにも水を追加した。少しぬるなった湯を使って、もう一度顔を洗った。手ぬぐいを湯につけ、身体を拭く。ほんのりと温かい手ぬぐいが、冷えた身体に心地いい。髪の毛を拭きながら服を着る。そして、いつものパン粥を多めに作る。

 ランドに声をかけて、一緒に食事を摂った。ランドはまだ起きたばかりなのか、何も食べていなかった。


「母さんはどうだ?」

「んっと、きのうもらったスープはたべられたよ」

「そうか。まだ寝てるのか?」

「うん。たぶんねてる」

「それなら、あとでこのパン粥を持っていけ」

「ありがとう」


 ふと、なぜここまで隣の家のことを面倒見ているのかわからなくなった。まるで子守じゃないか。その上、その母親も気にかけるなんて、と自嘲した。

 ランドの母親とは少し喋ったことがある程度だ。ルークスよりは少し年下だろう。ランドを連れて二人で暮らしているのだ。それなりの苦労はあるはずだが、少しだけ疲れた表情を見たことがある程度で、基本的には身綺麗にしていた。決して若いわけではなく、 派手さもない。痩せ過ぎても、太りすぎてもいない。大きな特徴があるわけではない。強いて言えば、女には珍しく髪を肩より上でばっさりと切っていることくらいだった。それでも食堂や酒場で働けば、多少は目を引くだろう。

 多少話した感じでは、人当たりも悪いとは思わなかった。それにも関わらず、ランドの面倒を見ている者が、中年冒険者のルークスと裏に住んでいる老人だけというのも奇妙だ。

 少しだけ思考が変な方向に行きそうになるのを抑え、ルークスは飯を食べることに集中した。食べ始めればすぐに椀は空になった。自分の器を片付け、ついでに湯を沸かす。


「ランド、お前も茶飲むか?」

「いつものおちゃ? それならいらない。にがいもん」

「そうか、お前にはまだ苦いか」

「うん。それよりきょうはおじちゃんどこかいくの?」

「買い物に出ようかと思っている。帰ってきて時間があれば、軽く剣の鍛錬だな」

「けん! やりたい!」


 そう言って、ランドは粥をかき込む手を止めてこちらをじっと見てくる。


「ああ。一緒にやるか。少しだけ見てやる」

「やった! いつかえってくるの?」

「昼すぎだろうな。七の鐘がなる頃には戻ってくると思うが、腹が減るようならパンでも食っておけ」

「わかった!」


 沸いた湯で茶を入れているとランドも食事を終えたのか、器を台所に持ってきた。


「ごはん、ありがとう」

「おう。よし、お前の家に行くか」


 残ったパン粥の鍋を持ち、ランドの家へと入った。器を用意させ、そこに粥を移していく。温くなってしまうが、仕方ない。わざわざかまどに火を入れるわけにはいかないし、ランドに火の扱いをじっくり教えるのもためらわれた。ただ、いつか覚える必要がある以上は、近いうちに教えるのも良いかもしれない。そのうち考えるとしよう。


「よし。ランド。これを母さんに持っていってやれ。俺は出かける準備があるからな」

「かえってきたら、けんのやくそくだよ」

「ああ。わかった」


 そう言って、ランドの頭を一撫でしてから、ルークスは自宅に戻った。

 昨日買うことができなかった道具類の仕入れと、丸薬の材料があれば、それも買うつもりだった。肩紐を適当に補修しただけの背負い袋も、本格的に修理しなくてはならない。

 背負い袋を確認しようと持ち上げたところ、それよりも先に、適当に片付けただけの道具や装備の整理をする必要があることを思い出し、少しだけ憂鬱になった。

 ひと纏めにしてあった荷物から胸当て、革長靴も修繕できるところはしておきたい。そして、手甲や足甲の購入も考える必要がある。

 なんていうことだ。ルークスは独りごちた。時間と金がまた飛んでいく。

 必要経費だから割り切ろう。そう思いながらも、明確な利益が見えず、しかも予測もしづらい類の経費は、冒険者として三年経ったとは言え、元商人としてのルークスを苛むのだった。

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