一通の封筒
あれから数週間,惰性で日々過ごしていた。昇進こそしたものの,仕事に精を出す気にはなれないまま,何となく出社する。帰ったら習慣的にテレビをつけ,味のしないコンビニ弁当を機械的に口に運ぶ。濃い味付けだから食べるのは控えろ,とさんざん親に言われたのを思い出す。美味しいものを食べれば幸福感を得られると人は言うが,本当は逆なのかもしれない。気の合う友達と安酒を飲めばいい気分になり,どんなに下手くそでも,彼女が作ってくれた料理なら,高級レストランで食べるコース料理よりも格別なものになる。
今のおれは,幸福感とは無縁のところにいた。
やりがいのない仕事に,味気ない生活。「休日返上で研究と修養に努めろ」と罵倒する山下の発言を耳障りに思いながらも,自主的に勉強していた日々が懐かしい。それなりに必死にやってきたつもりではあったが,掴もうとして手の中に残っているのは,空虚な感覚そのものだった。
そんな生活を送っていたある日,スマートフォンに見慣れない番号の着信があった。登録していない番号からかかってくることなど滅多にない。いつまでもなり続ける呼び出し音に背中を押され,気は向かないが電話を取った。
電話口の向こうから聞こえる懐かしい声に,背筋が伸びた。
「住田くん,急に悪いね。今は忙しいかな?」
「とんでもございません。ご無沙汰しております」
「仕事の方はどうだい? 慣れたかね?」
萬田社長に部署の業績予想を報告し,社交辞令を並べる。いったい何の用事でわざわざ電話をかけてきたのか,警戒心から肩が凝り始めたころ,社長が本題を切り出した。
「これから,本社に来られるか? 話があるんだ。できれば直接話がしたい」
時計の針は,十時を指そうとしている。だいたいの時間を計算し,即答した。
「新幹線と電車で乗り継いでも,三時間後には着くと思います。それでもよろしかったでしょうか?」
「構わんよ。個室の美味しいところが本社の近くにあってね。そこでお昼にしながら話をしよう」
店の名前を控えて,電話を切る。
社長と二人で昼食をとると想像して,無意識に襟を正す。外出を察した秘書が持ってきたビジネスバックを受け取り,「適当に仕事を切り上げて,先に退社していてくれ」とだけ伝えて,足早に部屋を後にした。
社長に指定された店の高級感に圧倒される。店の門をくぐると,入口までは日本庭園を思わせる通路を歩いた。のれんをくぐるまでに,調理場がガラス越しに見えるようになっており,そこでは職人が丁寧に料理をしている姿があった。
女将さんに案内された座敷には,すでに萬田社長の姿があった。
「お待たせして大変申し訳ございません」
「とんでもない。遠方から急に呼び抱いて悪かったね。それに,堅苦しいのは無しだ。取りあえず座りなさい」
おしぼりで手を拭いている間に,さっきの女将さんがビール瓶とグラス,上品なお通しを持ってきた。
「お酒は好きかね? 良かったら一緒に飲めたらと思うのだが」
「ご一緒させていただいてもよろしいのですか。では」
互いのグラスにお酌をし,乾杯をした。萬田社長は味わうようにビールを口に含んだかと思うと,一気に飲み干した。それに合わせて,おれもグラスを空にする。
「面白い体験をさせてもらったよ。君はどうやら,特別な何かを持っているに違いないね」
萬田社長は間髪入れずにビール瓶を持って,おれのグラスに注ぎながら愉快そうに話した。おれは一言,お礼を言って萬田社長のグラスにも酒を注ぐ。
数週間前に社長に会ってから,特に連絡を取り合ったわけでもない。あの日も,とりわけ会話をたくさんしたわけでもないのに,なぜか萬田社長には親しみが感じられた。この人も,もしかしたら営業が好きなのかもしれない。そして,きっと営業成績も抜群なものに違いないと,偉そうにそんなことを考えていた。
食事がひと段落すると,萬田社長が胸ポケットから封筒を取り出し,神妙な顔をした。
「プレミアムリビングの件では,不憫な思いをさせたね」
「とんでもございません。出過ぎた真似をしましたし,盲目的になっていました。先方にも,失礼が過ぎたと反省しております」
「恋は視野を狭くする。でも,それは決して悪いことではない。力の伝わり方と一緒でね,尖れば尖るほど,力は増すものだ」
萬田社長は心地よさそうに頬を赤らめ,おれの前に封筒を置いた。
「これが,河本君から届いた。その前に,アイさんの話をしないといけないな」
急に萬田社長の顔が曇る。厳しい話を察したおれは,唇をかむ。一つ頷いて,萬田社長に覚悟が出来たことを示した。
「彼女,と呼ぶのがふさわしいかは分からないが,そう呼ばせてもらおう。彼女は,先日政府の研究機関に送られた。君の話した内容に,非常に多くの研究者が興味深い反応を示したようだ。例の,君の前で感情表現が豊かになっていたという話だ。結論から言おう。彼女は,スクラップにされた」
スクラップ,という言葉が,無機質に,冷たく脳内にこだまする。アイさんがモノとして処理されたことが,これほどまでに適切に表現する言葉が他にあるだろうか。そして,気持ちの整理をつけたつもりではあったものの,もうこの世にはいないという事実を認識するたびに,心が痛む。
「それで,何か分かったのでしょうか」
アイさんは,何かを残せたのだろうか。ただ人間の都合のいいように働かされ,動物実験のように解析され,最後はごみのように扱われた。そんな人生など,あんまりではないか。研究に携わる人たちが,人情のある集団には到底思えない。せめて,次は心を持った人生を送ってほしい。それだけがおれの願いだ。
「彼女についての報告は,悪いが何も受けていない。ただ,これを見ればいくらか分かることもあるだろう」
そう言うと,萬田社長はおれの前に置いた封筒に目を落とした。
中身を読みたい気持ちと,読むことで自分の中で何かが崩れていきそうな恐怖の中で,おれは覚悟を決めた。
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