第21話 夢の別れ

 紗矢音が一人で忍び込んだ化生と戦っていた時、桜音はまだ桜の上で眠っていた。

 夢を見ていたのだ。

 桜音の意識は千年前へと引き込まれ、まだ若木だった小さな桜の横に立つ。目を覚ました桜音の頬に、幼さの残る顔だちの姫が触れた。

さや……?」

「どうなさったのですか、桜音さま。ぽかんとなさっていますよ」

「ああ、いや……。懐かしくて、ね」

 桜音の目の前に立つ澄姫は、あの頃と寸分たがわない。最期に見た彼女もまた、同じように柔らかく微笑んでいた。

 懐かしくて愛しさが溢れ、桜音は澄を抱き締めようと手を伸ばす。しかしその手は澄をすり抜け、桜音は目を見開いた。

「澄、きみは」

「わたしは、もうこの世にはおりません」

「──……」

 はっきりと告げられた言葉は、あまりにも残酷で。桜音は言葉を失って立ち尽くした。

 ですが、と澄は言葉を続けた。寂しげに微笑み、澄の細く白い指が愛しい人の手に触れる。

 熱も冷たさも感じないそれに、桜音は改めて意識させられた。彼女はもういないのだと。

「ですが、わたしの魂を継いだ方がおられます。全てがわたしのものではありませんが、あなたはきっと、彼女を愛おしく想うことでしょう」

「僕は、澄が欲しい。……けれど、もう触れることすら叶わないんだね」

 悔しくて、裏切るような心地だ。桜音は澄を想うよりも強く、あのひたむきな姫君を愛しく想う自分に気付いていた。時の流れのせいか、それとも己の心変わりか。徐々に大きくなる紗矢音の存在が熱を発し、桜音を戸惑わせる。

 しおらしく肩を落とす桜音に、澄は思わずといった様子で吹き出した。

「……ふふっ。あなたのその優しさは、千年経とうとも変わらないのですね。安堵致しましたわ」

 流石、わたしの愛しい方。澄は柔らかく微笑むと、桜音の手を離して一歩退いた。

 追おうとして手を伸ばす桜音を制し、澄は微笑んだ。何処までも優しく、突き放す。

「あなたの生きる世は、こちらではありません。今あなたが大切に守りたいと願う方は、わたしであってはならないのです。……人の心が移ろうのではなく、時が移ろうのですから」

「澄……ありがとう」

 桜音は触れられないと知りながらも、澄を抱くように腕を回した。澄がはっと息を呑んだのがわかったが、構いはしない。

「僕は、澄を何よりも愛おしいと想っているんだ。同時に、きみの魂の欠片を持つ紗矢音に惹かれることも自覚している。……僕は、決してきみを忘れない」

「ええ、存じております。あなたは誰よりも優しくて、わたしにとって何よりも愛おしく思う方ですわ。……だからこそ、紗矢音を大切にして欲しいと願うのです。あのはわたしの代わりではなく、あの娘自身なのです」

「……そして、僕の本体である千年桜を呪から守ろうと必死に戦ってくれている。だから僕も彼女を守れるよう、彼女を大切に思う者たちを守れるように強くならなければ」

「ええ。――信じています。紗矢音の中で、あなたを」

 澄が目を閉じる。すると彼女の体は薄れて行き、徐々に夢世界と同化していく。

「澄」

 桜音は手を伸ばすが、それには何も触れない。わかってはいても、伸ばさずにはいられない。

 澄は桜音に背を向け、振り返って笑った。彼女の目元には、透明な輝きが溢れ出している。

「さよなら。あなたを心から愛したこと、決して忘れはしません」

「ああ。……ありがとう」

 澄が消え、少しずつ夢の世界も崩れていく。その中に立ち尽くしながら、桜音は胸の上で拳を握り締めた。

 ――キイイイイイィィィィィッ

 その時、何処からかけたたましい鳴き声が響く。

 感傷をぶち壊され、桜音は閉じていた目を開いて辺りを見渡した。夢は崩れるという異変に変わりはないが、何やら殺意めいた気配が満ち始めている。

「これは……?」

『桜音さま……早く、目覚めを……』

「澄……?」

 姿は見えずとも響く声に、桜音は問いかけた。

「何が起きている?」

『現世にて、紗矢音が化生に襲われています。早く、早く目覚めて下さいませ』

「――紗矢音ッ」

 目元の涙を手の甲で拭きとった時、桜音の表情は変わっていた。恋人との別れを悲しむものではなく、危機に瀕する大切な者を守りたいと強く望むものへ。

 桜音の願いを受け、夢は終わる。崩壊の速度は目にも止まらぬ速さとなり、桜音はこの世界から姿を消した。

 残ったのは、魂の欠片。澄は最期に姿を見せると、自らを一枚の花びらに変えた。

 花びらは風に舞い、紗矢音の中へと吸い込まれていく。




「紗矢音ッ!」

「桜音、どの!?」

 追い込まれていた紗矢音の前に、突然桜音が降って来た。そこは既に千年桜の根元傍であり、あと一歩で化生の手が桜へと届く。まさに正念場。

 驚く紗矢音を背に庇い、桜音は刀を翻させて化生を弾き飛ばした。化生は邸を囲む塀に向かって飛ばされ、受け身を取って体勢を立て直した。

「キシィィィ」

 悔しげに地団太を踏む化生に対し、桜音はちらりと後ろで立ち尽くす紗矢音を振り返る。彼女の美しい単や袿は着崩れ、ところどころ裂けている。それが化生との戦いの激しさを物語り、桜音は悔しげに眉間にしわを寄せた。

「……紗矢音、きみは僕が必ず守る。澄と約束したんだ」

「さや……? それって」

「話は後。必ず、全て話すから」

 何よりも先に、目の前の化生を。桜音の言葉に、紗矢音も頷いた。

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