第3話 思い出せない

「ん……?」

 ぼんやりとした意識の中、紗矢音さやねは目を覚ました。しばらくは視界も定まらなかったが、ゆっくりと自分に何があったのかを思い出して飛び起きる。ぱらり、と額に乗っていた濡れ布巾が単の上に落ちた。

「わたしっ」

「おおっ、目覚めたか! 加減はどうだ、痛い所はないか?」

「……守親もりちか兄上? どうしてここに」

 大きな手のひらで額の熱を計られ、紗矢音は目を丸くする。兄は今、内裏にいるのではなかったか。

 守親ははなだ色の直衣のうしを身に着け、烏帽子をかぶっている。その表情は焦りを浮かべており、紗矢音が心配をかけたのだとすぐにわかった。

 申し訳なく思いつつも疑問を呈すると、守親は「それだがな」と言いながら布巾を手に取る。傍に置いていた水を張った桶にそれを浸し、きつくしぼった。その布巾を紗矢音の額に乗せ、口を開く。

「邸に忘れ物をしたことを思い出し、戻って来たんだ。そうしたら蔵の戸が開いていて、中でお前が倒れているではないか。内裏で会った父に紗矢音にも手伝いを頼んだと聞いたが、どうして気を失っていたんだ?」

「それは……あれ?」

「紗矢音?」

 腕を組んで悩み始めてしまった紗矢音に、守親が尋ねる。うーんと呻いていた紗矢音は、腕を解くとため息をついた。

「思い出せないのです、兄上」

「思い出せない? 何がだ」

「思い、出せないんです。あの時、蔵で『桜音』の書物を探していて、見付けて、読んで、その時何かがわかったのに――」

 巻物の内容は覚えている。その前に閂を抜いて蔵に入ったことも覚えている。それにもかかわらず、自分の中に巻き起こった何かが思い出せない。

 確かに、激しい何かが起こった。決して忘れたくない何か。頭の中で寺の鐘が鳴り響くように、心を揺らす。

 紗矢音は手のひらを見詰め、ぎゅっとそれらを握り締めた。そして、大きく息を吸い、吐き出す。

「……申し訳ございません、兄上。取り乱しました」

「それは構わない。だが、少し顔色が悪い。……父上には、お前が蔵で巻物を見付けたと知らせておこう。向こうでやるべきことが終わり次第、帰って来られるはずだ。そこで、あの巻物については話なさい」

「あ、その巻物は」

「そこにある」

 守親が扇で差したのは、壁際に置かれた唐櫃からひつだ。確かにその上に、古びた一本の巻物が乗っている。

 ほっと胸を撫で下ろした紗矢音は、内裏に戻るという守親を見送った。


 それから紗矢音はしとねから這い出し、唐櫃の上から巻物を手に取った。巻物を紐解き、再び初代桜守が記した記述に目を通す。

 しかし、あの時のような突き上げる感覚はない。激しく心を震わせるものはなく、紗矢音は茵に横になって紗希さきの書いた文字を読んでいる。

「これは、伝説が生まれた訳を書き記しているだけ。桜の木が弱ったその訳を知ることは出来ない、わね」

 父の期待に応じられるものではない。それは残念だったが、紗矢音はゆっくりと身を起こした。まだ見つかっていないのであれば、これから探すことが出来る。

「これは、わたしがやらないと……」

 自分の顔が青いことはわかっている。それでも衝動を抑えられず、紗矢音は脇息きょうそくを支えにして立ち上がった。そろそろと壁を伝い、几帳を出る。の子に出て、家人が誰もいないことを確かめる。

「――行こう」

 足を叱咤し、紗矢音は蔵へと急ぐ。

 庭に出て、裸足のままで転びそうになりながら速足で歩く。既に夕暮れが迫り、辺りは暗さを増していく。

 蔵の戸は開いたまま、守親は閂を忘れたのだろう。早く終えなければ、紗守が帰って来てしまう。

 普通、貴族は大切なものを塗籠ぬりごめに仕舞う。しかし紗矢音たちの邸では、庭の一角に家よりも堅牢で小さな建物を備えている。それを蔵と呼び、桜守として祖先から伝えられて来たものを守っているのだ。

 緊張の面持ちで蔵に入った紗矢音は、あの巻物を見付けたあたりを中心に更なる記録を求めた。幾つかの箱をひっくり返し、積み上がっていた巻物を開く。

 箱には巻物が入っていることもあれば、黄ばんだ紙の束が詰め込んであることもある。それらの文字は何とか読むことが出来たが、紗矢音の求める記述はない。

「何処に……。こうしている間にも、桜は」

「どうして、泣いているんだい?」

「――っ、誰?」

 紗矢音が声に驚いて振り返ると、蔵の入口に誰かが立っていた。しかし沈む夕日が邪魔をして、よく相手の顔が見えない。見えるのは、夕日の光に照らされて赤く染まった白く短い髪と、薄紅色の瞳の色だけ。

 目を細め、男であるらしい人を見ようとする。男はそんな紗矢音の仕草に微笑むと、一歩一歩蔵の中へと入って来た。

「ひ……」

 誰かもわからない、賊かも知れない。紗矢音は男から逃げようと後ずさるが、後ろにあるのは蔵の壁だ。

 すぐに追い詰められ、万事休すかと目をぎゅっと閉じる。すると男は紗矢音の前にひざまずき、そっと彼女の頬に触れた。

「いつもあなたは、誰かのために懸命だ。もっと、自分のために動いても良いんだよ?」

「わたしを、知っているのですか……? あなたは一体」

 あたたかで心地良い手。身を預けたくなるその手に導かれるように、紗矢音は瞼を上げようとした。しかしながら、男の手が紗矢音の視界を覆う。

「――あのっ」

「ごめんね。まだ、きみの前に現れるつもりはなかったんだけれど」

 言い募ろうとする紗矢音の言葉を遮り、男は残念そうに呟いた。そして、彼女の目を手で覆ったまま「眠れ」と口にする。

「……待って、ください。あなたは、だ、れ……?」

 とさり。男の腕の中に、紗矢音の体が倒れ込む。彼女の体を支えた男は、その細い体を抱き締めた。

「ごめん。……僕が弱っていなければ、きみに真っ先に会いに行ったんだけれど。もう少しだけ、時をくれるかな」

 紗矢音の黒髪を梳き、男は切なげに微笑む。紗矢音の体を抱き上げたまま、男は蔵を出た。音もなく歩みを進め、そっと彼女の茵に体を横たえる。

「また会おう、さや」

 眠る紗矢音の頬を撫で、男は姿を消した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る