第3話 思い出せない
「ん……?」
ぼんやりとした意識の中、
「わたしっ」
「おおっ、目覚めたか! 加減はどうだ、痛い所はないか?」
「……
大きな手のひらで額の熱を計られ、紗矢音は目を丸くする。兄は今、内裏にいるのではなかったか。
守親は
申し訳なく思いつつも疑問を呈すると、守親は「それだがな」と言いながら布巾を手に取る。傍に置いていた水を張った桶にそれを浸し、きつく
「邸に忘れ物をしたことを思い出し、戻って来たんだ。そうしたら蔵の戸が開いていて、中でお前が倒れているではないか。内裏で会った父に紗矢音にも手伝いを頼んだと聞いたが、どうして気を失っていたんだ?」
「それは……あれ?」
「紗矢音?」
腕を組んで悩み始めてしまった紗矢音に、守親が尋ねる。うーんと呻いていた紗矢音は、腕を解くとため息をついた。
「思い出せないのです、兄上」
「思い出せない? 何がだ」
「思い、出せないんです。あの時、蔵で『桜音』の書物を探していて、見付けて、読んで、その時何かがわかったのに――」
巻物の内容は覚えている。その前に閂を抜いて蔵に入ったことも覚えている。それにもかかわらず、自分の中に巻き起こった何かが思い出せない。
確かに、激しい何かが起こった。決して忘れたくない何か。頭の中で寺の鐘が鳴り響くように、心を揺らす。
紗矢音は手のひらを見詰め、ぎゅっとそれらを握り締めた。そして、大きく息を吸い、吐き出す。
「……申し訳ございません、兄上。取り乱しました」
「それは構わない。だが、少し顔色が悪い。……父上には、お前が蔵で巻物を見付けたと知らせておこう。向こうでやるべきことが終わり次第、帰って来られるはずだ。そこで、あの巻物については話なさい」
「あ、その巻物は」
「そこにある」
守親が扇で差したのは、壁際に置かれた
ほっと胸を撫で下ろした紗矢音は、内裏に戻るという守親を見送った。
それから紗矢音は
しかし、あの時のような突き上げる感覚はない。激しく心を震わせるものはなく、紗矢音は茵に横になって
「これは、伝説が生まれた訳を書き記しているだけ。桜の木が弱ったその訳を知ることは出来ない、わね」
父の期待に応じられるものではない。それは残念だったが、紗矢音はゆっくりと身を起こした。まだ見つかっていないのであれば、これから探すことが出来る。
「これは、わたしがやらないと……」
自分の顔が青いことはわかっている。それでも衝動を抑えられず、紗矢音は
「――行こう」
足を叱咤し、紗矢音は蔵へと急ぐ。
庭に出て、裸足のままで転びそうになりながら速足で歩く。既に夕暮れが迫り、辺りは暗さを増していく。
蔵の戸は開いたまま、守親は閂を忘れたのだろう。早く終えなければ、紗守が帰って来てしまう。
普通、貴族は大切なものを
緊張の面持ちで蔵に入った紗矢音は、あの巻物を見付けたあたりを中心に更なる記録を求めた。幾つかの箱をひっくり返し、積み上がっていた巻物を開く。
箱には巻物が入っていることもあれば、黄ばんだ紙の束が詰め込んであることもある。それらの文字は何とか読むことが出来たが、紗矢音の求める記述はない。
「何処に……。こうしている間にも、桜は」
「どうして、泣いているんだい?」
「――っ、誰?」
紗矢音が声に驚いて振り返ると、蔵の入口に誰かが立っていた。しかし沈む夕日が邪魔をして、よく相手の顔が見えない。見えるのは、夕日の光に照らされて赤く染まった白く短い髪と、薄紅色の瞳の色だけ。
目を細め、男であるらしい人を見ようとする。男はそんな紗矢音の仕草に微笑むと、一歩一歩蔵の中へと入って来た。
「ひ……」
誰かもわからない、賊かも知れない。紗矢音は男から逃げようと後ずさるが、後ろにあるのは蔵の壁だ。
すぐに追い詰められ、万事休すかと目をぎゅっと閉じる。すると男は紗矢音の前に
「いつもあなたは、誰かのために懸命だ。もっと、自分のために動いても良いんだよ?」
「わたしを、知っているのですか……? あなたは一体」
あたたかで心地良い手。身を預けたくなるその手に導かれるように、紗矢音は瞼を上げようとした。しかしながら、男の手が紗矢音の視界を覆う。
「――あのっ」
「ごめんね。まだ、きみの前に現れるつもりはなかったんだけれど」
言い募ろうとする紗矢音の言葉を遮り、男は残念そうに呟いた。そして、彼女の目を手で覆ったまま「眠れ」と口にする。
「……待って、ください。あなたは、だ、れ……?」
とさり。男の腕の中に、紗矢音の体が倒れ込む。彼女の体を支えた男は、その細い体を抱き締めた。
「ごめん。……僕が弱っていなければ、きみに真っ先に会いに行ったんだけれど。もう少しだけ、時をくれるかな」
紗矢音の黒髪を梳き、男は切なげに微笑む。紗矢音の体を抱き上げたまま、男は蔵を出た。音もなく歩みを進め、そっと彼女の茵に体を横たえる。
「また会おう、さや」
眠る紗矢音の頬を撫で、男は姿を消した。
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