第2話 蘇る記憶

 紗守の頼みを受け、紗矢音は一人で蔵の前に立った。先祖代々の桜守が残したものが眠る蔵には、大昔の書物も大量に収められている。

 紗矢音も幼い頃は兄と共に忍び込んでは叱られたものだが、裳着もぎを終えてからは無沙汰にしていた。かんぬきを外し、重い戸を開ける。

 土のにおいと古いもののにおいが混ざり合う独特の雰囲気の中、紗矢音は目当てのものを探す。大小様々な大きさの箱や物が積み上がる中、紗矢音は埃に咳き込みながらも暗い蔵の中で目を凝らした。

「……あれ、かしら?」

 小窓からの日の光のためか、ぼんやりと光って見える場所がある。物をかき分けて紗矢音が近付くと、それは何本もの巻物の束だった。

 埃まみれのそれを手で払い、光の下で題名を目で追った。

「『さくらねのつたえ』……?」

 言い換えれば、それは『桜音伝説』と同じ意味だ。目当てのものはこれか、と紗矢音は巻物を紐解いた。

 所々虫食いや古さ故に読めなくなっている箇所もあるが、そう多くはない。




 ──……年如月十日。姉、さやが亡くなった。長く胸の病に冒され続けた末、眠るように逝った。

 姉が息を止めた時、時を同じくして音が鳴り響いた。それはあの桜の木から響くように聞こえ、姉の口元が僅かに緩んだ。

 天高く伸びていく音は、やがて姉の魂を導く道のようだったのかもしれない。

 この音を、我らはさくらねと名付けた。


 思えば、姉はあの桜の木をよく愛でていた。大事な桜だと微笑み、愛しさを籠めて見詰めていたように思う。

 姉は幼い頃よりこの桜を慈しみ、共に過ごしてきた。私よりも桜と共にいることの多い人だった。

 しかしそれも、体の弱さを鑑みれば仕方のないことだ。少しでも激しく動けば気を失うような有り様で、弱々しいこと限りなかった。

 そんな姉が目に見えて変わったのは、姉が裳着を終えてしばらく経ってからであったように思う。

 姉が桜と共にいるのはいつものことだが、時折一人で微笑み、誰かと放している様な仕草をすることがあった。

 本当に楽しそうで、幸せそうで。私はその意味を問うことが、一度も出来なかった。

 今思えば、無理にでも訊いておくべきだったろう。

 しかし今なら、少しだけわかる。

 姉は、桜の化身と想いを交わしたのだろう。

 何故そんな突飛な考えが浮かぶのか。それは、姉が一度だけ話してくれたからだ。

 とても美しく、儚い男と出会った、と。それはそれは、嬉しそうに。見たこともないような、輝くばかりの笑みを浮かべて。

 その化身とやらが、きっと姉の魂を惜しむ音を鳴らしたのだ。桜が悲しむことを知らせるために。私たちの代わりに、涼やかな音色で。


 さくらね。――桜音。

 それは、澄と化身を繋ぐ音色だ。

 いつかの世、二人が寄り添うことを願う。


 初代桜守、紗希さき




「澄……。桜の、化身……うっ」

 紗矢音はぐらつく視界と激しい頭痛にさいなまれ、頭を抱えてうずくまった。手に掴んでいた巻物が離れ、床に接してカツンと音を鳴らす。

「わた、しは、さや、ね……。――本当に?」

 ぶれる視界の中に、見たことのないはずの景色が浮かぶ。

 満開の桜の下、誰かが立っている。花びらに隠れてその素顔は見えないが、ただ優しい顔をしていることだけはわかる。――紗矢音には、わかった。

 知らないはずにもかかわらず、心が泣き叫ぶ。と喜びの涙を流す。心がきしみ、気を保っていられない。

 ガタンッ。紗矢音は蔵の柱に背中を打ち付けるようにして、預けた。そしてずるずると足の力を抜くと、胸元を押さえてきつく目を閉じた。

「……はっ、はっ」

 止まりそうな程激しく胸の奥が拍動し、体が熱くなる。熱に浮かされ、紗矢音は途切れそうになる意識の中で巻物を探した。

 目を彷徨わせると、視界の端に転がっているのを見付ける。

「父上に見せないと。桜を、助けるてがか……」

 伸ばした手は、巻物に届く前に力尽きた。紗矢音の体から力が抜け、静かに床に倒れ伏す。

「……知ってる。あの人は、わたしの」

 それ以上意識を保てず、紗矢音は瞼を下ろした。


 紗矢音は夢を見た。

 今よりも若木の桜の下で、自分が誰かと話をしている。

 細く白い指、腕。そして自分のものよりも明らかに長い黒髪と、落ち着いた色目のひとえ。自分ではないと思ったが、夢の中の紗矢音は姿姿

 紗矢音が微笑むと、相手も嬉しそうに笑った。

 薄紅色の衣を身に着け、白い髪が美しい若い男。彼の深い翠色の瞳が柔らかな色を宿し、紗矢音の名を呼んだ。愛しげに、切なくなる程の気持ちを籠めて。

 ――さや、と。

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