第1章 千年桜の病
桜守の人々
第1話 桜守の家
桜守、という役割がある。
それは、この和ノ国で太古より存在する役割を指す。千年桜と称されるただ一本の桜の木を祀り、育てるためだけにある。
千年桜は文字通り、千年を超えて立ち続けるとある桜の木のことだ。和ノ国において数ある桜の中で、唯一つの奇跡の桜。
この春もまた、美しい薄紅色の花を咲かせている。
(けれど、どこか弱々しい……気のせいかしら?)
木の幹に触れ、小首を傾げる一人の姫君がいた。彼女の衣は薄紅の
彼女の名は
そっと木に触れる指は細く白く、濡れ羽色の瞳を隠した瞼が震えた。
「わたしも、もっとあなたのことを知らなければ。なりたいと望む桜守になることなどは夢のまた夢ね」
父も兄も、帝に仕えながらこの桜を守り続けている。その姿を幼い頃から見続けてきた紗矢音にとって、彼らは憧れでもあるのだ。
半ばぼんやりと桜との対話を続けていた時、紗矢音を呼ぶ女房の衣擦れが聞こえた。
「
「父上が? わかりました、すぐに」
女房は紗矢音の返答を聞くと、改めて深々と平伏した。女房が去るのを待ち、紗矢音はもう一度だけ桜に触れる。
「そろそろ行かなくては。……では、また後で」
紗矢音は額を冷たい幹につけ、ふっと微笑む。
物心つく前から、紗矢音はこの千年桜が好きだった。この木の傍にいれば心安らかで、力が溢れて来る。
幼い頃はこの木の傍を離れたくなくて泣いたものだが、今は挨拶をして離れるようになった。何故か、この桜は自分に微笑みかけてくれるように感じるのだ。
紗矢音が踵を返した時、薄紅色の花びらが一枚、風に舞い躍った。
「父上、お呼びですか?」
「入りなさい、大姫」
許しを得て、大姫と呼ばれた紗矢音は勧められた円座に腰を下ろした。
紗矢音を真っ直ぐに見詰めるのは、彼女の父である紗守。彼は朝廷において少納言の地位にあるが、桜守として帝と直に言葉を交わすことの出来る数少ない人でもある。
くっきりとした目鼻立ちで雄々しく、貴族としては優雅さに欠ける。紗守に睨まれれば、その辺の貴族は震え上がるとか。
とはいえ帝の覚えはめでたく、信頼されている男だ。そんな父が、紗矢音は誇らしい。
しかし、そんな父がこれ程渋面を作っているのも珍しい。紗矢音は目を丸くして、父の言葉を待っていた。
「大姫、お前は今の千年桜を見て、感じることはあるか?」
「感じること、ですか?」
一体父は何を言いたいのか。わからない紗矢音はつと考え、先程覚えた感覚を思い出した。
「何処か、弱々しく感じられました。わたしの思い過ごしかも知れませんが……」
「やはりか」
紗矢音は我慢出来ず、身を乗り出すようにして父に問い質す。
「父上、あの桜に何か良くないことが起こっているのですか? だから父上は、それだけ青い顔をしておられるのですよね?」
「ああ、大姫。お前の言う通りだ」
額を手で覆い、紗守は肩を落とす。そして、紗矢音にとって信じられないことを口にした。
「千年桜が、弱っている。この和ノ国を守って下さっていた桜が、命を終えようとしている」
「……何を、おっしゃっているのですか? まさか、桜が……桜が死ぬだなんて」
紗矢音の声が震え、板の床に手をつく。物心つく前からそこにあったものが消えるかもしれない、それがとんでもない衝撃を持って紗矢音を襲う。
青い顔をする紗矢音に対し、紗守は気を落とすのは早いと言いたげに娘の肩を叩いた。そろそろと顔を上げる紗矢音の目は赤い。
「そうならないよう手は尽くす。しかし今のところ、
守親とは、紗守と共に帝に仕える紗矢音の兄だ。父に似て精悍な顔つきをした偉丈夫だが、それでいて繊細な器用さを持つ。桜への想いも優しく温かく、紗守の後継ぎとして期待されている。
「兄上は……」
「今、内裏にて古い書物を調べてくれている。桜が弱ったことは、今が初めてではないはずだ。何処かに似た記述がないかということだ。……私もお前に伝えるべきことが終わったら、もう一度戻る。良いな?」
「はい。ところで、わたしに伝えるべきこととは?」
涙を
紗矢音に問われ、紗守は大きく頷く。
「お前は、『
「――はい。わたしたち桜守の始まりですね」
紗矢音の答えに満足したのか、紗守は穏やかな声色で「今更説明する必要もないだろうが」と前置きした。
「その伝説の中で、千年桜の化身と呼ばれる存在が出て来る。化身と約束を交わした姫君の弟が我らの祖ということだが、お前には祖の記録を探して欲しい。それはこの邸の何処かにあるはずだ」
出来るか、と紗守は問う。紗矢音に拒否するという選択肢はない。桜を救うことが出来るのならば、やることが出来ることは全てやりたいという気持ちでいる。
「やります。いえ、わたしに出来ることなら、やらせてください」
「助かる。では、頼んだぞ」
それだけ言い置くと、紗守は急ぎ足で再び内裏へと戻って行った。
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