第3話 「蒼条海は早く帰りたい(前編)」

「えー、クマノミは両性生殖腺というものを生まれた時から有しており、グループの中で一番大きいクマノミが性転換してメスになります。そして二番目に大きいオスとペアになって産卵をします。もしそのメスが死んでしまった場合、二番目に大きいオスが今度はメスになって……」


 ――あぁ、面倒くさい。


 俺は人前に出るのはあまり得意ではない。自信を持って研究した内容を発表するのは問題ないのだが、こうして客の前で淡々とした解説などすることには向いていない。

 しかもその相手が――、

「ったく、折角の遠足が水族館なんてたりぃぜ」

「俺ら魚は食う専門だからな!」

「あ、言えてる言えてる!」

 いかにも阿呆そうな面構えをした、中学生ども。こんな会話を臆面もなく大声でやっている。学ランの着崩し方を見ても、かなり頭の悪い学校なのだろう。髪も大半染めているか変な剃り方をしているし、ピアスの量も尋常じゃない。こんな連中相手に水生生物がいかに凄いものなのかなど伝わりはしないだろう。

 俺がため息混じりに解説を続けていると、

「オイ、てめぇら! 静かに聞きやがれ!」

 柄の悪そうな女子生徒が一喝した。

「あ、姉御……」

「スミマセン、静かにします」

 どうもこの女子生徒は立場が強いらしい。彼女に怒鳴られて、不良生徒たちは一斉に静かになった。

 ――助かった。

 そのおかげか、そこから先はスムーズに解説が進んでいった。まぁ、自分でも面白みのない解説なのだが、臨時で雇われた身なのだから大目に見て欲しいところではある。

 それにしても――。

 この女子生徒、随分と慕われているようだが。


 ……この学校、男子校じゃなかったか?


 俺は困惑しながら、女子生徒が持っている「汁刃煮悪」という刺繍の入ったマスコットが目に入った。が、気にすることはなく、とにかく今は目の前の仕事を終えることだけ考えることにした。



「蒼条くん、お疲れ様ッ! 今日はありがとね!」

 俺のゼミの知り合い、川辺かわべが手を合わせながらやってきた。

 コイツとは同じゼミなのだが、正直あまり会話をしたことがない。俺は普段は大学で水生生物の研究をしている。コイツも専門分野はほとんど同じで、その勉強も兼ねてこの水族館でアルバイトもしているらしい。で、今日はコイツに頼まれて(というか無理矢理押し付けられて)ここに来たというわけだ。

「全く、明日までに提出しなければならないレポートがあるというのに……」

 俺は小声で文句を言った。

「だってぇ、最近ウチの職員が何人か出勤してこなくて、人手が足りなかったんだよ」

「それで俺に頼むとか、人選ミスにも程があるぞ」

「蒼条くん、私よりも水の生物に詳しいじゃん。だからいいかなって思って」

 何がいいのか、さっぱり理解できなかった。

「いいか、今日だけだぞ! あくまで俺は臨時で頼まれただけだからな!」

 俺は怒り気味に川辺を怒鳴った。

 解説だけでなく、水族館の片付け等も手伝ったために既に時刻は二十時を過ぎていた。早く帰ってレポートの続きをしないと……。まぁ、ある程度は書けているのだが、イマイチ納得できていない箇所を訂正するだけなのだが。

「あ、そうそう。最近この辺で人がよく行方不明になるから気を付けてね」

 ――は?

 川辺がしれっと危険なことを言ってきた。

「どういうことだ?」

「ほら、この水族館の近くに橋があるでしょ? あそこの辺を通りかかった人がちょくちょくいなくなるとかならないとか。うちの職員もそこを通ろうとしたら消えたっていうもっぱらの噂よ」

「……まさか」

 よくある噂の類かとも思ったが、実際にこの水族館の職員が来ないことを考えるとにわかには否定できない気もする。そうでなくても何かしらの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れる必要はあるな。とはいえ、俺は警察ではないからどうすることもできないのだが。

 というか、あの橋を通らなければ帰ることが出来ないのも事実なわけで。仕方がないが、ここは気を付けることにしよう。

「それじゃあ、私は帰るね!」

「あぁ。ちなみにお前は課題のレポートは出来ているのか?」

 俺が尋ねると、川辺は首を傾げた。

「れぽーと? 何の話かな~?」

 ……あぁ。こういう奴だったな。

 おそらく素で存在自体忘れているのだろうが。

 俺はこれ以上何も言うことはないと思い、その場を後にした。



 で、件の橋に辿り着いたわけだが。

 外は既に真っ暗だ。橋の上にはちらほら街灯が明るく照らしているが、一つだけ電気が切れかかっているものもある。

 水族館が海に面しているのもあり、橋の下は海である。柵もそこそこ大きいのでよほど落ちるような心配はないのだが、万が一落ちたらひとたまりもないだろう。

 俺は急ぎ気味に橋を歩き始めた。海水の湿った匂いも辺りに漂ってくる。ビビっているわけではないが、こんな場所はさっさと抜けてしまうに限る。

 と、考えていると、ふと俺は足が止まった。

「おっと、靴の紐が……」

 靴の紐がほどけていた。全く、この急いでいるときに、と思い、俺はしゃがもうとした――。

「……タッコッコ」

 ――ん?

 今、何かの鳴き声が聞こえてきたような気がした。鳴き声か? いや――。

 俺はほどけた靴紐のある足下を見た。

 何かが足首をさするような感触がする。さする? いや、これは巻きついている!

「オトコがまた引っかかっタコ!」

 また誰かの声が聞こえた。鳴き声ではない、声だ。しかも、甲高い女性のものだ。

「誰だ⁉」

 と俺が叫んだ、その瞬間――、

 再度ヌルっとした感触が右足首に掛かったかと思うと、それは力強く俺を引っ張った。俺は必至で抵抗するが、二、三歩前に出るのが精一杯だ。

「タッコッコッ! また一人釣れタコ!」

 気持ちの悪い喋り方と共に、俺は何者かに足首から引っ張られた。

 ――クソッ!

 よく見ると、橋の下から何やら赤黒くて長い紐のようなものが出ている。いや、紐というには太すぎる。これは……触手?

「さぁ、お前もツボに入るタコ!」

 引っ張られた俺の身体はとうとう橋の柵から身体が乗りだしてしまった。

「クソッ、なんなんだ一体……うあぁあぁぁぁッ!」

 必死の抵抗も虚しく、俺は宙に浮くように身体が橋から落ちてしまった。

「ターッコッコッコッ!」

「あああぁあぁぁッ!」

 橋の下にあったのは水でもない。巨大な、大きくて暗い穴だった。こんなものいつの間に……。

 など、考えている暇もなく、俺はそのまま落ちてしまった――。


「……あ、危ないメッ!」


 ――誰だ?

 あの笑い声とは違う、別の声が聞こえてきた。

 が、俺の意識はそこで途絶えてしまった。



「……ん、くっ……、いてて、一体どうなったんだ?」

 気が付くと、俺は赤茶色い壁で囲まれた部屋の中にいた。何か生臭い。地面も壁と同じ赤茶色くて堅い材質だ。

 俺は痛む身体を抑えながら、立ち上がった。

 ――ん?

 よく見ると俺の他にも何人かがここで倒れている。見た感じ、男性ばかりだ。

「おい、大丈夫か?」

「……あ、あぁ」

 かろうじて返事はあるが、ほとんど動かない。目は虚ろになっており、生気が失われているような感じがした。

 一体ここは何なんだ?

「ターッコッコッコッ! 得物がまた一人増えタコッ!」

 甲高い声が、この部屋全体に響き渡るように聞こえてきた。

 どこからこの声は聞こえているんだ? 俺は周囲を見渡すが、倒れている人間以外誰もいない。

 段々頭が痛くなってきた。身体もダルい。何か、生気を吸われているような感じがした。

「お前はここで漢気を吸い取られるタコッ!」

「おとこ、ぎ……?」

 声の主は何を言っているんだ?

 段々、力が抜けてきた。もう立つのも辛い。眼鏡越しに視界が霞んでいくのが分かる。

 ――もう、何なんだよこれは?

「ふふふ、なかなかよくやっているようね。オクトパスアクジョ」

 視界に誰かが入ってきた。これまでこの空間にはいなかった人間だ。しかも女性。

 そいつはやたら赤くて派手なドレスを身に纏っている。こんな奴、さっきまでいたか?

「あら、まだ立っている男がいるみたいね。ふふっ、特別にあなたには教えてあげるわ」

「……誰だ、お前は?」

「そうね。まずは自己紹介から。私は闇乙女族のルビラ。そしてここは我ら闇乙女族の一人、オクトパスアクジョが作りだした蛸壺空間……」

 ――あぁ、ワケが分からない。

 確かに先ほど俺の足を引っ張ったのは蛸の触手のようではあった。が、世界最大の蛸と呼ばれるミズダコでもせいぜい三、四メートルぐらいのはずだ。あんな橋の下から触手を伸ばせるような巨大な蛸などいるはずがない。

 これは悪い夢だ……。

「信じられないって顔をしているわね。まぁ無理もないでしょうよ。ここにいる間はあなたたちの漢気はどんどん吸われてしまうの。ふふふ、漢気が完全に無くなって女になるまでゆっくりするといいわ。完全に抜かれた後はあなたも同じオクトパスアクジョになるけど、ね。それじゃあ、ね」

 ――え、女になるだけじゃなくて蛸になるのか、俺?

 イカン、情報量が多い。一体どういうことだと聞きたい気持ちがあるが、いつの間にかドレスの女は消えていた。

 ――ダメだ。

 俺はなんとか身体を動かして、壁にもたれかかった。ふと近くで倒れている男に視線を落とした。

「あ、あぁ……、なんか、身体が……」

 そいつは男物の服を着ていたからてっきり男だと思っていたが、よく見ると胸のあたりが膨らんでいる。尻も少し大きい。かろうじて出ていた声もやや高い。

「あ、あぁ……」

 しばらくして、そいつの右手が何やらおかしいことに気が付いた。

 ぷるぷると震えた後、段々柔らかい形状になっていく。五本の指はまるで墨を含んだ筆のように一本の先端になっていく。側面にはブツブツした何かが出来上がっていく。

 触手だ――。

 あのドレスの女の言うように、本当に蛸になっていっている。これは……。


「ヤバいメ! みんな漢気を抜かれかけているメ!」

 何やら可愛らしい声が俺の耳に入ってきた。

 そいつはふわふわと舞い降りながら、俺の霞んだ視界にゆっくりと入ってきた。

「だ、誰だ……」

 またワケの分からない生き物が来た。

 これは……、本当になんだ? おもちゃのように見えるが、生き物か? いや、俺はあくまで水生生物専門だが、他の生物の知識を引っ張り出してもこんな生き物は知らない。

「君は、大丈夫だメ?」

 そもそも、日本語を話している時点で色々おかしい。

「……大丈夫、ではないな」

 この現状を大丈夫などと言えるはずもない。

「早く逃げないと、闇乙女族に漢気を吸いつくされるメ!」

 ――そうだ。

 早く逃げないと……。


 レポートが、できない――。


「おおおおおおおおッ!」

 俺はもう一度気合を入れなおした。

 根性論は大嫌いだが、今は根性でなんとかするしかない。

 でないと、今日中に帰れない。帰れなければ、レポートが出来ずに、明日までに提出が出来ない。

 絶対、俺は帰るんだ――。

「す、凄い漢気だ、メ」

 ――ふっ、漢気か。

 あまり自分の人生で縁のない言葉だったが、今はいいかもな。

 さっきのドレス女もその言葉を使っていたな。で、ここにいるとそれを吸いつくされて蛸になるとかなんとか。

 冷静に纏めると本当に非理論的な話だ。仮に本当だったとしても、そんなの御免だ。

「絶対、帰って、レポートをやってやるッ!」

 俺は思いっきり叫んだ。

「……キミなら、この力を使いこなせるかもしれないメ!」

 そう言って、ふわふわした生き物が俺に何か渡してきた。

 ……これは、なんだ?

 金色のリング状のもの。中心部には青いハートマークがあしらわれており、どことなく少女趣味な感じがする。

「これは……?」

「それを左手に着けて『オトメリッサチャージ、レディーゴー』って叫ぶメ!」

 ――あぁ、こうなったら言うとおりにしてやろう。

 意外なことに、俺はためらう気も起きなかった。この現状を打破するためなら何だってやってやる。理屈の通らないことは嫌いだが、理屈は後でいくらでも作りだせる。それが世界というものだと俺は思う。

 仕方がない、やってやる!

「オトメリッサチャージ、レディーゴー!」

 俺は言うとおりブレスレットを装着して大声で叫んだ。


 その瞬間、ブレスレットから光が溢れだして俺の身体を包み込んだ。

 なんだ、これは。奪われ続けていた俺の気力が徐々に回復しそうになるぐらい暖かい。

 水色に変化した光の粒が、俺の身体を包み込んでいく。段々、胸が痛くなるが、しばらくして重いという感触へ変化していく。尻もどことなく大きくなっていく。

 髪が一気に伸びていき、絡み合いながら、右側のほうへ結ばれていった。

 服も光の中で、変貌を遂げていき……、


 やがて、光が消えた。


「溢れる知識の海、オトメリッサ・マリン!」

 俺は、いつの間にか変な台詞を発していた。


「メ! オトメリッサ・マリンの誕生だメ!」

 ふわふわした生き物がコンパクトの鏡を俺に見せつけてきた。


 そこにいたのは、サイドテール状の青い髪の少女。歳からして中学生くらいか? 青いレオタード状の服に白いスカートと金色の装飾という恰好で、胸はやや大きい。

 目の前のコンパクトにこの女が映っている、ということは……。


「俺、か?」


 ――多分、まだ悪い夢を見ている。

 その時の俺はそう思っていた。

 が、それが現実だと気付くのにそう時間は掛からなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る