第8話 誘いの空気

「うわぁ! すっごい! きれいなニンゲンっ!」


美しい人間の少女を見て、微風の精——マルテは喜びに目をきらめかせる。

王女アーシェは剣を納めて微笑んだ。


「そちらこそ、とってもかわいい精霊さんね?」

「ねぇねぇお師さま、かわいいって! 褒められちゃ——あ。消え……」

「……やっば! いけない——【風よ在れフルラ=ラル】っ!」


薄まった精霊体からだの芯に声が響いて力が満ちる。

俺はどうにか解放された。ひどすぎない?


「うぅ……いてて……。」

「ごめんね? 封じが強すぎたかな? すっごい勢いだったから、つい……いきなり襲うのが趣味なのかな?」

「いや……どちらかといえば合意のうえで……じゃなくて! きみが、その……あまりにも——」

「あまりにも……似ていた、かしら? 封じられてた魃竜ヴリトラに?」


なぜ、それを?

俺は唖然と王女を見つめた。


「お師さま、すっごい、ダメな顔〜!」


うるさいよ……。

せっかく精霊体なのに、イケメンの夢はかなわなかったよ。


「そうだね、あはは……!」


あんたもか……。

あははじゃないよ? 傷つくよ?


——なんなのか。

俺は、か細くため息をついた。暴風なのに。


「……そのとおり。きみの顔は……いいや、すべてが、俺が見たヴリトラそのままだ。いったい、どうなってるんだよ?」


くるりと後ろを向いたアーシェは、大きな岩——王様が眠る目印だ——にそっと触れる。粗い岩肌を小指の爪でかりりと掻いた。


「——わたしはね。」

アーシェは言った。


マルテはふわりと漂うと、大岩の上に腰掛ける。雲に興味が移ったのか、空を見上げて足をぶらぶらさせはじめた。


「わたしは、封印のかなめなの。要だった、というべきかな? ……これを見て。わたしたちが双生の輪ジェミニと呼んでた祭具の片割れ。」


左腕に嵌まった大ぶりな腕輪。

ヴリトラのものと同じ、緻密な意匠の金細工だ。そのもうひとつの片割れを、喜び勇んで焼き切ったのは……俺、なんだよね……。


「知ってるでしょう? 竜は金ぴかの飾りが大好き。そしてヴリトラには独特の癖がある。美しい娘を見かけると、姿をそのまま真似る癖がね。とても都合がよかったわ。」


俺は、黙って頷いた。


「同じ姿に、同じ腕輪。発動したわ。わたしを使った【双縛の法ジェミニロウ】——封じの術がね。あいつが弱って死んじゃうまで、あと少し。ほんの少しのところだったの。」


「じゃにみ……なに?」

マルテがつぶやく。聞いてたの?


しかし、双子ジェミニで……わたしを、使う……? 

双子というのは……それはつまり。


「……もしかして。死ぬ、つもりだった?」

「気づいちゃった? 優しいのね。……そうなの。わたしも死ぬはずだった。不滅の邪竜ヴリトラを道連れに。それなのに、おめおめ生き延びちゃったってわけ。……ねぇ、風くん?」


近い。顔が。金髪美少女。くっつきそうだ。


「な……な。なんだよ?」

俺はたまらずそっぽを向いた。


王女が耳元に囁きかける。朝露の滴る、甘い声。

「旅に、出ない? わたしと一緒に!」


なにを……旅?


「え……たび? なんで?」

「なんでって……。あなた、なんでしょ? 知ってるんだから。」


知ってる? 

まさか。知ってるのか? 

封じの腕環を、ぶっ壊したのが俺だって。


どうしよう。だめだ。逃げるか。そうだ。逃げよう。


「ねえ? どこ行くの? 逃げないで?」


王女の声は、驚くほどに優しかった。それだけに一層、不吉な圧力を放っていた。どこに逃げても、逃さない。そして彼女は、そのための力を持っていた。


俺の乾いた空気の体に、出るはずのない冷たい汗がつたう気がした。

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