第5話 救出の空気
それから3ヶ月の月日が過ぎた。
古びたベッドに仰向けに横たわるエルフの少女は、すっかり痩せて、ほとんど喋らなくなっていた。きれいだった金色の髪はぼさぼさで、肌はがさがさに荒れている。
それも、今日まで。
今日、おれが。
空気のおれが、きみを救ってあげるから。
きみは王国に元気で帰って、大切な民を救うといい。
窓を呼び出してステータスを確認。
ちょっとうざいなと思ってたけど、念じれば出し入れ可能だった。
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名前 : 未設定◁
種族 : 空気
Lv. : 18 (Exp. 733/1900)
SP : 430/450
スキル : 収縮+ 拡散+ 吸息
【未選択: 2 ▼】
▼
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調子は万全。
この日のために、だいぶ鍛えた。
誰かのために、自分から頑張ったなんて……たぶん初めてじゃないだろうか。
軽く【拡散】して天井近くに浮かんでいれば、姫に吸われることもない。
元気が出るみたいだから、たまに、少しだけ吸わせてあげたけど。
「……ん……うぅーん……。」
姫、寝てるな。
——さて、やるか。
【収縮】で密度を増して降下する。ベッドのそばに降り立った。
空気の指を、エルフっ娘の右手首に光る金の腕輪に近づける。
(【拡散+】……!)
まずは準備。
おれの
おれに実体があったなら、背中からぶっといホースを伸ばした気持ち悪いおっさんになるだろうな。
(よし……【吸息】……。)
室外の空気を
部屋の空気を吸いすぎると、酸欠で姫が死ぬかもだからね。
(【吸息】、【吸息】、【収縮+】、【吸息】……)
そして、取り込んだ空気を操作する。
(【収縮+】、【収縮+】、【吸息】、【収縮+】、【収縮+】……)
見えない左手は層状を重ねた薄く固い板。
見えない右手は鋭い杭をイメージする。
(【収縮+】、【収縮+】、【収縮+】、【収縮+】……!)
収縮をこえて、圧縮する。無尽蔵に送られる新鮮な空気は、絶え間なく圧縮されて高圧となる。地味な反復は、ブラック労働で鍛えた俺にはお手の物だ。
(【収縮+】、【収縮+】……!)
高まる圧力。至る高熱。
果てしない圧縮に次ぐ圧縮を経て、ついに杭の尖端に小さな白閃が輝いた。
周囲に空気を圧し重ね、細かな形状を制御する。
魔法で守られた金の腕輪?
こっちの文明はどう見ても中世かそれ以下レベル。この世に存在しないほどの高熱は、さすがに想定外なんじゃないか?
ばち、ばち、と閃光が弾け、独特のオゾン臭が鼻を突く。
鼻、無いけど……。
気休め程度だが、断熱層とした左手の板を腕輪の下に差し入れる。
せめてもの防りだ。火傷したらごめんね。
「……う……うぅん……?」
お、やばい。
とにかく、ここからは時間が勝負。
姫が気づいて起きる前に、すみやかに腕輪を切断する!
(——
鋭く迸る白熱を、金の腕輪に滑らせる。
切断に抵抗するように、表面に複雑な模様と青い障壁が展開。
ぼうと浮かんで輝いたそれはしかし、一気にひび割れ砕け散る。
ばち、ばちん。金が崩れる。
熱したナイフでバターを切るかのように呆気なく。プラズマの刃は数秒たたずに少女の
(——っ、よしっ! あとは……【拡散+】!)
集めた空気を【拡散】させて屋外に排出し、俺自身も天井付近へと浮かび上がる。
へへ、姫ちゃん、驚くだろうなあ……。
「——んん。なに……?
異変を感じて目を開ける。
少女は、がばっと起き上がる。
(——お、気づいたな。)
やつれた少女は呆けた顔で手首を持ち上げ、しばし見つめた。ぼやけた視線が定まっていく。
「……あ……うで、わ……? 無いわ……うそ……!」
(——戸惑ってるのも、かわいぃなぁ……)
「腕輪……壊れた……? ふふ……うふふ……。」
よかった。とても……嬉しそうだ。
さぁ、喜べ。すてきな笑顔をおれに見せ……ん?
「あ……は……♡ あはは……!」
笑顔の少女。
天井から見るその笑みは少女ではなく、おぞましく裂けた暗い峡谷。
「……くくっ……はッはァァア……!」
凄まじい狂気に満ちた声が、小さな部屋を罅割らせた。
「あァーっははッハァァーー!!」
黒く澱んだ重い空気が床に広がり、垂れ込める雲のごとくどろりと満たす。
壁に、床に、部屋全体に仕込まれた守りの術式が、ばちりと弾けて色を失い。
(——ちょっ……な……?)
その瞬間。
閉ざされたはずの鉄扉がバンと開く。
武器を携えた3つの影が、次々に現れ身を躍らせた。足元に広がる黒雲を見て、男たちは驚愕を顔に浮かべた。
「ぐっ……ばかな……【
「……なぜだ、魔法がっ……? 封印はどうした!」
「まずい、腕輪が——【
物々しい武装を身に纏い、険しい表情の男たち。
明らかに俺より若そうなのに、顔には無数の皺が刻まれ、歴戦の勇士の貫禄だ。
その男たちが、目の前の少女——いや、少女のようなナニカに、怯えている。
「……あら、なぁに?
背が、伸びている。
体つきは成熟した女性のそれに。
肌はすべらかな灰色に。
繊細で豊かな金髪は、勢威あふれる深い紫黒に。
側頭部からは禍々しく捩れた2本の角が生えていた。
「なぜって言っても……知らないわ? 起きたら失くなってたんだもの?」
エルフだった少女——いや、女は、細長い指を頬に沿わせて首を傾げた。
「……失くな……っ、ばかな!」
「……ばかな? そう。そうね、たしかに。どこかの
お人好し……ばか、って、俺が……。
気持ちよさそうに伸びをする女が、くいと顎を上げ天井を見る。
——え、目が……合った?
目、ないけど……って、言ってる場合じゃなさそうだ。
「はぁ……。さて、と? お腹もすいたところだし……。」
女は言った。
恐れに固まる戦士たちに、蠢く黒雲がするりと触れた。
「食事にしましょう? わたしの愛しい
そう言って、彼女は扉へと歩き始めた。
軽やかに。庭に散歩にでかけるように。
小さな部屋に、ひび割れ乾いた骸が3つ。
そして、みじめな
——愚かな俺は、のちに知る。
女は名前をヴリトラと言った。
数多の犠牲を積み重ね、封印された厄災の蛇——《
一昼夜のうちに数万の人間が彼女に吸われ、ひとつの国が滅亡した。
その日の罪を、俺は生涯背負い続けることになったのだった。
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